2005年10月30日

コンピュータあれこれ

最近、出たばかりのiMac G5を購入(ほとんど禁断の初期ロット買いだが(笑))。これまでメインマシンはiBook G3だったので、その体感速度の向上はなかなか。セットアップも5分程度で終わるし、なんだか古いWindowsのころとは隔世の感も……。来年はIntel以降だというから、今後B5ノートよりも小さいMacが出ることを期待したいところだ。ハンドヘルド歓迎。それにしてもマシンを取り巻く環境もずいぶん変わった。シンクライアントも、今やUSBメモリにシステムと必要なアプリを入れて持ち運ぶ、みたいな話になっていきそうだし。

そういえばつい先日、Amazon.comを騙るフィッシングメールが来た。ヘッダの全表示を見ると、発信元がebayなのでいかにもという感じ。「身元の再確認をしたい。48時間以内に確認できないと、アカウントをサスペンドするかもしれない」という感じの文面。期限付きというのがいかにも詐欺っぽい。こういうの、気をつけないとなあ、と改めて思う。

話は変わって、8月末ごろに仏語系のメーリングリストで流れた、ロワイヤル仏和中辞典付属のCD-ROMのEBWING変換というのを、今更ながらやってみた。これでMacでも引けるようになる(Jamming経由)。手順をおさらいしておくと、Windowsマシンを用意し、これにActivePerlとEBStudioというのをインストールしておく。次いでRoyalfj0.4という変換ツールをインストールし、実行する(600MHzの古マシンで1時間くらいかかった)。最後にEBStudioで変換(これも結構時間がかかる)。こうして出来たファイル(110MBくらい)をMacにコピーして、Jammingで辞書登録する。さらにDicCompressorで圧縮すると20MBくらいになり、これで愛用のsimarion IIIにコピーすると、EBPocketで引けるようになった。うん、これで持ち運びもOK。時間はそれなりにかかったけれど、なかなか快適。

投稿者 Masaki : 16:12

2005年10月26日

スピノザ

先に言及した『中世思想研究XLVII』に掲載されたシンポジウムの記録では、「中世から近世へ−−存在論の変容」と題して、デカルトやスピノザをめぐる問題が取り上げられている。鈴木泉「スピノザと中世スコラ哲学」という一文では、中世において原因をもたないとされていた神に対してまで、17世紀には自己原因が導入されるようになり(デカルト)、それをアプローチを変えることで先鋭化したのがスピノザだ、というような話が指摘されている。それにちょっと刺激を受けたこともあって、さしあたり上野修『スピノザの世界』(講談社現代新書)を読んでみる。わかりやすい解説で『知性改善論』や『エチカ』を読んでいこうという入門書。これを見ると、改めて中世と思想的に陸続きであることがよくわかる。知性・神・観念などなどの中世的なテーマ・概念をラディカルに掘り下げれていくと、もはや思考する主体といったものは消えてなくなり、全体が必然性の秩序の体系として浮かび上がってくる……。これは圧巻。そしてそこから、許しを伴う倫理が構築されるという。中世と陸続きでありながら、宗教的な限界を知性的に乗り越えていく思考のダイナミックさ。ずっと「欠如の補填」という発想を根底に抱えてきた西欧の思想は、ここへきて「十全性の肯定」へと完全に反転しているわけか。なるほど、スピノザのわかりにくさは、逆にその面白さでもあるんだろうなあ。そのうちちゃんとラテン語で読みたいところだ。

投稿者 Masaki : 15:14

2005年10月18日

分解能

先日のこと。朝、駅の付近で二人連れのオッサンたちが話ながら歩いてきて、よそ見をしていた一人が駐車してあった自転車にけつまづき、バランスを失って倒れてしまった。その倒れ方が、実にゆっくりと余裕のある倒れ方で、まるで転び位置を確かめるかのように崩れていった。ソフトランディング。当然、怪我もない。この場面に偶然居合わせたのだけれど、なんだかその身のこなし方にちょっと感動した(笑)。たしか内田樹あたりがいっていたと思うのだけれど、身体の動きを連続写真的にイメージ上で分解することによって、突発事にしなやかに対応できるという一種の身体技法があるのだという。有名なアキレスと亀のパラドックスなども、亀の側から見た「追い越される」ダメージの軽減技法のように読めなくもない(笑)。古代から、そういう分解能的な発想というのは結構いろいろありそうだ。このところ考えているのだけれど、新プラトン主義のコスモロジーとか、あるいは偽ディオニュシオス・アレオパギタの神秘神学とか、世界の分節(階層)とその遡及プロセスを考えているあたり、どこかそういう分解写真的な発想が核心にあるように見えなくもない。うーん、これって面白い問題かも。

それにしてもスピードと変革ばかりが強調される昨今の世の中において、こういう分解的な身の処し方というのはとても重要なんでないの、という感じもある。ぐずぐずすること、スローであることをもういっぺん見直してもいいかなと。一般に、性急で荒っぽいハードランディングよりは、微細で穏やかなソフトランディングの方がよいわけで……分解能って、いかにイメージを豊かさに保ってくかという話だよなあ、と。

投稿者 Masaki : 21:41

2005年10月13日

論集

先に立て続けに注文してあった二つの論集にざっと目を通す。一つは『Vocabulaire de l'ancien français』(原野昇編、渓水社、2005)。2004年春に広島大学で開催された古仏語シンポジウムの記録。全編仏語のこうしたアクトが国内で出版されるというのがまずもって素晴らしい。ゲストに大御所のミシェル・ザンクを招いたところも。再録されているザンクの講演は「nature」の語彙をめぐる考察。もともとnatureは、生物の産出原理をなしていて、事物に内在する変化の原理を指すのだという。トマス・アクィナスを引いてnatureとessenceの差異が、そうした動きの意味の有無に帰着することを指摘している。そこから、denaturer(変性させる)の用例の話に入っていく……。

もう一つは『中世思想研究 XLVII』(中世哲学会編、知泉書館)。トマス・アクィナスの研究が大きな比重を占めている。もちろん、トマスが重要であることはわかるのだけれど、ここまで集中してしまうと、なんだか偏りという感じもしなくもないのだけれど……。内容も、テキストを読み込んで、特定のテーマなり概念なりをその体系上に位置づけるというものがほとんど。確かにそれは王道ではあるのだけれど……なんだか別のアプローチも見たくなってくる。上でザンクがさらっと述べた、natureとessenceの意味論などは、トマスだけでなく、その周辺をも抱き込む大きな問題な気もするのだけれどね。

投稿者 Masaki : 22:33

2005年10月10日

王女メディア

9日の夜にNHKで放映していたク・ナウカの公演『王女メデイア』。少し前に東京国立博物館で行われたものらしい。お座敷を模した舞台、人形浄瑠璃的な見立てなどが、最初ギリシア悲劇っぽくなくてちょっと引いたものの(苦笑)、進行するにつれてそれなりに面白い舞台になっていった。ジェンダー論や民族的確執など、表面的な装置の数々はまあともかくとして、ギリシア悲劇がもつ冷徹さについては、黒子の語りはメリハリもあって、それなりに雰囲気を醸し出していたとは思う。それにしてもどもるメディアというのは珍しい。ま、寺山修司以来の演劇的トポスだけれどね。激高を抑える時にメディアの言葉がどもるのだけれど、そういう情念とロゴスの対立軸はテーマとして生かされもせず、安直に表面的なジェンダーの対立に置き換えてられてしまったみたい……うーん、この点はどうかなあ、と。それからこれは放送だからだけれど、黒子役の男性陣のアップもちょっとね。むしろ舞台全体を生かすようなカット割りにしてほしいよなあ。

投稿者 Masaki : 17:19

2005年10月05日

アガンベンの邦訳新刊

アガンベンの邦訳が立て続けに二冊出ている。一つは例のパウロ書簡の分析『残りの時』(上村忠男訳、岩波書店)。すでに到来したメシアがいかに未来に投企されるかといった問題を扱っていたっけ。もう一つは論集『涜神』(堤康徳、上村忠男訳、月曜社)(涜の字は旧字体)。こちらは原書も今年出たばかりのもの。その『Profanazioni』(nottetempo, 2005)は、個人的につい最近入手したばかりだった。うーん、邦訳がこんなに早いとはねえ。あとは「ホモ・サケルII」の副題がついた『例外的立場』("Stato di eccezione", Bollati Boringhieri, 2003)あたりもそのうち邦訳が出るのかしらん?

とりあえず、『Profanazioni』から表題のもとになったと思われる「涜神礼賛」を読んでみる。ここでの涜神とは、宗教が確立した聖俗の分離をいったん停止させ、聖なるものを奪回する「遊戯的」行為とされ、アガンベンはこれを、新手の宗教とされる資本主義(ベンヤミンが看破した)において主体の回復(使用価値の復権)を図る手だてへと敷衍する。もちろんそれは分離を破棄したりするものではなく、別の価値へとずらしていくという戦略(profanareというラテン語の動詞の両義性に言及している)。そういう戦略そのものは新しくはないけれど、重要であることに変わりはない。13世紀にフランシスコ会の議論(所有をともなわない使用権)受けたローマ聖庁が所有と使用権との一体性を定めたところに、現代的な消費という行為の正当性の根っこを見ているあたり、いかにもアガンベンならではの持ち味といったところ。

投稿者 Masaki : 22:47