2005年08月27日

欠如ということ

残念ながら行けなかったのだけれど、「消失」をテーマにした展示会がこの夏あったらしい。こちらの報告記事をどうぞ。見慣れた日常の品が「一部欠けている」というのは、なんだかとても落ち着かない気分になるもの。プロセスとして消失していくという場合にはなおさらだ。そういうプロセスを描いて秀逸だったのが、多少古いけれど筒井康隆『残像に口紅を』など。こちらは少しづつ文字が消えていくというもの。けれども面白いのは、主人公がそうした消失に対して意識的であり、なんとか失われたものを回復しようとジタバタすること。もちろん、文字だけの世界で文字が消えていくというループであるだけに、その回復しよういう努力は悲劇的・悲壮的だ。

この夏は戦後60年ということで、戦争の記憶の風化みたいなことが一部で取り上げられたりもしていたが、考えてみると、世代が移りゆくにつれて戦争の記憶が薄らいでいくのはある程度仕方のないこと。問題なのは、そうした消失を回復しようという動因が次第に乏しくなってきていることだ。欠如を補うはずのイマジネーションの方も貧困化してきている、ということなのかしら?

新プラトン主義なんかの文献を読んでいると、人間をはじめ地上の被造物が十全さを欠いた存在であることが繰り返し出てきて、そうした欠如・欠落が西欧の思想的な根幹をなしていることを今更ながら思わせられる。世界に投げ込まれることがすでにして欠如の状態をなす、なんて実に悲壮ではあるけれど、それだけ欠如の回復を促す力は強くなるのかしら。そうした欠如回復の流れは心理学と結びついた物語論などにまで及んでいるし、思想的な営み全般が、そういう欠如をなんとかして補っていこうという動きなのかもしない、と。日本などに比べて西欧社会が現在でも死者の弔いにはるかにヴィヴィッドな反応を示すのも、あるいはそういう欠如回復の動因が文化的な根底に横たわっているからかも……なんて。うん、そういうアルカイックな系譜も辿り直したらとても面白い道行きになりそうだ。

投稿者 Masaki : 20:26

2005年08月22日

ファナティック

カトリックの「世界青年の日」に合わせてケルン入りしたローマ法王は、現地のユダヤ人やイスラム教のコミュニティと会見して、前任者の宗教対話路線を継承するスタンスを改めて示してみせたわけだけれど、とりわけ、イスラム教との会見では、テロ対策での協力の文脈で「ファナティック(狂信)はいかん」というメッセージを改めて示したらしい。ファナティックという語が発せられた(らしい)ことが、ちょっと気になる。もちろんこれ、原理主義を指しているということなのだろうけれど、考えてみると何をもってファナティックとするのか、というのは微妙な問題になるような気もしなくない。

最近出た加藤博『イスラム世界の経済史』(NTT出版)は、中世のイスラム社会が豊かな市場経済を営んでいたことを示す興味深い本だけれど、それによると、利子収入を取らないという最近のイスラム系銀行は、原理主義的イスラム法解釈を取っているのだという。もともと高利と利子の両方を表すリバーという言葉が、利子全般の意味で解釈し直されるようになったのは70年代のイスラム復興以降なのだそうだ。ちなみにこの本、最後の方で中沢新一の『緑の資本論』についても、そうしたリバー禁止をもって資本の自己増殖に対するアンチテーゼとしている点を批判している。西欧とイスラム圏の経済発展の差は、むしろリバーを容認し正当化する手続きの差にこそあるのではないか、という。

いずれにしても、原理主義は必ずこうした解釈の厳粛さを伴っている。一方、宗教にしろイデオロギーにしろ、「信奉」とはすでにして排除を含むものであって、そういう排除の形が激烈になれば(解釈の幅をも許さないという場合も含めて)、それはファナティックということになる。そう考えるなら、原理主義とファナティックは多分に重なりはするものの、短絡的にイコールなのではないかもしれない(もちろん両者は入り組んでいるわけだけれど)。その一方で、原点回帰的な指向がなにゆえに解釈の硬直化や排除の激化をともなうのか、といった問題も改めて考えないと。うん、これは今の日本でも結構アクチャルな問題。なにしろ、ちょっと話題になった高橋哲也『靖国問題』(ちくま新書)なんかによると、問題になっているのは国家宗教(国という概念がいわば御神体なのだ)だというからね。このあたりに、原理主義やファナティックの芽がないとはいえないような気がするし……。

投稿者 Masaki : 20:22

2005年08月20日

内在と外的要因と

CNETに掲載の「音楽鑑賞力は生まれつきか?」という記事もそうだけれど(これはMITの学生による調査の話だ)、文化的な差異は認めつつも、生物学的共通基盤の部分の範囲の確定をしようという動きが米国あたりを中心に拡がってきている。言語などについても、例えば今月号の『Software Design』誌(技術評論社)のバート・アイゼンバーグの記事(拙訳)では、DNAの標識でもって太古の人類学的な移住径路を調査しようというプロジェクトが紹介されているのだけれど、そこで「言語的差異と遺伝子的差異」に相関関係があるのかないのか、といった問題が人類学的問題の一つとして示唆されたりしている。確かに興味深い話ではあるけれど、ここでふと感じるのは、文化的差異にいちおうの目配せをしている、という文言が、本当にあくまで「いちおう」になってしまうんじゃないかという懸念。どこまでが「共通」なのかという問題の立て方は、「人類は皆同じ」、と一見文化的差異を許容するかに見えて、その実、「差異なんて些末な問題なのだから、ある文化が別の文化を駆逐したりしたところで、さしたる問題ではない」といったふうな、論点先取り的なスタンスが背景に見え隠れしてる感じがしなくもない。上のMIT学生の例でも、初期調査が北米ユーザに限定されていることが問題点として指摘されているが、なんだかグローバル化(=アメリカ化による均一化)を背景として文化的差異を軽んじていく面をも合わせもっていそうで……。

そういえば、少し前に人から聞いたパスカル・ボワイエ(英語読みならパスカル・ボイヤーかな)の『そして人は神々を創った』("Et l'homme créa les diex", Gallimard, folio essais, 2003)をこのところ読んでいるのだけれど(これ、フランス語版がオリジナルじゃないみたい。文体が翻訳調だし。それに聞いていたほどにはあんまり専門的な生物学本じゃない。一般向け。ちなみに英語版は"Religion Explained - The Evolutionary Origins of Religious Thought")、「宗教が何で生まれたか」という理由付けがどれも嘘っぽいという批判は面白いのだけれど、「宗教を構成する表象のうちどれが生き残るのかというダーウィン的なアプローチ」を取ってからは、なんだか昔のエドガール・モランの図式くさい話とか、一部の物語分析みたいな話に入っていく。つい「差異のダイナミズムはどうなるわけ?」と問いたくなってしまうのだが……。ボワイエはフランス人らしいのだけれど、現在はワシントン大学で教鞭を執っているという。うーん、米国的な学問的ヘゲモニーと戦ったりはしないのかしら?ま、読了後にあらためてコメントすることにしよう。

投稿者 Masaki : 16:16

2005年08月16日

若き日のマルクス

筑摩書房の「マルクス・コレクション」シリーズ1から、「デモクリトスの自然哲学とエピクロスの自然哲学の差異」(中山元訳)を読む。学位論文だというこれ、マルクスが思想史研究から出発したということがまずもってすばらしい。内容的にも、古代ギリシアの「アトミズム」の代表格たちの思想内容がどう異なるのかという問題を鮮やかに描き出していて、とても面白い。実証的な学知にこだわるデモクリトスに対して、エピクロスはそうした学知に疑いの眼差しを向け、哲学の名のもとに自己の解放を探求する……マルクスはとりわけ後者に共感を寄せている感じだ。この基本的な対立の構図は、原子をめぐる解釈から偶然・必然の理解、さらには時間概念、星辰神学の立場の違いにまで拡大されていく。うーん、面白い。エピクロスはなかなか刺激的だ。というか、そう思わせる若き日のマルクスの議論が刺激的なのか。今現在のこうした研究がどんなところに進んでいるのか知りたくなってくる。(概説書、例えば去年復刊されたアンドリュー・ファン・メルゼンの著書の英訳『アトモスからアトムへ』("From Atomos to Atom", Dover phoenix Editions)なんかの両者の扱いの貧弱さといったら……(笑)。中世の部分もそう。まあこれ、1952年初版だというから、仕方ない部分もあるだろうし、主眼は17世紀以降の近世の科学史だからなあ。でもそうならそうで、はっきり表題に示して欲しいところ)

投稿者 Masaki : 22:58

2005年08月13日

選挙……

テレビなどは解散総選挙の話でもちきりという感じもあるこの一週間。それにしてもこの時期に選挙やる必然性がさっぱりわからない、という感じ(郵政法案は継続審議ではなぜダメなのか、よくわからなかったし)。で、メディアは「刺客」なんて物騒な言葉で対立候補を呼び、分裂選挙を形容しているけれど、本当に恐いのは、本物の「刺客」を呼び寄せてしまうかもしれないこと。つまり、選挙に乗じてイスラム過激派などのテロが日本でも起きる可能性が高まりはしないかということ……。奇しくも選挙日は9.11だし。現状ではイラク派兵問題などが争点にならないのはほぼ確実だが(そもそも争点がさっぱり見えない。民主党だって郵政を何とかするという点では一緒だし)、日本の選挙の内実が中東など他国で報道されることなどほとんどないし、先の英国のテロで、それ以前のスペインの列車テロがもたらした影響などが想起されたこともあって、「現与党が負ければ派兵も再考される」みたいな短絡的な見方が過激派の間で高まることは当然予想される。なんだか恰好の標的になってしまいそうだ。なぜそんなリスクを負ってまで選挙しなければならないのだろう……。政治的空白はともかく、治安対策だけはいつも以上に行わなくてはならないはずなのだが、なんだかそんな風では全然ない。「痛み」とか言って負担ばかりを押しつける首相だが、もし何か事が起きれば、そういうリスクを招いた責任も問われなくてはならなくなる。そのあたり、本人はどう考えているんだろう?あ、有権者にできる当面のテロ対策があるぞ。与党の敗北が事前に濃厚になって、それが世界的に報道されればいいのだ。テロが無意味であればよいのだ。ここは一つ、先回りして、奴らの野蛮な意思を脱臼させてやればいいではないか……いや、マジで。

投稿者 Masaki : 16:21

2005年08月10日

アリストテレス思想の再考へ

「哲学も生物学などの知見について語るべきだ」という思いがますます強まる今日このごろ。そんな中、河野哲也『環境に拡がる心』(勁草書房)を読む。これが面白いのは、なんといってもギブソンの「アフォーダンス」(環境が主体にもたらす知覚のパターン化)をベースに、デカルト以来の個体主義的心理学(一種の中央制御モデル)を、例えば、材質の物質的特性が行動を制御するというチープデザインの考え方などを駆使して、より分散化したモデルに置き換えようとしているところ。さらにその過程で、何度かアリストテレスの際解釈・再評価も言及される。アリストテレスは、知覚が成立するには、知覚する能力と知覚される能力が必要だと考えていた、といった下りだ。さらにダイナミック・システム・アプローチ(行動の自己組織化論らしい)とアリストテレスの原因論と結びつける話も紹介されている。デカルト以後、アリストテレスの4つの因のうち動力因だけが採択されているけれども、「意図」なんてものは形相因なのではないか、といった話。自己組織化って、確かに形相因の話と解することができる。うん、アリストテレス思想の再評価というか復活というか、これもまた興味深い動きだ。

投稿者 Masaki : 23:32

2005年08月06日

バラ売り

AppleのiTunes Music Store日本版が始まったので、早速覗いてみた。例しに『タイガー&ドラゴン』の主題歌だけ購入してみる。Sonyとかビクターが入っていないせいで、J-Pop系などで有名アーティストがごっそり抜けている(笑)が、ま、これは別にいいじゃないの、という感じ。問題はバラ売りそのものにあるんじゃないか、という気も。Pops系などにとってはこういうバラ売り方式はある種の理想だけれど、クラシック系などについてはそうもいかない。もちろんコンサートなどで組曲の一部だけ聴く、というケースは多々あるけれど、組曲全体を聴きたいという感覚があるから、そういうものも許容できたりするわけで。最初からバラ売りされていたら、そういう感覚が促されないんじゃないかなと。そういえばクラシックのさわりだけを集めたCDが異例の売上を見せているといった話があったけれど、音楽配信のバラ売り感覚はそういう細分化をいっそう助長させていきそうで、なんだかなあと思ってしまう。情報の加速化って、結局要所だけを切り出していくような方向に向かっていくしかないのかしら。考えてみればblogなんかだって、テクストとしても、また文章そのものも、どこか短縮化のドライブがかかっているかも(オンライン書きっていうのが、そもそもそういうセワしなさを作っているよなあ)。けれどホントに大事なのは、人が作った何かの構築物をじっくり鑑賞=観照したり、思索を深めたりするような営為だったりするわけで。加速化・細分化する情報とそのあたりをどう切り結ぶかという、以前からの問題がやはり問われてくる。(5日)

投稿者 Masaki : 23:16

2005年08月01日

ゲバラ

DVDで『モーターサイクル・ダイアリーズ』(ウォルター・サレス監督、2004)を観る(ちなみに原作本は文庫になっている)。ロードムービーは映画の基本だよな〜とつねづね思っているけれど、加えてこれは、革命家チェ・ゲバラの前史だというから、期待しないわけにはいかない。凸凹コンビのコメディという感じで始まる若い青年二人の南米一周の旅は、「モーターサイクル……」という題名とは裏腹に、そのバイクが潰れたあたりから意味合いが変わっていき、やがて様々な出会いを通じて深い陰影を纏うようになる……。この映画がちょっとずるいのは、やはり史実としてのゲバラをリファーしてしまうから。旅の映画を観ているつもりで、いつのまにかゲバラの革命への道筋を想像してしまう。いわば背景の史実に誘導されてしまう。もちろんそれはこの映画の仕掛けなのだけれど……。とはいえ、旅というか、より一般に、物理的な移動が育む思想の「手触り」みたいなものは確実に存在するわけで、この映画、具体的描写でそういう手触りを描こうと挑んでいる気がして、そこはとてもいい感じだ。そう、あらゆる思想には思想以前の流体力学がある……なーんちて。

投稿者 Masaki : 16:15