2005年07月30日

イブン・ルシュド

3月くらいから囓り読んできた(仏語対訳を参照しながら、アラビア語テキストを辞書を引き引き読む)アヴェロエス(イブン・ルシュド)の『断言の書』がようやく読了。この書は西欧中世への影響関係の点はともかく、哲学と宗教の関わりをめぐるアヴェロエスの基本スタンスを知る上では重要な一冊。でもやはり本命は注解書。次はその『アリストテレス「魂について」中注解(تلخيص)』に進む予定なのだけれど、いよいよ今度はシャクル(アラビア語の母音補助記号で、いわばふりがなみたいなもの)なしのテキストだ。ま、大変そうだけれどボチボチとやっていこう。中世への影響関係を重点的に見るなら、当時のラテン語訳とかを読むのが重要だけれど、むしろアヴェロエスの全体像から掴みたい気がするので、やはり原典を優先したいと思っている。ちなみに、アヴェロエスの注解は小・中・大とあって、それぞれ想定されている読者が違うのだという。年代的に、比較的早くに書かれた小・中注解と、晩年の大注解ではいろいろ思想的なスタンスが異なっていたりするというし、なかなか面白そうだ。

投稿者 Masaki : 16:29

2005年07月28日

音楽記号学……

ジャック・ナティエ『音楽・研究・人生』(添田里子訳、春秋社)を読む。仮想インタビューでみずからの研究人生を振り返るという一冊。前半はとりわけ、60年代から70年代にかけての記号学全盛期の一端がかいま見えて興味深い。本人はエクス・アン・プロヴァンスでジョルジュ・ムーナンについていたといい、当時流行の「構造主義」がパリみやげのようなものだったと回顧している。なるほどねえ。その後、レナード・B・マイヤー、ジャン・モリノなどの影響のもとに、反ムーナン的な、デビッドソンなどを思わせる解釈指向の独特な音楽記号学が構築されていく……という次第。後半はさらに民族音楽、ワーグナー、音楽事典の出版などの話と盛りだくさん。

最初の方にあった面白いパッセージを一つ。トルベツコイやヤコブソンの音韻論が後に構造主義を促し、さらにはコンピュータ・システムの発展にまで影響したことに言及した後で、ナティエはこう続ける。「今日の政治権力は、即座に収益があがる研究にしかお金を出したがらないのです。馬鹿げたことです。ド・ゴールが『研究者はいらない、発明者が欲しい』と宣言したとき−−これはわれわれの現政権も、大喜びで責任をもって継承するスローガンですよ、まったく!−−ド・ゴールは、学問の歴史において現に進行している過程を無視した完璧な衆愚政治を露呈したのです」(pp.34-35)。身につまされる話だよなあ。

投稿者 Masaki : 23:12

2005年07月27日

inchoatio

大変光栄なことに、たまに拝見してはその該博さに舌を巻く思いを抱いていた錬金術研究の秀逸なblog『ヘルモゲネスを探して』から、ナルディの研究書がらみでリンクを張っていただいた模様だ。そのアーティクルでは、拙サイトのScriptorim 1での研究ノートにおいて、inchoatio formaeの訳を「胚芽」と訳したことについての違和感を表明しておられるようだった。この訳語は井筒俊彦『イスラーム思想史』のアヴェロエスに言及した次の一節を参考にしたもの。「そして基体としての質料には、いわば胚芽として形相が内存しているのである」(p.356)という部分。けれども、たしかに胚芽というと、それが成長し展開していくようなニュアンスがあり、inchoatioの訳語としてはしっくりこない感触もある。inchoatioはむしろ「端緒」「初期段階」「起動」という感じがするのだけれど。質料が形相と結びつくという場合、そこにプロセスの観念はあまり入ってこないように思われる。印画紙に像が浮かび上がるというのですらなく、光が不意に向けられることで唐突に像が浮かび上がる感じだろうか?このあたり、なかなか訳語に反映させるのは難しい。

それにしても同blogで取り上げているように、『中世哲学研究』以外のナルディの著書も実に面白そうだ。こちらもいろいろと当たってみたい。

投稿者 Masaki : 23:11

2005年07月21日

アスベスト禍

一気に噴出してきたアスベスト禍。これ、欧米ではだいぶ前から騒がれ、すでにいろいろな対応が取られてきていた。とりわけ早かったのはアメリカや北欧諸国。ドイツもそれに続き、フランスが使用全面禁止にしたのは1996年とやや遅い。でも日本は全面使用禁止は2008年だというから、まだまだ先。この遅れ、結局構図は相変わらず同じで、業界団体の圧力とかそういう話みたいだ。建設関係は特に力があるからね。こういうパワーバランスの問題はなくならない……。

けれども、政府の規模を小さくして自由競争ばかりを委ねようというスタンスの限界はそういう部分にあるわけで。政府の規模が小さいのは権力の横暴がなされにくくなるという意味では悪くない(とかつては思われていた)けれど、それに代わる倫理基準・規制の原理が「自由競争」しかないのは大きな問題だ……当たり前だけれど。消費者向けの最終的(完成した)商品以外が問題になる場合、自由競争だけに委ねられたりしたら、自主的な規制に向かう契機なんかほとんどありそうにない。インフラ素材などのような「目に見えない」財の場合、消費者の不買運動なんか起こりえないし、そもそもどんな素材がどこに使われているか、末端の消費者には知りようがないんだしね。社会基盤の設計を最終的・全面的に自由競争に委ねたりなんかしたら、あるいはこういう社会的な広がりのある問題に際して、規制を敷くインスタンス(実装・審級)がなくなってしまったとしたら……そんな空恐ろしい世の中はまっぴら御免だ。アスベスト問題に最初に取り組んだ各国の多くが、それなりに「大きい政府」だったというのは示唆的かも(アメリカだって、権力機構の絶大さからいえば、大きい政府だったりするし)。

投稿者 Masaki : 13:20

2005年07月16日

可塑性概念

カトリーヌ・マラブー『私たちの脳をどうするか』(桑田・増田訳、春秋社)を読む(ちょうど最近行われた来日公演は、ちょっと忙しくて行けなかったが)。前に取り上げたヴァレラほかの『身体化された心』は、経験としての認知と科学的記述との埋めがたい溝をどうするかというテーマを、仏教思想をヒントにして乗り越えようという試みだった。そこで描かれたのは、確たる自己もない単なる複合的なプロセスの行き交う場でしかない場から、そのプロセスの行為によって世界が立ち上がるという「徹底した唯物論」だったのだけれど、こちらのマラブーの立場は、なんだかちょうどその溝で待ちかまえている「中間レベル表象」(ジャッケンドッフ)に絡め取られたもののように思えてしまう。問い直すべきは表象ではないのでは……と思ったりもするのだけれど、マラブーは執拗に表象にこだわり続ける。その結果、ニューロンのネットワークと企業のネットワークがちょっと短絡的な感じで結びつけられたりとかする。ミンスキーなどのエージェント概念が認知アーキテクチャの抽象化されたモデルだったのに比べると、かなり荒っぽい感じなんだけど……。アラン・レネの映画の映像の断片性が脳の力の忠実なイメージだ、なんて簡単に言っていいのかしら?

とはいえ、生物学的なものの専横に政治的な意図が結びつくような昨今の状況(マラブーが指摘するように、柔軟性の名のもとに、外部から新しい制度や規制が加えられ、それに抵抗しない者が心理的不整合を起こしてしまうような新手の暴力とか)に、脳の問題からアプローチし直そうという姿勢自体は興味深い。そう、哲学や思想史の側も、生物学を語っていいし、語らないといけない時代なのだ。素人だからってただ言いなりにはなっていてよいわけがない。ヴァレラの本は仏教思想をヒントとして持ち出してくるけれど、西欧においても、その古代や中世のアニマとかヌースとかモナドとかの再考をそのあたりに再接合できるのでは、という気もする。そういえば『現代思想』の7月号でも、脳科学者の茂木健一郎が「生物学の概念をそちら[アニマ概念など]に置き換える方が、思考のフレームワークを広げる方に相当する」のではないか、と語っている。マラブーの可塑性はヘーゲルから取ってきた概念だというけれど(Plastizitätとかかな?)、これだって形相概念が遠くに響いているわけで。中世思想はこれからいっそうアクチャルかもしれない、なんてね。

投稿者 Masaki : 22:17

2005年07月14日

フランスの数

都知事発言にフランス人たちが訴えを起こした件(昨年から釈明要求がなされていたが)。この話は、首都大学構想に反対した都立大教員の中に、フランス語関係者が多かったことを受けて、都知事がそれを揶揄したのが発端。このあたり、テレビ報道などはちゃんと伝えていなかったりする。ちなみに、訴えを起こしたフランス人たちは、昨年くらいから釈明を求めていた。

ちなみにマスコミ報道を見て、本当にフランス語は数を数えられないんじゃないかと思いはじめた「石原教」の人々もいるようなので(笑)、ここでもちゃんと言っておこう。フランス語はちゃんと数を数えられます。なぜなら、数については1対1対応で単語が存在するから。だからどんな複雑な計算だってできる。考えてみてほしい。日本語で仮に70を△、80を□と呼ぶことにしたとしても、そのルールさえ頭に入っていれば数はちゃんと数えられる。36△1は3671、94□8は9488とちゃんと理解できるでしょ。それとおなじこと。soixante-dixは70なのであって、マスコミが言うように「60+10」だと分解して考えるフランス人はいない。quatre-vingtもそうで、これはあくまで80なのであって、「4x20」ではない 。実際、「60+10」をフランス語で言うなら、soissante plus dixみたいに言い、soissante dixとは絶対に言わない。だってそれじゃ70なんだもの。「4x20」はquatre multiplié par vigntといい、quatre vigntなどとは絶対に言わない。だってそれじゃ80なんだもの。誤解するわけがないのだ。都知事の発言は「都知事本人は、学生時代にフランス語を学んでも、中途半端でまったくモノにできなかった」ということを端的に表しているだけのこと。確か『太陽の季節』は、エピグラフでフランスの作家に捧げられていたはずで、そのあと、当時の仏文関係者に貶されたらしく、そのあたりの遺恨も遠因になっているんでは、とかいう話もあるらしい。もしそうだとしたら、キャラ的にも「ちっちゃい」じゃんよ。

[追記:15日]
都知事は今度は91の読み方を例に「仏語の数え方は長くでめんどくさい」みたいな話をしたらしいが、91を表すquatre-vignt-onzeはわずか4音節。欧米語で単語の長短を決めるのはスペルじゃなくて音節だ。そりゃ英語のninty-oneは3音節だから、それよりは長いことになる。けれどもより桁が上がった場合には逆転する。たとえば、3991を仏語で言うと、trois mille neuf cents quatre-vingt-onzeで8音節。英語だとthree thousand nine hundred ninty-nineで9音節。というわけで、長短だけをとって仏語は面倒だということも一概にはいえず、単なる偏見にすぎない。

投稿者 Masaki : 15:27

2005年07月08日

ロンドン……

五輪誘致に沸いた翌日のテロ。なんだかこれ、サミットに合わせてというよりも、むしろ「五輪なんかやるとこうなるぞ」というメッセージのようにとれなくもない。もちろん、もし仮にそうなら、立候補地全部に実行部隊がいて、計画もある程度練ってなければいけないわけで、ま、妄言ではあるのだけれど……。いずれにしても、なんらかのイベントに合わせて仕掛けてくるというのをパターン化させてはいけない。そのためには、ただ警備を強化するだけでなく、イベントそのもののメディアの取り上げ方も分散・希釈させる必要があるようにも思える。五輪誘致程度の話で、大統領やら人気スポーツ選手やらが会場に乗り込みアピールするなんて、考えてみればバカな話で、明らかにメディアを意識した一種の「逸脱行為」。メディアがそれを煽り、政治家や利権関係者がそれに乗り、かくしてイベントの上昇スパイラル、インフレ状態になってしまう……。そういうのを多少減じるだけでも、テロの抑止効果は出てくるような気がするんだけれど(これも妄言か?)。

ラテン語系の有名ブログで少し前、パリ市の紋章の話が載っていた。そこからリンクされていた(と思う)のだけれど、パリ市の紋章は帆船の絵で、「fluctuat nec mergitur」((波に)翻弄されようと沈むことはない)と記されている。不屈の街なんだね、パリは。一方、ロンドンの紋章はというと、「domine, nos dirige」(主よ、われらを導きたまえ)。テロにあったロンドンに、パリの紋章の碑文を捧げよう。

投稿者 Masaki : 17:38

2005年07月05日

創発する世界

語学でも楽器でも、習い事が愉しいのは、なにか難しいことが知らぬ間に出来ていた時だったりする。また、よく言われるように、それは直線的にできるようになるのではなく、きわめて段階的に進展する。ある段階を越えるのは突然なのだ。一種の回路が出来上がるというイメージ。そしてそれをいつ越えたのかというのは本人にはきちんとはわからなかったりする。これぞまさに創発ということ。「知らぬ間に」というのもミソで、それは認識そのものまでも巻き込んだものなのかもしれない……。この話をもっと精緻に考え抜いていくと、それは心脳問題になるんだろうなあ。フランシスコ・ヴァレラほかによる『身体化された心』(田中靖夫訳、工作社、2001)は、現象学をベースに、仏教の(!)三昧/覚の思想を取り込みながら、認知主義をも受け止めつつ、創発概念をフルに活用して、「自己と世界」が無根拠の闇から相互に同時にせり上がってくる運動を捉えようという一種のホーリズム。これに目を通して思い出したのは、ベルンハルト・ヴェルテ『マイスター・エックハルト』(大津留直訳、法政大学出版局、2000)だったり。こちらも、エックハルトの神秘神学的な思想と仏教思想との重なり合いを取り上げて詳述していたっけ。洋の東西はこうして、思索の根もとで通底する……これもまた一種の「創発」か?

投稿者 Masaki : 17:08

2005年07月01日

科学の説明責任?

国際熱核融合実験炉(ITER)の誘致はフランスのカダラッシュに。「産出されるエネルギーは無尽蔵だ」とか「資源的に一万年先まで持つ」とか、いろいろと夢のような話が出ていたと思うけれど、なにかこう、推進者側(科学者と政治家たち)の「故意の言い落とし」みたいな部分がありそうで、今ひとつ不安がぬぐいきれないのは、これまでの原発事故とかの記憶があるからか。フランスでも日本でも、「誘致、誘致」と騒いでいたわりには、セキュリティ面などの説明らしい説明をしていない気がする(地元では、なんらかの説明がなされたのかしら?)。しかも今度の炉はまた未知の領域なわけで……想定されるリスクがどのようなもので、その一つ一つにどんな対策が講じられるのかリストアップして見せてほしいところだ。反対派の見解を取り上げたルモンドの記事(6月28日)には、反対派が小柴氏(ノーベル賞受賞者の)の「いくつかの条件が満たされていない」みたいな発言を引いている、と報じられている。うーん、まだprematureだってことはないのかねえ?

科学には当然理屈があり、科学以前の魔術や錬金術などにもそれなりの理屈はあったが、かつては多くの場合、そして今なお時折、そうした理屈は不完全でうまく機能しなかったり、思いも寄らないリスクが生じたりしてきた。余談ながら映画『コンタクト』なんかだと、異星から届いた設計図をもとに「宇宙船」を設計してしまうわけだけれど、そもそも理屈がある程度解明されていないものを科学は性急に作りはしないはず。科学以前と科学との顕著な差異は、そうした「理屈の完成度」への省察の可能性だが……セキュリティ意識の高まりもあって、それはいっそうの説明責任を伴っているはずだ。

投稿者 Masaki : 16:56