2005年02月26日

マロン派

ハリリ前首相の暗殺で、くすぶっていたシリアへの反発がいよいよ表面化し緊張感が高まっているレバノン。同国の宗教的多彩さは半端ではないようで、なかなかに複雑だ。報道でちらっと名称が出てきたキリスト教のマロン派などは、中東のカトリックのグループとしては最古・最大のグループで、レバノンでは最大のキリスト教社会を作っているのだという(中東教会協議会編『中東キリスト教の歴史』(日本基督教団出版局、1993))。7世紀にシリアのキリスト教徒マルウンがアンティオキアからレバノン山北部に移動したのが起源なのだそうで、西欧の十字軍がやってくるとそれを歓迎したという。確かに13世紀ごろの巡礼記などを見ると、西欧から中東に向かった一行を地元のキリスト教徒が歓待し、一行は返礼として説教をしたりする、なんて記述が見られたりもする。フランク族、ひいてはフランスとのつき合い(それは第一次大戦後のレバノンの独立国家としての歩みとフランスによる支援にまで及ぶ)は、そんな昔にまで遡るというわけだ。うーん、やはり中東と西欧の関係の古層はかなり興味深いものがある……。

投稿者 Masaki : 20:17

2005年02月24日

構築的ヴィジョン

連日のライブドア関係の騒ぎ。世間の老害に若い世代が戦いを挑む、という構図のようにも見えていたけれど、webのあちらこちらからリンクが張ってある江川紹子ジャーナルのインタビュー記事を見ると、そのいささか仰々しい「メディア殺し発言」よりも(ヴィクトル・ユゴーかよ(笑))、むしろ建設的なヴィジョンがさっぱりなさそうな点にびっくりさせられる。具体的なプランに話が及ぶたびに、「そんなことどうでもいい」みたいな発言が繰り返されるところが、実は何も考えていません、という風に聞こえてしまう。なんだかどこぞの首相の発言にも似ているよなあ。どこかのWebに書いてあった話では、ライブドアはもともと、不良債権処理・再生機構的なビジネスモデルで成功したのだとかなんとか。なるほど、カンフル剤を打つことを商売にするのならば、患者そのものをどうしようとかいう建設的ビジョンがなくてもつとまるわな。放送業務への進出が本当にヴィジョンに裏打ちされているのか、それともそういう後処理的な発想でしかないのかは微妙に「わからない」のだけれど、ヴィジョンも持たずにゲリラ戦を展開してなんとかなるほど、世間の「老害」(というか制度的疲弊・硬直化)は甘い相手ではないように思うのだけれど……。

さらに話を敷衍すれば、どうもネオリベラルな発想の行き着く先というのは、なんらかの構築的ヴィジョンで事業を駆動するのとはどこか異なるもののように思えてならない。小手先、対処療法、さらには詐欺的なものばかりが跋扈し、もっと重要な社会的構築の発想はないがしろにされる……それってとてもお寒い世界じゃないの。あ、これってテロリズム的な営為ってことね。あらゆる営為(普通の商業活動までも)が一時的・破壊的なテロ行為的様相を帯びていく……それがネオリベラルな資本主義的発想の終着点だったとしたら……。いよいよ大事になるのは、構築的ヴィジョンの再編なんじゃないかな、と。そういう役割は例えば大学のような機関が本来担うべきなんだろうに、だんだんそれも適わなくなっているみたいで……。大学発のベンチャーも盛んになってきたとかなんとか報道されるけれど、この先、そういうのが増えるに従って、巨視的なビジョンはますます脆弱化してくのだとしたら……。

投稿者 Masaki : 17:17

2005年02月17日

ヨブ記

ヘブライ語聖書(旧約)の定番的存在『biblia hebraica stuttartensia』(ドイツ聖書協会、1967-97)を、同じくドイツ聖書協会の『七十人訳旧約聖書(septuaginta)』(1935)のギリシア語も参照しながら少しづつ囓り読んでいく、という作業に着手しているのだけれど、これは結構興味深い作業になりそうだ。手始めは『ヨブ記』。なぜかというと、つい最近、アントニオ・ネグリ『ヨブ−−奴隷の力』(仲正昌樹訳、世界書院)を読んだから。同書でもなかなか刺激的な読みが展開される。ネグリは、獄中体験もあってか、理不尽とも思える力に翻弄されるヨブの姿に、悲惨からの脱却を計る行為論と、世界の再構築の手がかりを見る。なるほど、それは搾取された労働から肉の復活というテーマに重なるわけか……哀しみの克服、経験の脱受肉化、希望の新たな受肉などなど。先のバディウのパウロ論もそうだけれども、唯物論的なスタンスからの読み込みは、一種の反転現象を起こし、聖書のもつアクチャリティを実にくっきりと浮かび上がらせてくるから不思議だ。原理主義的な狭窄的読みとはまったく逆に、そこからは実に豊かな思想的光景が立ち上がってくる。うーん、このテクストにこうした読み方……これってある種の贅沢?いずれにしても、聖書はまだいろんな問いの間口を抱えていそうだ。

投稿者 Masaki : 23:38

2005年02月15日

理解をめぐる雑感

中世・近世科学史のサイト「ビブリオテカ・ヘルメティカ」は、その筋では結構有名なサイトなのだそうで、確かに有益な情報が少なくない。カルキディウスの『ティマイオス注解』のイタリア語訳が出ているとか(序文だけの羅独対訳本が入手不可になっていたっけ)、アヴィケンナの医学全書のスペイン語訳が出ているとか、そういう書誌情報はなかなか伝わってこないので、ある意味大変ありがたい。若い研究者がやっているサイトのようなので、多少のアクはあるけれど、ま、それだってご愛敬か。例えば同サイトは、ある日本の学会誌について、アルベルトゥス・マグナスを取り上げたものがないことや、そこで取り上げる書評にイタリア語圏のものがないことを指摘し、それが限界かと切り捨てているけれど、これはまあ質的な問題というより構造的な問題でしょうね。日本の大学でアルベルトゥス・マグナスまで手を伸ばすドイツ語系の人はどう見積もっても多くはないだろうし、中世専門というようなイタリア語系の人はもっと少ないだろうし……。旧文部省が大学院をいくら重点化してきたとはいっても、そういう裾野が広がっていったようにはあまり思えないし。逆に、例えばマグレブ社会の研究やりたいって割にアラビア語とかには関心がないとか、レヴィナス研究したいって割にタルムードそのものには興味がないとか、そういうどこか偏った専門性を標榜する人たちが増えているようにも思えたり(……おっと、この傾向は別に最近のことじゃなく、昔から見られたよなあ。自戒と反省もこめて言うのだれど)。けれども、なんらかの理解を深めたいと思えば、たとえ理解しようとする対象が極小的なことであっても、どこかで広い視野を取る必要が出てくるはず。その両者の行き来こそが、理解しようとすることの面白さなんであって、例えば論文を書くことの自己目的化なんかとは比べものにならない高揚感や苦闘があるわけで。思うに自己目的化には二種類あるんでしょう。一つは身体に根ざしたもの(この場合なら理解することへの、理あるいは解する対象へのこだわり)、もう一つはあくまで頭だけで考えたもの(就職に必要な論文点数が足りないから書くのだとかいう不純な動機)。後者の浅いモチベーションを粉砕するのは、やはり前者の身体感覚なんだろうなあ、と今さらながら改めて思ったり。

投稿者 Masaki : 00:39

2005年02月10日

創造的後退

ちょっと前だけれど、ホットワイヤードの記事で面白いものがあった。「『自力で歩く生物』を創造するアーティスト」というのがそれ。風を動力に自走する造形物を作っているというわけだが、このテオ・ヤンセンというオランダ人作家がすごいのは、なんといっても単一素材が環境とのインタラクションで動いてしまうという点。言ってみればローテクなんだけれど、そこにアルゴリズム的な発想が加わることで、かなりユニークな創造物が出来上がってしまう。こういうのを見聞きすると、なにか原初の生物への、郷愁にも似たロマンのようなものを感じてしまう……(笑)。うん、ローテクも捨てたものではないかもしれない。もちろん、そこには新しい息吹を吹き込む必要もあるだろうけれど。

そういえばどこぞの信用金庫は、セキュリティへの対応のため、カードを使わずかつての窓口での対応だけにする口座を新商品として出すのだという。セキュリティのために便利さを多少犠牲にしなければならないような時代になったということかもしれないけれど、それが反動的後退ではなく、創造的後退になるのであれば、それは決して悪くはない。ハイテクを動機としてこれまで捨ててきた様々な事物をを見直すというのは、意外に重要なことかもしれないなあ、と改めて思うのだ。

投稿者 Masaki : 23:50

2005年02月04日

特許の裁判

ワープロソフト『一太郎』が製造中止・在庫破棄の判決を受けた先の民事訴訟は、技術をめぐる裁判にとうてい似つかわしくないその論点の貧しさばかりが目立っている。なにせ「特定のアイコンを押した後では、その他のアイコンがヘルプ表示になる」というのが特許で、一太郎の同種の機能を呼び出すのがアイコンなのかボタンなのか、というのが論点だというのだから……。ボタンなら特許侵害にあたらないのだそうで。なぜかというと、もともとそういうヘルプ表示の切り替え機能は、Windowsに標準的に入っている実行ファイルを呼び出すことによって行うから。それを呼び出す際にアイコンであることが、松下側のいう特許なのだというのだけれど……なんて貧しい発明なんでしょうねえ。そして今回の裁判、「?」マークの横に絵が描いてあるためにボタンではなくアイコンだとの判断が示されたのだという。なんというしょーもなさ。うー、寒っ。今週の日本各地の天候のようだぜ。

それにしてもそういう、言語学でいうところの範列(文中の任意の項を置き換えることができる、別の潜在的項の集合をいう。この場合ならボタン/アイコン/文字列/画像ファイルなどなど)をいじるという、記号学的操作だけで新規のアイデアとして認められてしまうというところに、特許行政の貧しさが見えている。遺伝子の解読が特許となるというのも相当にふざけた話だったけれど(公のものを私的な権利で囲うという意味で)、これなどははるかにお手軽な「発明」ではないか。これからこういうのが果てしなく増えていくかもしれないと思うと空恐ろしい。やっぱり公共財(安直なアイデアを特許として認定しないことも含めて)の概念をちゃんと立て直さないといけないんじゃないかと。

投稿者 Masaki : 23:30

2005年02月02日

外来種

特定外来生物の規制対象に、釣り関係者が反対していたブラックバスの一種が盛り込まれたというニュース。なるほど外来生物の規制は、生態系を守るというのがうたい文句だけれど、そういう「守る」という話は、いつも人間のこざかしい対応をあざ笑うような展開を見せがちだ。人為的保護の対象になった動物が異常繁殖して、かえって環境被害をもたらすなんてのもよくある話。今回は逆のパターンだけどね。フランスの哲学者フランソワ・ダゴニェは、人が自然だと思っているのは実は人為的介入の所産なのだ、と言っていた。森林などがそう。そこに住む生き物だってそうかもしれない。外来種によって環境が変わるのも、環境そのものが変わり外来種が住みやすくなるのも、もとを正せば人為的な営為の所産。これだけ人やモノの行き来が激しい世界的な状況の中で、外来種の到来・繁殖はそう簡単に止められるようなものなのかしら?

余談だが、なんだかこの「外来」という言い方も妙に気になる。まるで外部から来るものはすべて悪しく、在来のものは守るべき高い価値だ、とでもいわんばかり。どこか最近騒がれた外国人への対応(難民申請者の強制送還や、行政職への国籍条項の合憲判決など)にも通じるものがあったりして、いや〜な感じもしたり……。そもそも生物種については、「在来」と言われているものだってもとを正せば外来だったかもしれないわけで、長いスパンで見た場合に外と内という区分け自体が失効することもある。そんなことを思うと、規制そのものに将来にわたる意義があるのかどうかも疑わしくなっていくのだけれど……。

投稿者 Masaki : 20:33