2005年11月26日

アレクサンドリアのフィロン

最近レヴィナスの邦訳本がいくつか文庫などで出ているし、なにかこの、ユダヤ思想史みたいな方向への機運が高まったりしないもんだろうかなあ、なんて思ったりもするのだけれど(ちょっとなさそうなのが残念だけれど)、ま、それはともかく。直接的な関連とは別に、遡及という意味で興味深いのはやはり中世のマイモニデスなのだけれど、当然ながらさらにそのはるか以前にまでさかのぼることもできるわけで。『世界の永遠について』(希仏対訳本:cerf, 976)を読んでなかなか興味深かったアレクサンドリアのフィロンあたりはコーパスとしても面白い。そんなわけで改めて入門書を眺めている。邦訳で読める貴重な入門書が、グッドイナフ『アレクサンドリアのフィロン』(野町啓ほか訳、教文館、1994)。大まかな研究の現状、フィロンの著作ガイド、思想内容の紹介などから構成されている。うん、あらためて紀元前後のユダヤ教を取り巻く状況というのは刺激的だ。さらに思想的にもいろいろ見るべきところがある感じ。少し長期的に読んでみたいところだ。

Web Camの「絵はがき」シリーズを復活させようかなあ、というわけで、11月15日朝のコペンハーゲンを。

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投稿者 Masaki : 23:47

2005年11月25日

晩餐図

六本木で開催されていた「ダ・ヴィンチ展」は結局行けずじまいだったけれど、まだ壁紙のダウンロードとかできるみたい。「最後の晩餐」も壁紙になっている。いいねえ、これ。以前、この「最後の晩餐」が多重的な時間を詰め込んで描いている、というような話を聞いたことがあったのだけれど、最近新書サイズで出たばかりのジンメル『芸術の哲学』(川村二郎訳、白水Uブックス)を見て、なるほどそれを指摘したのはジンメルだったんだねと改めて知る(この本、ジンメル著作集の同名作品の第一部だけに相当するもの)。左端と右端の間には、確かに時間の断絶がある感じだ。ジンメルはここで、芸術が固有の法則をもった理念的形象の場なのだ、みたいなことを言っているわけだけれど、こういう描き方は、はからずもレオナルドが、中世からルネサンスにいたる絵画表現の連綿たる流れを受け継いでいることを示している感じだ。パノラマ的なものって、実はずっと歴史は古い……うーん、このあたりも面白いよなあ。

いちおう、そのCoena Dominiの図を掲げておこう。
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投稿者 Masaki : 22:44

2005年11月21日

ロスト・イン……

ボジョレー・ヌーヴォーの解禁だった17日、時差の関係で一足先に解禁になった日本のおバカなパーティの様子を、F2の20時のニュースがエンディングで流していた(例によって呆れた感じのコメントがついていたり)。なんと今年、は露天風呂みたいなところに、ワインを入れた「ボジョレー風呂」だってさ。なんでこういう馬鹿騒ぎのイベントになっちゃうんだろ(バブルのイカレ加減が戻ってきている?)。もっと普通にパーティすればいいのにねえ……しかも取材まで許したりして。またしても対外的に冷笑され、そいでもって「エキゾチック」「理解不能」として排除されるだけなのに……。

最近ようやくレンタルのDVDで観たソフィア・コッポラの『ロスト・イン・トランスレーション』にも、そういう目線があざとく組み込まれていて、個人的にはなんだか落ち着かなかった。ごくごく平凡なラブストーリーのくせに、そうした目線を共有させることで、「ちょっといい感じの話」に無理矢理仕立てているというのが、ずるいというかこざかしいというか(笑)。日本の風景が描かれれば描かれるほど、「日本という場所」は希釈になって、主人公たちの疎外感とそれにともなう外部の遮断が、観る側にも共有されるという仕掛け……だよなあ、これ。彼らとともに、観る側が迷い込むのは、トランスレーションの世界なんかじゃなく、異質なものが自分の側に入り込んでこないよう、とことん遮断しようという薄い膜のような西欧人の自己世界でしたとさ。そういう膜を作らせている原因の一端は、確かにわれわれの側にもあるんだが……。

投稿者 Masaki : 23:06

2005年11月17日

世界情報社会サミット

チュニジアはチュニスで開かれた世界情報社会サミット。Le Mondeのニューズレターでは、ネットアクセスの南北格差問題と、民間企業であるICANNが仕切っているネットのリソース割り振りを今後どうするか、というのが主な議題とされている。この後者については別に国際フォーラムを開くことですでに合意ができたのだとか。2006年にギリシアで開催とか。

F2ではgrande messeだみたいな言い方をしていたこのサミットだけれど、こうした会議はどちらかというと、いわゆる公会議に近い気がする。ネットリソースの割り振り問題などは、まさにネットの「支配権」をめぐるもので、いわば正統教義を確認しようという感じに近くなるんじゃないかな、と。まさに公会議の申し子か。そう考えるなら、当局の検閲が厳しいというチュニジアで開かれるのもなんだか示唆的かも(この辺の話についてはCNETの記事をどうぞ)。

また、この南北格差の是正に一役買うことを謳う「100ドルパソコン」の発表もあったそうな。なんと、今もってダイナブック構想の斬新さが光るアラン・ケイが一枚噛んでいるそうで。OSはLinuxだというから、それにSqueakあたりをバンドルして出すんかな。ネットアクセスも大事だけれど、学校とかでプログラミングの基礎とか教えるのも大事。日本のアホなパソコン教室みたいにワードの使い方教えるようなものより、よっぽど生産的かと。いずれにしてもこの動き、上の公会議にたとえるなら、正統教義の枠に微妙な距離をおきながら、布教活動を展開するフランシスコ会あたりのようにも見えたり(笑)。アラン・ケイって、なんだかライムンドゥス・ルルスみたいだ(笑)。

投稿者 Masaki : 23:11

2005年11月13日

否定神学……

相変わらずいろいろ出ているデリダ本。その中から、『名を救う−−否定神学をめぐる複数の声』(小林康夫、西山雄二訳、未來社)に目を通す。巻末の訳者の解説(実に端的にまとまっている)にもあるように、否定神学は西欧の一大潮流なわけだけれども、デリダの手にかかることによって、当然ながらその根源を問い直すという作業になっていく。思想史的な背景を背に、極北を目指す旅が始まる感じだ。名指す当のものを、他のものの否定でしか指示できないという事態において、それでも名指される当のものとは一体なんだということになるのか?デリダはそこに「形式化」、言語表現の本質的経験を見ていく……当然それは一種のトポロジーにならざるをえないわけで(トポスが場所、つまりコーラだという意味において)。本文は実に晦渋だけれど、極限の場への漸近という運動は、やはり多くの刺激に満ちている。そのことを確認するだけもよしとしよう(笑)。それにしてもこの書で美しいのは、盛んに引用される(というかそれが分析の大元のテキストだからだけれど)アンゲルス・シレジウスの詩だ。ドイツ・バロック期の神秘主義の宗教詩人だということで、これ、全部読んでみたい……と思ったら、岩波文庫の『瞑想詩集』に重版がかかって今月出るみたいじゃないの。こりゃ楽しみだ。

投稿者 Masaki : 23:15

2005年11月08日

フランスの暴動

クリシー・スー・ボワ(パリ東部近郊)から始まった移民系の少年らの暴動は全国に拡大。政府は夜間外出禁止令を容認するという方針。まだ軍隊は出さないというけれど、今後の展開いかんによってはわからない。まるで先進国ではないみたい。というか、米国がハリケーン・カトリーナへの対応で、国内の貧困層の存在を明るみに出したように、フランスも国内の貧困層の存在を暴き出してしまった。前から言われていたように、新自由主義がこうした国内格差の先鋭化を招くものであることはもはや歴然。その意味では日本だって人ごとではない。

そういえば、F2のニュースで「les quatre-vingt-treizes」なんて表現が出てきたのだけれど、これってセーヌ・サンドニ県の県番号93をもじっているものだそうで、要するにセーヌ・サンドニ県民のことらしい。「les neuf-troisiens」ともいうらしい。こちらの「辛口言葉」(Langue Sauce Piquante)のブログを参照のこと。同地方の住民を指す昔の言葉として、セーヌ川を表すラテン語Sequanaと、サンドニ(聖ディオニュシオス)のもとのギリシア語Dionysius(Dinonysus)から、sequanodionysiensというのがあったという話が紹介されている。

投稿者 Masaki : 19:47

2005年11月07日

書籍をめぐる環境

アマゾン・ジャパンはついに「なか見検索」を始めた。米アマゾンでは前からあったやつだけれど、これで購入前に目次とか確認できる。便利なサービス。……とか思っていたら、本家の米アマゾンはさらに一歩進んで、ページのばら売りを始めると発表したのだとか。これ、なんだか中世の学生たちに、当時高価だった書物を分冊化してばら売りしていた話を彷彿とさせる。めぐりめぐって昔に戻っていくかのよう。モノとしての書籍が、再びテキストに溶解していくのか……。iTunesでの曲のばら売りなどもそうだけれど、本でもたとえば論集などの場合、「この部分だけ読みたい」という需要は確かに存在する。図書館で見て個人使用のためのコピーをするという部分とかね。

さらには、Google Printもベータ版ながら始まっている。パブリックドメインに入った(著作権切れとなった)書籍のヴァーチャル図書館。結構最近の本とか入っていてびっくりする。こちらはイタリア、ドイツ、オランダ、オーストリア、スイス、ベルギー、スペイン、フランスのサイトもある。Le Mondeのニューズレターによると、フランスの場合もすでに複数の出版社と合意ができているのだとか。著作権の管理はフランスの管轄になるのかどうかが問題、とされているが……。

投稿者 Masaki : 18:50

2005年11月06日

さまよえる……

昨日、二期会のプロダクションによるワーグナー「さまよえるオランダ人」を観る。日本におけるドイツ年関連のイベントなのだそうで、ハノーファー州立歌劇場との共同製作なのだとか。演奏はオランダ人指揮者ワールト+読響でなかなかのもの。歌手陣も善戦。だけれど演出(渡辺和子)はちょっと意味不明。小道具のオランダ人の彫像なんかも、使われ方がいまいちピンとこなかった。ラスト、オランダ人は去り、ゼンタも舞台から消えておしまい。救済はどうなったの?何かこの、演出意図と美術的構想と歌手たちの立ち振る舞いが全部微妙にかみ合っていない感じがして……演奏そのものは悪くなかっただけにちょっと残念か。

ま、もともとこの話、永遠の愛を誓えば救われるという設定を逆手にとったようなラストは、少し付け足しっぽくてあまり好きではないのだけどね。主人公ゼンタは、誓ってすぐ自殺してしまい、誓いが永遠化されてオランダ人は救済されましたとさ、というのは確かに今の時代からすれば安直。オランダ人もふくめ、どの登場人物も俗っぽく自分の身のことだけ案じている中で、オルタナティブな理屈を持ち出してくるゼンタは、確かに崇高に描くこともできるけれど、同時にひどく異様なものにも映りうる(実際、すべてはゼンタの妄想、みたいな演出もあったはず)。今回のはどちらかといえばそちら寄りだったのかしら?いずれにしても、これって描き方によっては、資本主義批判なんかにもっていくことだってできるだろうに……。なんか、もっと面白い演出で観たい気がする。

投稿者 Masaki : 12:55

2005年11月02日

「虚無の信仰」

1日は万聖節(諸聖人の祝日)。1日付けのFrance2のニュースでは、最近のフランス人の傾向として、葬儀ビジネス(手順の一式をパッケージ化したもの。日本でもそういうのがある)や火葬が増えているといった話を紹介していた。で、さらに英国での傾向として、仏教に続き、今度はイスラム教に入信する人が増えているというレポートも紹介している。文化的な理解をこえて、ただストレートにハマってしまうのがなぜなのかはイマイチ不明だが、異質なものに惹かれるという心性はますます強まっているということか。

そんな中、最近興味深く読んでいるのが、ロジェ=ポル・ドロワ『虚無の信仰』(島田裕巳、田桐正彦訳、トランスビュー)。18世紀末からの仏教の受容の変遷を追っていくという本なのだけれど、実に面白いのは、西欧が仏教をある種の恐怖をもって受け止めていたという事実だ。学術的な誤解から始まり、その誤解が解けて学問的に精緻になっていくと同時に、今度はそのイデオロギー的な横滑りが生じていく、というのがその大きな流れ。その過程がとてもスリリングだ。と同時に、これは身につまされる話でもある。異文化理解のアポリアはとても人ごとではない、と改めて思ったり。

投稿者 Masaki : 17:13