2005年09月30日

テンマのいる世界は……

先に触れたアニメ『モンスター』は、国外で活躍する天才外科医テンマが主人公なのだが、そこには日本的な均質性がいわば「拡張されて」、ほとんど外国人に対する障壁がないような(外国人という認識が極端に薄いような)、ある種の理想的世界が描かれていたともいえるのかも。テンマのキャラクターが外に向かって開かれているのと同じように、テンマを取り巻く人々も、あたかも異質なものなどなにもないかのように、同じまなざしを返してくる。あるのは個性同士のぶつかり合いだけ。ま、日本的なアニメ(コミック)の均質性といってしまえばそれまでだが、確かにヨーロッパなどの限られた世界、例えば学問的世界なら、そういう部分は現実にあるかもしれない。そこで問われるのは能力主義・成果主義であって、人種や文化的差異などは問題にされない……はず、原則として。

最近は理系に限らず、人文学の分野でも「世界的に通用する」ことをめざす若い人たちが増えているという。それはそれで頼もしい限りだけれど、ただ気になる部分も。たとえば、そういう世界進出組が、国内待機組をなにやら蔑視するようになっていきそうな点。国内待機組には待機組の役割があるのであって(教育・普及活動、さらには別視点での比較論など)、そういう人たちが将来の進出組(次世代とか)の下支えとなっていくのは当然なのだから、そのあたりへのリスペクトがないと、学知全体の底上げには繋がっていかないんじゃないかと。学問的な「市場」という言い方をすれば、国際的ディーラーと国内のディーラーが違うのは当然だし。あるいは音楽の世界を喩えにするなら、誰もが世界的なピアノ・コンクールで優勝できるわけではなく、一方ではレッスン・プロなどが底辺を広げる重要な役割を担っているのだし。また、彼ら進出組の上昇志向が学問の専門主義を助長して、本来パブリックドメイン的であるはずの学問的営為が、自由主義的イデオロギーよろしく競争ばかりになってしまったら(逆説的に国内組でそれが助長されそうな気配も)、それはそれで不毛だよなあと。競争が全般的に支配してしまえば、学問的対象への愛すら、おそらくかるく吹っ飛んでしまうんじゃないかしらん。こういうのが単なる杞憂ならいいんだけど……。ま、どちらもオゴらずクサらず頑張ってほしいもんだ。

投稿者 Masaki : 23:17

2005年09月28日

モンスター

1年半も続いていた深夜枠のアニメ、浦沢直樹原作の『monster』がようやく終了。たまに見ていたのだけれど、前半のころのエンディングテーマがよかったなあ(デヴィッド・シルヴァンのやつ)。後半はエンディングテーマはフジ子・ヘミングが歌う(!)「make it home」で、見るたびにちょっと脱力していた(笑)。原作に忠実だったという話だけれど、ちょっと長くて途中ダレていたような気も……絵柄も話も全体的に暗いし。ま、これだけの長丁場をこなしたというだけで拍手ものか。とはいえ、『逃亡者』よろしく追われる主人公の外科医テンマが日本人ということで、ドイツの片田舎で知り合った人々に日本の食い物を作ってやる(どんぶりものとか)エピソードとかあるのだけれど、どう考えても調味料が揃わない気がするとか、あるいはそもそも外国人逃亡者に対して現実はもっと厳しいはずとか、ドイツ人はあんなに思わせぶりなセリフ回しを使わないはずとか、「異国もの」の難しさがあらためて示されたようにも思う。なにかこう、登場人物たちの思考回路が微妙が日本風にずれている感じがするし、街の風景そのものは写真やビデオなどの資料から切り取って描けばいいのだろうけれど、その中に暮らす人物たちの物腰や振舞いは、なかなか再現できていなかったり。コミックならまだしも、動きを伴うアニメでは、どうもそのあたりのずれが気になって落ち着かなったりする……。こういうずれの問題は、まさに比較文化論とか地域文化研究などの課題そのもの。人文知の知見って、こういう些細なところで本来は活用されるべきものだったりするのだけれど……。

投稿者 Masaki : 09:23

2005年09月23日

ムスリムの翻訳運動

12、13世紀の西欧中世を理解する上で、イスラム世界で8世紀以来綿々と続けられいたギリシア文献の翻訳運動はやはり重要。少し前にさる方から教えていただいた、ダンコーナ=コスタ『知恵の館』("La Casa della sapienza", Guerini e Associati, 1996)を読み始めようと思っているところなのだけれど(ギリシア文献の翻訳とアラブ哲学の形成を論じている一冊)、その前哨戦的に、イベリア半島の文化史を扱ったマリア・ロサ・メノカル『寛容の文化』(足立孝訳、名古屋大学出版会)がなかなか面白い。アラビア化していたかつてのイベリア半島では、ユダヤ人やキリスト教徒との豊かな共存環境が整っていて、それだけに言語的な交流もさかんで、文献の翻訳などが広く進んでいた……アンダルスはそれ以前のバグダッドでの動きを継承していく。それが後の西欧の文化面を下支えしていくわけなのだけれど、著者はそうしたギリシア文献の翻訳運動を、イスラム世界に内在した「本質的に創造的な自由の一部」(p.218)だったと述べている。翻訳が盛んになされる環境というのは、やはり開かれた自由な空気をともなっていなければならない気がする。社会が閉塞すれば、翻訳に代表されるような異文化の取り込みなども窒息してしまうのかも。同書はそのあたりの陰りの部分にも一定の目配せをしているところが心憎い。あれ、翻って現代のこの国はどうなんだろう。右傾化が進み、出る本はどれも国内の著者のものばかりになっていくとしたら、そりゃちょっとまずいよなあ……。

投稿者 Masaki : 23:28

2005年09月16日

還元

イラクでは連続テロで150人近くが死亡……。ザルカウイの武装グループはシーア派に対する全面戦争だと息巻いている……(15日)。先に挙げたパスカル・ボワイエの『そして人は神を創った』では、原理主義の暴力は組織の外部にではなく、むしろ内部に対して多く働くと指摘されている。それは信仰や政治の過剰なのではなく、ある種のヒエラルキーを守ろうという動きであり、組織が簡単に解体してしまうのではなという危機的心理に根ざしているのだ、というのがそのスタンスだ。同書は基本的に、宗教的な信仰を作り上げているものを、人間の他の諸相(行動や性向)に見られる同じ動機、同じ心的システムの作用(情報の取り込み、屈折、淘汰)に還元しようとする。原理主義的な暴力を働く人々に見られる、みずからの危険を顧みずに集団のために働くという姿勢は、そうした集団への信頼・帰依の強さを示しているものの、心理的な動きとしては、戦時のパトロール隊などの組織化と変わらないのだという。「大もとの動因が同じかもしれない」という指摘は、それはそれで説得力があるのだけれど、そう言いきってしまうと、逆に「信仰」という現象をとりまく現実の個々の問題にどう対処するか、といった視点は出てこなくなってしまうようにも思える……。人類学本としては結構面白いけれど、その先に進むには何かが足りないんじゃないかと……。

投稿者 Masaki : 23:18

2005年09月13日

選挙の後で

本物の刺客が来なくてまずはなによりだった総選挙。終わってみれば与党一人勝ち。まあ、民主の岡田代表の表情があんなに余裕がないんじゃ、勝てるわけないか……。吾妻ひでおの怪作マンガ『失踪日記』(イースト・プレス)の中に、ジャズ・ピアニストの山下洋輔の言葉だとして「好きなことをやってない奴は顔がゆがんでくる」みたいなセリフが引用されているけれど、たしかにあのミスター・イーオンの顔は、選挙に入ってからというものゆがみが増していた感じがするからなあ。ま、それはともかく。今回の選挙結果で、新自由主義的な方向性はますます強まりそうだけれど、本当にそれでよかったの?これからもっと階級社会化が進んで、セイフティネットもないままに、誰もがハリケーン後のニュー・オーリンズ市民みたいになっちゃったりしたら……。「自分は大丈夫」と考えている人は、そりゃ「正常性バイアス」ってもんじゃないのかしら。スマトラ沖地震後の津波の際に、引けていく海岸をぼーっと眺めていた住民たちや観光客のように、異常な状況を正常と認識してしまうというその心理状態は、災害時などに遭難する一つのパターンなのだという。うーん、ちょっとなあ。そういう心理状態を打ち破るためには、基本的に事前の教育・訓練が大事なのだという。とするなら、新自由主義のあこぎさに対しても、もっと身の処し方を検討したり訓練したりしないと……。ベースの市場原理からして結構嘘くさいんだからさあ……。

投稿者 Masaki : 11:30

2005年09月09日

軽信と残響

少しばかり軽信ということについて考えてみようと思い、種村季弘『山師カリオストロの大冒険』(岩波現代文庫)をちょっと読んでみる。カリオストロの評伝なのだけれど、カリオストロが転々とした18世紀後半のヨーロッパの宮廷に、「彼を口実にして熱狂的な夢遊状態に陥りたがっていた時代の一般的動向」(p.59)があったというのがスタンスになっていて、だまされる側のだまされやすさがどう醸成されていくのかという視点から見ても面白い読み物になっている。というか、カリオストロ以上に、周辺の情勢や時代の分的趨勢といったものへの言及が実に興味深い。例えばサンチャゴ・デ・コンポステーラへの巡礼。14世紀の錬金術師ニコラ・フラメル以来、その巡礼地への旅には、秘教探求の旅という意味が付与されていたといい、カリオストロのイベリア旅行もそれを踏襲していたのだという。これは実際の旅行だけれど、さらに東方へと旅行したという伝説も作られ、それはアルベルトゥス・マグヌスやライムンドゥス・ルルスの東方行きとか、さらにはパルケルススの地中海周航などの残響の上に成立しているという。そういったディテールの残響が、カリオストロという人物に織り込まれている、という次第だ。そうでなければ、単なる子供だまし的な奇術が、それほど人々を捉えるとういことはなかっただろう。「現れた形がたとえ児戯に類する通俗奇術のようなものであっても、これを支えている原理の闇は深いのである」(p.191)。

このあたり、見物小屋を中心に囲われていく日本の奇術師たちとは大きな差だ。泡坂妻夫『大江戸奇術考』(平凡社新書)に何気なく眼を通したりして、そんなことも併せて思ったり。

投稿者 Masaki : 23:53

2005年09月06日

ループ

古楽ネタではないので、Viator musicae antiquaeではなくこちらに記しておくことにしよう。4日にNHKでウィーン・フィルのニューイヤーコンサートを再放送していた。正月にもちょっとだけ見たので、今回はちらちらとしか見なかったのだけれど……うーん、この時期の再放送というのはどこか間が抜けている感じもしなくない(笑)。それでも、ちょうど渡辺裕、増田聡ほかの論集『クラシック音楽の政治学』(青弓社、2005)をざっと眺めたところだったので、いろいろ面白い。同書の第1章を飾る渡辺氏の論考は、ウィーンが音楽の都と称されるようになった背景にある政治的な意図をめぐる考察。根底にあるのは、一種の町おこしというか、観光産業的なベース。しかもそれは、歴史的には反ナチ的な動きで煽られた文化ナショナリズムに根ざしているという。ニューイヤーコンサートなどもその延長上にあり、ナチ併合の1939年末から始まったものなのだとか。『美しく青きドナウ』で3拍子の2拍目をやたら延ばす演奏の仕方も、1942年ごろからのもので、その傾向は1990年代に極端になってきているとのこと。ニューイヤーコンサートが世界的イベントになってきたことが、そういう「特徴づけ」を助長しているのでは、という話。うん、なかなか面白い。メディアによる情報の伝え方が文化政策に影響し、後者も前者に影響しループを作っていく、という実例なんだね。

投稿者 Masaki : 22:07

2005年09月02日

ベクトル階級?

不謹慎を承知でいえば、ハリケーン「カトリーナ」上陸後のニューオーリンズの洪水映像は、屋根からヘルプを求める人の姿が、さながらパニック映画・ホラー映画のよう。さらに水が引いた後の街の様子も、スマトラ沖地震の津波映像のよう。しかも映像に映し出される被害住民はほとんどが有色人種。この既視感……うーん、映像の刷り込みを改めて感じさせる。同じような構図に同じような人物像。反復され重なり合うディテール。なんだか報道の映像が以前にもまして画一化・一様化してきている感じだ。制度としての方向づけ……ベクトル?

マッケンジー・ワーク『ハッカー宣言』(金田智之訳、河出書房新社)という本をチラチラと眺めてみたのだけれど、それにベクトル階級というのが出てくる。世の中の方向づけを担う制度や機関、組織などをいうらしいのだが、それへの抵抗勢力として、ハッカー階級が想定されている。コンピュータ世界のハッカーではなく、より拡張した意味で、情報の抽象化を自分の手に取り戻そうとする者たちらしい。なんだかこれ、ちょっと古典的なまでに二項対立的・階級闘争的?そんなに抽象的な対立の構図をぶち上げたら、逆に戦えないって。また、断章になっている割には、うたい文句にあるような、ギ・ドボールやダン・スペスペルに連なるポエジーも批評的な鋭さもちとインパクトに欠けるし。ハッカー概念を拡張して用いるというのもどうなんだろう。hackerというと俗語で「不器用な奴」みたいな意味もあるんだけどねえ……。とはいえ、世の中がある方向に無理矢理向けられてしまう事態にどう対応するのかというのは大きな問題ではある。間違っても、最近報道されたようなアンチ資本主義だからってんで万引きを鼓舞するようなやり方はお断りだ。なにしろそれは、非生産的であるばかりか、無差別テロなんかともとの発想が一緒だから。

投稿者 Masaki : 19:38