2004年12月30日

カンマ一つで……

以前に購入して積ん読になっていたアミール・D・アクゼル『羅針盤の謎』(鈴木主税訳、アーティストハウス)を読む。世界三大発明の一つともいわれる羅針盤についての概説書なのだけれど、中国起源説などへの目配せなどもちゃんとあって、著者のかなりフェアな立場に好感がもてる。それにしても面白いのは、その「西欧での」発明をめぐるエピソード。西欧では、羅針盤は一応南イタリアのアマルフィが発祥の地とされ、フラヴィオ・ジョイアという人物が発明者だということになっているそうなのだが、実はこの人物、史料の誤読が招いた架空の人物である可能性もあるのだという話。

アマルティでコンパスが発明されたと最初に文献に記したのは、15世紀初頭の歴史学者フラヴィオ・ビオンドという人物なのだそうだが。その後、今度は16世紀初頭の文献学者ジャンバティスタ・ピオがアマルティとコンパスについて述べることになる。そして問題なのはその後者の一文。"Amalphi in Campania veteri magnetis usus inventus a Flavio traditur..."というのがその文で、そのまま読むと「古カンパーニャ地方のアマルフィにおいて、磁石の利用がフラヴィオにより考案されたと伝えられる……」。ところがこれ、inventusの後にカンマがあれば、「古カンパーニャ地方のアマルフィにおいて磁石の利用が考案されたと、フラヴィオによって伝えられている……」。この場合のフラヴィオは、上のフラヴィオ・ビオンディのことを指すのではないか、フラヴィオ・ジョイアという人物が仮構されたのは、そのカンマがいつしか抜け落ち、誤読が誤読を読んだ結果ではないか、というわけだ。この問題をめぐっては賛否両論があって、決着はついていないのだという。史料の読みの難しさと、そのスリリングさとを改めて感じさせるエピソードだ。

投稿者 Masaki : 20:21

2004年12月28日

災害と想像力

未曾有の惨事になっているインド洋の津波。外国のニュース映像などを見てみると、かなり凄惨な状況になっているみたいだが、遺体や怪我人の映像をあまり流さない(流せない)日本の報道では、どうしても物的損害やら津波そのものの映像ばかりに力点が置かれがち。で、放映されている映像には、水が引いた海岸に観光客がカメラなんかを手に野次馬的に集まっている光景などもあったし、撮影者本人も巻き込まれなければ撮れないようなものもあって、普通そういう異常な状況になったら逃げるのが先決だろうに、と思ってしまう。彼らはなぜ逃げないのだろう?津波の怖さを知らなかったから?それとも何か面白い映像が撮れる、珍しい光景が見られると思ったから?

これ、考えてみると同じ問題に帰着するのかも。誰もがカメラを手にしている今、そして日々ジャーナリズム的な映像にどっぷりと浸かっている今、自分にとって未知の事象に臨んだ際にまず作動するのは、危機に対する想像力ではなくて、ジャーナリスト的な視線の方になっている気がする、と。で、この二つは多くの場合に相反する。あらゆるものがスペクタクルになってしまうと、それが突きつける危機への身構えはガタガタになってくる……。やはり重要なのは、危機に対する想像力を鍛えること。けれどもそれは、為政者らの管理強化を増長するような「漠たる不安の一般化」とは別の次元で鍛え上げなくてはならない。これが難しいところ……って、そもそも生きるってこと自体が、本来そういう感覚を研ぎ澄ますことだったんだけど……。

投稿者 Masaki : 18:22

2004年12月25日

モミの木

もうクリスマス。フランスでは、ライシテ(非宗教)法の関連で、クリスマス休暇前にモミの木を飾った学校で議論が起こったそうだ。モミの木は公的な場での宗教的シンボルを禁じる法律に抵触するんじゃないの、という話。今や世俗的なホリデーのシンボルだといくら弁明したところで、モミの木がクリスマスに関連するのは否定しがたいと思うのだけれど……法の規制強化がどんな副次的影響をもたらすかを示す面白い事例だよね。

ジャン・ポワリエほか編纂の『風習の歴史』第1巻("Histore des moeurs I vol.1", folio-histoire, Gallimard, 1990)によると、クリスマスにまつわる伝統は大きく二つあって、一つは地中海ラテン系の「crèche(キリスト生誕模型)」を飾る風習。それに対して、赤のリボンを付けた常緑樹を戸口や窓につるしたり、モミなどの木を立てるのはゲルマン系の風習。常緑樹は生命力のシンボルで、『シンボル事典』("Dictionnaire des symboles", Robert Laffont / Jupiter, 1982)なんかに詳しく出ている。けれども風習として木を立てるというのは意外に新しく、16世紀のアルザスの旅行記で言及されるのが最古なのだとか。16世紀のブレーメンの職人組合の祭りが起源だという説もあって、ドイツ全体に広がったのは19世紀のことなのだそうで。図像的には、16世紀のドイツの画家、ルーカス・クラーナハ(父)による銅版画が最も古いとされている。銅版画『聖ヨハネス・クリソストムスの悔悛』あたりがそれらしい。こういう話はなかなか面白いよね。

(久々にLiveCamシリーズ:2004年10月29日のパリ)
paris1029.jpg

投稿者 Masaki : 17:36

2004年12月22日

CD-ROMとか

最近、フランス産(笑)のCD-ROMを2種類購入。1つは『フランス語宝典(Trésor de la langue française)』(CNRS Editions)。これはオンラインサイトにあるものをそのままCD-ROMに収録したもの。語源や古い用法などを見たい時には便利なツール。ま、回線が生きているならオンライン版で問題ないのだけれど、いざというときのためにデータはローカルに持っていたいというのも人情。MS-Wordとの連携などCD-ROMならではの機能もあるけれど、どこか検索ツール(htmlだ)のインターフェースがやや古い感じ。というか、作り込みがイマイチ甘いというか。ちなみにこれ、紀伊国屋なんかでも扱っているみたい。

もう一つはLe monde diplomatiqueのCD-ROM版。今年10月までの26年分の記事を集めたもの。届いたばかりなので、まだちょっとさわってみただけだけれど、なかなか使いやすいインターフェース。記事も英訳、独訳、西訳、伊訳などまで入っている。そういえばLe monde diplomatiqueは去る5月に50周年を迎えたんだっけ。5月号に付いてきた折り込みの旧紙面特集で見ると、創刊号の一面はハルロド・ニコルソン卿の「旧い外交・新たな外交」が巻頭を飾っている。目次で見るとわずか8ページ。カルティエの広告が入っていたり。今とは大分雰囲気が違うのね。

そういえばLe Mondeの方も先日(12月19日)で60周年。こちらの創刊号は少し前にオンライン登録者に1面の復元を配っていたけれど、オンラインでも見られるようになっている。こちらの創刊号の1面はこちらのサイトが詳しくレポートしている。Le Mondeをめぐってはつい最近編集局長の辞任が報じられたばかり。発行部数の伸び悩みが原因とか言われていたが、ちょうどそのころ、クリスマスのプレゼント向けに、オンライン版への登録ライセンスといくつかの記事をCD-ROMにファイル化したパッケージを売ろうとしていたのがなんだか泣けてくるよなあ……。報道と情報化という話、改めて考えたいところだ。

投稿者 Masaki : 15:52

2004年12月18日

内破の鍵

拉致被害者のものとされた遺骨の鑑定結果に、北朝鮮が「認められない」とのコメントを出したそうだが、日本側からすればお門違いともいうべきそのコメントが一見寒々しいのは、科学的調査をも政治的イデオロギーと一緒くたに見て、相反する主張はすべてレトリック・解釈の問題にしてしまえばいいというどこか安直な対応と、「自分たちがやっていることは他国もやっているはずだ」という北朝鮮側の不信感を、改めて見せつけるからだろう。なるほど、不信感を抱いているのは彼らの方なのだ、ということがよくわかる。その障壁がなくならないのでは、問題は解決に向かっていきようがないのだけれど、と同時に、あるいは彼ら自身のイデオロギーの内破は、案外そういう不信感の表面化、客観化によって崩れていったりするんじゃないかしら、と思ったりもする。表面化は揺さぶりだからだ。

上の寒々しさの二つのポイントは、実は一般的な歴史認識の問題にもよく似ている。歴史とは歴史として書かれる「物語」のことにすぎないのかという話と、現代人が捉える歴史はその現代人の感性によるバイアスを逃れられないのかという話がそれで、どちらも乗り越えるべきアポリアであるのは確か。例えば、邦訳が長らく品切れで最近になって復刊したポール・リクール『時間と物語』第1巻("Temps et récit", Seuil - Points, 1983)では、その中ごろで、レイモン・アロンやマルーによる歴史批判(歴史家の視点や問いが歴史記述を作り上げるという構築主義的考え方)や、アナール派の実証主義批判などが再検討されている。そこから浮かび上がってくるのは、歴史と物語(語り)が同一視されるような場合において問われなければならないのは、その語りがどういうものであるかという問題だということ。そのあたりの自己内省的な構えがあってはじめて、そうしたスタンスはしなやかな歴史認識に開かれうる。凝り固まっているイデオロギーも同じこと。それを開いていく鍵は内的なものだろうけれど、きっかけは外からでも与えられるんじゃないかな、と。

投稿者 Masaki : 22:02

2004年12月11日

核の話、再び

年末進行に入り忙しいのだけれど、カール・シュミットの『政治神学』なんかもぼちぼちと眺め始めていたり。19世紀以来、ドイツではそれ以前の主権概念の伝統が一端途切れ、社会学・法学がそれぞれ概念的に囲われてしまうと、特に後者においては、客観的な法体系という考え方により、そこに本来関わってくる(中核を占める)主権問題はいよいよ覆い隠され、捉え損なわれてしまう……なんてなかなか興味深い話でないの。この構造上導かれる「捉え損ね」は、とても大事な問題という気がする。

ちょうどフランスでは、性犯罪の再犯で捕まった男の裁判で判決が出たりして、F2などは、男が手続き上のミスで釈放されて再び罪を犯したことから、司法制度の欠陥として取り上げていた。けれども、前のアーティクルのジジェク的な見方をここに適用するならば、司法の具体的な適用が、法の体系的規定そのものを「実現」するには至らず、そこに大きな溝が生じるというのは、実は構造的なものなのかもしれないにもかかわらず、現実にはそうした溝を溝として認識するというよりも、より精緻な法整備をなすことによって、結果的に法の縛りはいっそうきつくなるという構図になってしまう。かくして管理社会はいっそうの強化に向かい、溝は溝のまま、先送りされた形でその管理社会を安定させる。なるほどね。フランスの事例が今後、対症療法的な欠陥部分の手直しで済むのかどうか、より大きな法改正になるのかわからないけれど、なんだか後者への傾斜がますます強まっていくような気もする。で、決してこれは人ごとではない……。

投稿者 Masaki : 21:16

2004年12月10日

倒錯的な核

学生時代にフィリップ・K・ディックのSF『ヴァリス』を読んだ時、新たな救世主となるはずの者がすでにこの世を去っているという設定に、なるほどキリスト教の根本にもそういう喪失感があって、それを中心に様々な表徴が構築されているのかもなあ、という感慨を抱いたことがあった。この問題機制、以来突き詰めようとし損ねてきた感じもあったのだけれど、最近読んだジジェクの『操り人形と小人』(中山徹訳、青土社)によって古傷を改めてつつかれた気分になった。同書は、精神分析の側からそういう核心部分をめぐる問いへと下りていくスリリングな(けれど晦渋な)試み。この読みによると事態はそれほど単純ではなくて、突き詰めていくと「神」というのは「神」と人間とのギャップそのものでしかない、一者は一者に還元されず、宙づりのままになってしまうという構図が出てくるという話になる。ここに例のアガンベン的な例外状態の論がからみ、愛や法や罪といったものがいずれも倒錯的な形で構造化されている様を、これでもかこれでもかと投げつけてくる。うーん、時事問題や多少下世話な話も出てきたりして、ある意味爽快でもあったりするあたりが、やはりジジェクの微妙な持ち味。移民擁護を吹聴する知識人の言葉をなぜ文字通りに受け取ってはいけないのかとか、テロルと戦うことがなぜ民主主義を破壊するのかとか……いろいろ。

こういう本はそもそも誤読してナンボなのだけれど(笑)、それにしても、閉じつつ閉じていない決定不可能な系という、ことさら最近よく耳にする構図(ここでは精神分析的に扱われている)では、時間の刻印といった問題をどう扱うのか、なんて問題が今ひとつ見えてこない。キリスト教の構造が特殊な読みを通じて取り出せるとして、それは現象としても解釈としても時間を刻印された営為としてしか取り出せないんじゃないかと。うーん、この間の「共時態の問題がもしかしたら突き詰めると通時態の問題になるかもしれない」なんて話もまた「倒錯的な核」ってことになるのかしら……。

投稿者 Masaki : 22:50

2004年12月03日

ソシュールなど

『月刊言語』(大修館書店)12月号は「言語研究の現代性」と題した特集。たまにこういう最前線報告みたいな特集があるけれど、今回も生物学、大脳生理学、コンピュータサイエンスでの自然言語処理、行動心理学(ゲーム理論)などなど、もはやメインストリームは自然科学的アプローチにあることが如実に示されている。コラム扱いになってしまっているソシュール再考、サピア再考などがちょっと哀れな感じもしないでもないが、中身はまだまだ。ソシュールの一般言語学は弟子たちが講義ノートを再構成したものだけに(学生時代にエングラー版のノートを読むという授業を受けたことがあって実に面白かった)、当然その講義の元の姿を構築しなおそうという動きは昔からあったわけだけれど、松澤和宏「ソシュールの現代性」は、ソシュールの考える時間概念に再検討の余地があるという話を紹介して、通俗的な共時態理解を斥けようとしている。うん、なるほどまだまだ掘り起こすべき検討材料はいろいろ転がっているかもしれない。個人的にも、2002年に刊行された『一般言語学草稿集』("Ecrits de linguistique générale", Gallimard, 2002)を今さらながらぼちぼちと読んでいるのだけれど、質料形相論の伝統とか感じられる気もしたり。

加藤泰彦「サピアの現代性」も、その経済性や自律性の概念が現代の問題に重ね合わせられうるものだということを示していて興味深いし、赤松明彦「パーニニの文法」では、サンスクリット文法の始祖だというパーニニの文法が、プログラミング言語にも匹敵する簡潔性・体系性を備えていることを指摘していてこれまた刺激的。そう、考古学的な掘り下げの可能性はまだまだ大きく開かれていそうだ。

投稿者 Masaki : 22:27