2005年01月31日

公共放送……

NHKの各種お粗末な対応や姿勢に、受信料支払い拒否で抵抗する市民……という報道を耳にするたび思うのは、もちろんこれは構図としてはもっともらしいのだけれど、実際にはどういう人が「抵抗運動」をしているのか見えてこないということ。きちんとした理念にもとづいて拒否をしているというよりは、むしろもともと払わない・払いたくない人が、渡りに舟とばかりに拒否しているようにも見えてしまう。ま、それで制度的なものにまで批判が及んで創造的な破壊がなされていくのならいいのだが……。そもそも今回の、特に政治的圧力云々の話は、制度そのものを見直すいいきっかけになるはずなんだけれど、なんだかそういう方向にはなかなか話がいかなさそうで……。

受像機が一台でもあれば世帯単位で強制加入させられ、しかも毎月課金されるというシステム自体がもう現状にそぐわない気がする。デジタル放送に切り替われば機器そのものを買い換えるのだから、むしろその機器購入に受信料金が含まれるシステムに切り替える方がよっぽど合理的だ。機器が使える内はいくらでも視聴でき、追加料金は発生しない、というふうなシステムにしてほしいよなあ。それで受信料収入が激減するのなら、それに合わせて放送業務自体を縮小すればいいし、あるいは別のサービスでの課金(ネットでの配信業務とかも解禁すりゃいい)を考えてもいい。民間と視聴率なんかで争わせたりしないで、放送大学みたいに教養番組系を大幅に増やすとかね。スポンサーに左右されない放送局が一つぐらいあっていいはずなので(災害時などに役立てられる)、規模を縮小し、民放などに比べて普段の影響力を低下させれば、政治家だって圧力をかける意義を見いだせなくなるというものだ。なにかそういう抜本的な改革があってほしいのだけれど……。

投稿者 Masaki : 15:30

2005年01月27日

メソス

昨日は某出版社の方々と会食。その席で、「ギリシア語でメディア(媒体)は何というんです?」と問われたものの、恥ずかしいことにすぐ出てこなかった(苦笑)。うーん、いかんなあ。で、正解はμέσος(中間物、媒体)。あるいはπόρος(手段、架け橋)あたりか。ちなみにギリシア神話の王女メデイア(Μήδεια)はまったく関係なし(昨日はちょっと勢いで妄言吐いてしまったけれど……小文字で始まるμήδεαには、たくらみとか、男性の陰部とかの意味もあって、言葉遊び的になら面白い「意味の場」が立ち上がってきそうだけれど)。ちなみに、Μηδίαというと、現在のイラン北西部(イラクあたり)の古王国。

投稿者 Masaki : 11:32

2005年01月22日

写真の真実?

昨晩の筑紫のニュース番組で在りし日のスーザン・ソンタグの姿が放映された。昨年末に亡くなったソンタグだが、日本のメディアはさほど大きな反応を示さなかったように思う。同番組でも、ブッシュ2期目の就任式を報じる中で、アメリカの良心みたいな部分でわずかに取り上げただけだけれど、一応、イラクのアブグレイブ刑務所での虐待写真についての「これは私たちの姿そのものだ」という批判を紹介していた。うん、ソンタグの写真論は写真を通して浮かび上がる現実そのものに向かっていくのだったっけね。けれども写真と、それが切り取るはずとされる現実との間には、時に深い溝、断絶があったり……。

そんなことを改めて感じさせるのは、写真をめぐる興味深い出来事が立て続けに二つあったから。一つは拉致被害者の写真とされたものが、実は脱北者の写真だったという誤報道(というか情報提供者の詐欺)。北朝鮮がらみの情報提供者の信用を著しく傷つける結果になってしまったこの一件だが、それにもまして興味深いのは、写真がもつ信憑性(写っているもの自体の信憑性や、写されたという事実の信憑性も含めて)を支えるのは何か、という問題。今回のこのケースでは、写真が先にあって、それに現実の状況(失踪事件)を当てはめようとする動きが誘発されたという構図が明らかだけれど、実はそれ、なにもこのケースに限らず、写真というものに対するごく一般的な構え方(程度の差はあっても)だったりもする、と。このことは、ホイヘンスから送られてきたタイタンの地表の写真からも感じられた。例えば「なんか火星に似ているんじゃないの」とか思った瞬間、すでにして上の構え方の中に取り込まれてしまっているのは明らかだ……。けれども、任意の写真に現実の状況、既知の情報が当てはまらない、となる可能性も常に付随している。写っているものは本当に存在した、写っているのだから本当に存在する本物だという「信じ込み」を支えるのは、そこに既知のものの痕跡を見ようとする姿勢だ。で、時にそれは、決定不可能な曖昧さ、既知と未知のグレーゾーンを開いたりもするのだろう。写真をめぐる批評って、まさにそういう場に意識的に降り立つことから始まるのかも。

投稿者 Masaki : 11:46

2005年01月19日

カフカ……

昨日、新国立劇場の小劇場で『城』を観た。カフカの原作を再構成した舞台(演出は松本修)ということで、結構期待していったのだけれど、個人的にはちょっとイマイチな感想。セリフは一本調子で叫ぶだけ、テレビドラマ風の安っぽい音楽の入れ方、かつてのアングラものを思わせるモブシーンでのあまり意味のない動き……なんだか小劇場系のさほど好ましくない部分ばかりが目につく感じ。不条理劇の迫り来るような不安感もなく(それは原作のせいかな?)、なによりも歌舞伎の見得のような演出はこういう不条理ものにはそぐわない。おしなべて表面的な「和風」のカフカ……って、ちょっと難あるよなあ、これ。変な比較になってしまうけれど、日曜にテレビ放映していたギリシア悲劇『アンティゴネー』の方が、よっぽど不条理ものの王道という感じだったな。舞台衣装などは和風なのに、ダイジェストのテレビ画面を通じても感じられる、せり上がってくるような重苦しさは、まさしくギリシアものの舞台の醍醐味そのものだ。

とはいえ、今回の公演では、時折字幕として挿入されるカフカの引用文が妙に面白かった。なるほど、アフォリズムとしてのカフカの面白さ、というのは発見だったかも。城をめぐる全体構造が見えない主人公のKは、出所もわからない目前のメッセージの断片にただ翻弄され続けるわけだけれど、未完の『城』そのものが、すでにしてアフォリズムの集成として読まれるしかないのかも。さらに、「出所のわからないメッセージ」の不穏さは、「宛先に届かないメッセージ」と同様、重大な「哲学素」(こんな言い方があればだけれど)をなしていくようにも思われる……と。

投稿者 Masaki : 11:17

2005年01月16日

「収集的記憶」の危険性

アウシュビッツ解放60周年を前に、英国ではヘンリー王子(通称ハリー)が仮装パーティでナチスの格好をしたとか、フランスでは極右政党の親玉ルペンがまた歴史修正主義的発言をしたとか、このところの欧州はどこか妙な空気が流れている気もしないでもない。前者はあくまで座興だったといい、王子は反省のためにアウシュビッツの見学に行くことになったらしいし、後者も、マスコミへの露出度アップ戦略だろうから相手にしないのが一番、という見識が出たりしているらしいけれど、思うに両者に共通するのは、反ユダヤ主義をあくまで口実として使うような、形から入るある種の追従姿勢かもしれない。で、これは結構危険だ。形式賛美が先行すれば、その時々に応じて様々な内実(イデオロギー)を注入できるからだ。

最近読んでいるアラン・バディウ『聖パウロ−−普遍主義の基礎』(長原豊・松本潤一郎訳、河出書房新社)では、キリストの直接の目撃者だったペテロら他の使徒の衒いをパウロが斥けていることが指摘される。その箇所に続けてバディウは、ネオナチの偏執には記憶の収集家のような部分があり、残虐行為の記憶を楽しんでは、それを繰り返したいと渇望したりもするのだと指摘している。記憶は現在の意思によっていかようにもゆがめられうるのだから、それを絶対的な権威にしてはならない、というのがパウロの立ち位置なのだという。なるほど、内実の理解を伴わない表面的な記憶の収集は危険だ。形から入る追従姿勢(それは表面的な記憶の収集だ)は、内実の理解よりも表面的な記憶の反復ばかりを呼び込んでしまう……。

もとがそうなのか、訳者らの深読みなのか不明だが、上のバディウの邦訳本はちょっとアクが強い(ルビの振り方など、衒っているというか煽っているというか)けれど、いずれにしてもパウロの言動の解釈問題は実にアクチャルで興味深い(教会組織の編成問題という面ではメディオロジー的な問題だけれど、いやいや、そればかりではなさそうだ)。国内でも清水哲郎『パウロの言語哲学』(岩波書店)なんていう優れた論考があったっけ。アガンベンの省察はもちろん、シュミットの政治神学がらみの論考とかもあるようで、いろいろ眺めてみたいところだ。

投稿者 Masaki : 07:55

2005年01月12日

存在しているもの・していないもの

最近、プラトンの『ソピステス』を読み始めている。「存在する」「しない」をめぐる議論の出立点、ということで。先に挙げた内田樹『死と身体』では、フッサールの現象学について、「現事実的にそこにいない人間についての考察」(p.198)と喝破している。なるほど存在についての考察は当然、存在しないものの考察がついて回る、と。ハイデガーもそうだった、ラカンもそうだった、という話なのだけれど、当然というか、ベルクソンもそう……と改めて思わせてくれるのが、金森修『ベルクソン−−人は過去の奴隷だろうか』(NHK出版)。若者向きに書かれた案内書だけれど、なかなか面白くまとまっている。実証科学による脳の機能局在論ですっかり満足、という向きには揺さぶりの一撃かもね(ベルクソンのそれをトンデモと見なすか、別の立ち位置の可能性を開くものと見なすかはまた別の問題だけれど……)。

記憶と時間の問題、それってとりもなおさず現前しないもの、存在しないものをめぐる論究になっていかざるをえないわけで。中世あたりの時間論をちょっと辿っただけでも、例えば時間は背後に「永遠の相」のようなものが仮構されないと切り出されてこないし、そういう相を形作る一番のエレメントは記憶であり、と同時にそれは絶対的他者をもなす……なんて構図は容易に浮かび上がってくる。では具体的な切り出し方は、と問うと、これは難しい問題になっていく。余談だけれど、アリストテレス『形而上学』で、数の問題にからんで差異と同一性の話が展開する13巻・14巻にどこかしら個人的に感じる違和感も、そういう困難さとつながっていそうで……。

投稿者 Masaki : 23:43

2005年01月07日

弔い……

スマトラ沖地震の被害に対して、国際的な人道支援もまた史上最大規模になるという。こうした人の生き死にについて、いつもながら欧州の反応の素早さや規模には本当に頭が下がる。もちろん過去の植民地支配などの経緯があるからだと言ってしまえばそれまでだけれど、そうした部分も含めて、欧州はやはり「弔い」に敏感なのではないかと思う。最近読んだ内田樹『死と身体』(医学書院)の最後では、20世紀のヨーロッパの思想的課題には、大戦による死者をどう弔うかという問題があったと指摘していた。大戦はヨーロッパが起こしたものであるからには、その結果の責任を引き受けるのはヨーロッパの仕事であると考えているのは理解できるが、あるいは彼らはそこから敷衍して、今や世界的な民族紛争も、下手をすると自然災害すら、自分たちに責任の一端があると考えるのかもしれない。少なくとも「構え」が出来ているのだろう。それはアメリカなどとも違う「構え」だ。一方、同じアジアにありながら「対岸の火事」的などこぞの国はなんとも情けない。そこではまるで、死者は型どおりの手続きで葬りさえすれば、それで問題なく弔ったことになると考えているかのようだ。復興会議に参加する首相も、災害現場の視察もなし。後追いで金だけだせばいいというのか……。生き死にへの感覚の鈍りは最も危険な徴候だ。

それにしてもこの『死と身体』、講演をまとめた書籍のようだけれど、身体感覚や時間意識の問題など、共感できる部分が少なくない。楽器を師匠について習うようになって、自分のような初級者と兄・姉弟子などを含めた上級者の差異として、その身体的制御の細やかさの違いを強く感じていたのだけれど、武道家でもある著者は、それを「プロセスの割り方」という風に表現している。師匠から弟子への「教え」が実は構造的に織り込まれた関係性であるという部分も、妙に納得(笑)。

投稿者 Masaki : 23:45

2005年01月04日

後追いと理想と

正月休みといっても、それほど普段と変わるわけではない。読みかけで放っておいて書籍を読んだりとか。というわけで年末年始に眼を通した書籍から。一つはアントニオ・ネグリ『<帝国>をめぐる五つの講義』(小原耕一ほか訳、青土社)。グローバル化した権力(複合企業体など)としての<帝国>と、それに対抗するゆるい群集ネットワークとしてのマルチチュード、というあたりが、どうも公共政策でのNGOとか、コンピュータ世界でのオープンソースムーブメントなどの散発的な動きを理論的に後追いしようとしている感じがしなくもない。いくらネグリたちがマルチチュードの戦略を説いたところで、実際にNGOで活動しているような人たちからすれば、それはあくまでお話でしかない、としか映らないのではないかしら?マルチチュード(って群集だよなあ)が、定義としても、運動の呼びかけを受けて結束するようなものでないということなので、そうなるといよいよ、散発的運動(ボトムアップ)に対するこのメタの視点の提示(トップダウン)の意義そのものが危うくなってしまう。それに、ジジェクが指摘していたような、マルチチュードの存在がひるがえって<帝国>を支えてしまう、というあたりの問題はどうなるのかしら?

これとどこか同じような危うさを感じさせるのが、かつての日本のメディオローグ、中井正一か。木下長宏『中井正一−−新しい「美学」の試み』(平凡社ライブラリー)を最近読んだのだけれど、そこで指摘されているのが、中井正一の理想と現実的展開のギャップだ。思想の営みが個人の主観に還元できない時代状況の中で、「自分を越えた眼」に見られるという「射影」概念を唱え、ひいてはそれが「委員会の論理」に発展していく中井の理想は、しかしながら「土俗的言語」を「尖端の言語」にどう上昇させるかという媒介の問題にぶつかり、それを越えられない。中井はそこで苦しみ、問題を解決することなく世を去ったという次第だが、なんだか上のマルチチュードの議論も同じような部分で躓いている気がする……。

うーん、この辺りの問題の糸口も、もっと歴史的に遡らなければ見えてこないのでは、と思ってしまう。現代から近代へ、さらには近世や中世といったそれ以前の根っこの部分へ。現代的な問題の多くは、過去から捉え直す必要があるだろうなと、2005年の正月も改めて想うのだった(笑)。

投稿者 Masaki : 23:54