2005年06月29日

家系図……

フランス2の27日の20時のニュースでやっていたのだけれど、フランスでは最近、家系図を辿るいわゆる「ルーツ探し」がセラピーとして活用されているのだという。映像では、ルーツ探しで出った「親族」が一同に会したりして、和やかな雰囲気を醸し出していたりしたのだけれど、ルーツ探し自体は別に悪くないものの、ちょっと気になったのは、セラピストと称する人が誘導する形で、家系からいろいろな「心理的問題」やいわゆる「業」のようなものを指摘し解消していくのだというその手法だ。これって、一つ間違うとほとんどそこいらの新興宗教と変わらなくなくなってしまう。「親の因果が子に報い……」というか、そういう家系にまつわるインシデントの解釈は、西欧でも結構オカルトティックにもてはやされていたりとかするようだ。そりゃ、確かに遺伝特性としてある種の生物学的な傾向は受け継がれるのだから、祖先の行いなどを辿れば、自分の行いにオーバーラップする部分も当然出てくるだろう。けれどそういう部分を離れて、「霊性」みたいな話になったりしたら、もうこれは怪しい以外のなにものでもない。というか、それは単なる自己理解を逸脱・曲解した「信仰」になってしまう。

21世紀は「霊性の時代」かもしれない、といった話を誰かがしていたと思ったけれど(内田樹あたりだっけ?)、むしろ問題なのは「大きな宗教の大きな物語」が崩れ、小さな、それでいて先鋭化した「小さな物語」が蔓延・跋扈する時代になってきているということかも。だからこそ、信仰というブラックボックスを徹底的に批判する姿勢が、ますます重要になってくるんじゃないかなという気もする。最近、ミシェル・オンフレの新刊『無神学論』("Traité d'athéologie", Grasset, 2005)を読み囓り始めて、そんなことを改めて想っている……。

投稿者 Masaki : 23:47

2005年06月25日

グロテスクな?

たまに教養論みたいなものが復活するが、最近もそうらしい。高田理恵子『グロテスクな教養』(ちくま新書)をちらちらと見てみたのだけれど、これもまた、明治以来の人文系の教養主義の流れを、80年代のニューアカまで踏まえて捉えようという話。受験の勝者が「ボクは受験だけの秀才じゃないやい」と、レッテルを跳ね返そうとするのが日本的教養の土台なのだという。80年代の大学って、ニューアカも確かにあったけれど、それよりも「これこれをやりたいなら、どこそれ大学のだれそれがいる。別のこれこれをやりたいなら、どこそれ大学のだれそれに学べ」みたいな、やたらに他人の業績を自己データベース化して熱心に「弟子入り」を勧めるような、ちょっと変な教師というのが結構いた。教養主義を支えている一端にはそういう勧誘や、勧誘を受ける側の模倣指向・追従指向があったと思う(表面的には模倣・追従は忌み嫌われるのだけれど……アブジェクションですかね)。同書のいう「ニューアカを支えた受容者兼模倣者」というのは、確かにそういう模倣指向を臆せずあっけらかんと示すという意味で新しい現象だったかもしれないけれど、それってやっぱり、以前からあった動きが、学問の大衆化でもって表面化しただけのことなんではないかなあ、と。

同書ではわずかしか取り上げられていないけれど、西欧の学問の輸入商ではダメだみたいなことがよく言われたりもする。けれども学問的な発展というのは、内発的なものだけでは促されないのかもしれない、という気もする。西欧の中世において確立された学問が、そもそもアラブ世界を経由した古代ギリシアの学問を受容することで成立したように、外から流入するものはやはり必須。ニューアカがフランスの現代思想に沸き立ったのも、規模や文脈は違っても、どこかパラレルな現象のようにも見える。デリダとかドゥルーズとか、当時のアヴェロエスやアヴィセンナだったのかもなあ……なんて(笑)。いずれにしても、学的衰退を招くという意味で危険なのは、そういう外部に対して閉じていくこと、か。

投稿者 Masaki : 19:45

2005年06月20日

数学史

積ん読になっているものを、たまに整理して引っ張り出すと、思わず面白いものが見つかったりする。最近目にしてちょっと面白かったのが『現代思想10月臨時増刊−−数学の思考』(青土社、2000)。収録論文のうち、特に個人的には、三浦伸夫「アラビア数学の創造性」あたりが興味深い。中世アラブ世界の数学状況なんて、なかなか取り上げられない気がするからね。まず、中世のイスラム世界で数学の発展を促した一因には、法学にかかわる遺産分割法などがあったのだという。なるほど実利はやはり駆動力になるわけか。筆記が重要な役割を果たした、というあたりも意外な感じだ。後半の中心はイブン・シナーンという数学者の話。「10-11世紀のアラビア数学と、16-17世紀の西欧数学」に類似性が見られるという指摘も刺激的。そのあたり、もっと読みたい気がする。こうしてみると数学史も、なかなかに面白そうだ。

投稿者 Masaki : 20:39

2005年06月17日

砂と霧の……イラン?

DVDで映画『砂と霧の家』(ヴァディム・パールマン監督、2003)を観る。税金未払いで家を差し押さえられてしまった女性と、転売目的でその家を買ったイラン系の移民一家の確執を描くドラマ……なのだけれど、主な登場人物の誰にも共感できないという作品。その意味ではやや珍しいかもしれない。夫が出ていったという女性(ジェニファー・コネリー)はまったくシャキっとしていないし、それを助けようとする警官は家族を大事にしないし、警官の妻は夫婦の不和を子どもに見せまくるし。一方、転売目的の移民の親父(ベン・キングスレー)は、79年のイラン革命時に亡命したという設定なのだが、金がないというわりには表面的な贅沢を決して捨てようとしないし、その妻は実情に疎く脳天気に振る舞っているし。うーん、どいつもこいつも自己チューで、コミュニケーション不全に陥っている、という基本設定。なるほどアメリカってそうなのかもなあ。唯一興味深かったのは、米国に移り住んだイランの亡命者たちが描かれるという点か。冒頭でその親父は、イラン革命を批判しそうになる。石油資本で潤っていた上流階級の出(軍人)だという設定なのだが、亡命後はブルーカラーに身を落としつつ、そういう不動産の転売などを手がけるしかない。確かにこれっていかにもありそうな話だ。

そのイランはちょうど大統領選だ。最有力候補とされるホメイニの「弟子」ことラフサンジャニは、一週間ほど前の声明で、アメリカとの対話路線を強調したという(ラフサンジャニはイラン革命後に凍結された米国内のイラン人の財産について、その解除を求めている)。イラン革命がアメリカ主導の近代化を排除したものだったことを考えると、時代がずいぶん変わったことが改めて窺える。そういえば女性の社会進出もめざましいと聞いた。中東世界に原理主義の台頭を招く大元を作った国は、果たしてまた別のシフトの中心になることができるのかしら?

投稿者 Masaki : 15:33

2005年06月15日

生命倫理……

人工授精の規制緩和をめぐるイタリアの国民投票は、投票率が規定に足らず投票自体が無効となったという。ボイコットを呼びかけていた教会は、今回かなり大々的なキャンペーンを張っていた模様。法王庁の新体制は、政治的介入をいっそう強めていくのだろうか。

それにしても生命の問題は古くて新しい。「ヒト胚(受精卵)はすでにして人間である」という立場から出発する教会側の議論は、ある意味とてもわかりやすく、研究を推進したいといった側の主張をはねつけてしまう説得力があるとされる。けれどもこれは、魂(それは生命の根源とされる)の不分割性といった中世以来の考え方に、発生学的な知識が結合した一種のハイブリッドのようにも見える。ヴァチカンが介入するとすれば、そのような中世以来の長い伝統の上に立った神学的・政治的アプローチ(それは時に一種のホーリズムをなす)を仕掛けるはず。それに対立するであろう科学が、そうした思想的・政治的ホーリズムに対抗するためには、それに見合うだけの倫理の問題、オルタナティブなホーリズムみたいなものを考えていくしかないんでないかな……と。

となると、科学史的にみずからのスタンスそのものを問い直す作業も当然必要(教会はおそらく制度的に、そうしたみずからの根源を問い直せない)だ。(余談:ちゃんと読んではいないのだけれど、例えばジャック・ローゼンンベルグ『生命倫理学』(小幡谷友二訳、駿河台出版社)などが興味深いのは、そうした学問の根っ子の見直しを指向している部分が感じられるから。時にはそれは近代以前にまで遡らなくてはならなかったりもするわけで、同書にもやはりアリストテレス、さらに「タルムード」などへの言及もある)そうした作業はもちろんすでに始まっているだろうけれど、教会よりも「メディア化」するのは難しそうだ。このあたり、今後いっそう大きな問題になっていくはず。ついでながら、日本でも科学ジャーナリトみたいなものを養成する大学院を設置しようという動きが始まっているようだが、このあたりにも十分期待がかかりそうだ。

投稿者 Masaki : 23:02

2005年06月09日

ドグマ……

今週、新法王ベネディクト16世は改めて教義と路線の再確認を行ったそうだ。前任者を継承した路線……同棲や同性愛を糾弾し、中絶や遺伝子操作なども認めないということを強調した模様だ(例えばコリエレ・デラ・セーラの記事など)。まあ、そのこと自体は驚かないけれど、一方でFrance 2(現地7日の20時のニュース)なんかのコメントだと、欧州のカトリック教徒は減少の一途を辿っているという。前任者は移動という手段でもって、フットワークの軽さと、ある種の開放的な側面を印象づけることに成功していたが、さてベネディクト16世はどういう手を打っていくのだろう?

これに関連して、岩波書店『世界』6月号で西谷修が「ヨハネ・パウロ2世は敬愛するが、彼の『保守性』は認められない、といった見方は、『教会』というものと『教皇』のなんたるかを見誤っていると言うべきだろう」(p.202)と指摘している。カトリック教会が依って立つところのドグマ(信じ込むべき対象としての不合理なもの)の一つが、原罪としての性行為である以上、そうした根幹部分を守るのは、教皇の本質的な努めなのだということだが、それにしてもヨハネ・パウロ2世の巧みさは、上のような「保守性は否定してても法王は敬う」といったスタンスを多くの人に共有させた点にあると思う。開放の身振り、軽やかさの身振りがそこに寄与したことは見逃せない。「宗教の融和を説く法王なら、ひょっとして性の問題でもやがては開放を説くのではないか」といった期待感を植え付けたことが、あれほどの人気を呼んだ一因であるのは確かだろう。だからこそ新法王についても、その戦略が問われていくことは間違いない。

France 2のレポートでは、一方でフランスでも、郊外のゲットーを中心に、アメリカ流の福音主義教会が広がってきていることを紹介していた。ゴスペルを歌い踊ったり、いろいろなイベントで人々を惹きつけるというそのやり方は、かつてイエズス会がやっていた布教方法(映画が発明される前、教会内で影絵などのイフェクトを使ったスペクタクルを演出したりしていた)を彷彿とさせるもの。一種の原理主義だという批判も当然あるが、ゲットーの人々にそれなりにウケているという部分から、逆に既存の制度(教会でもいいし、社会福祉の制度でもいいが)の何がどう不全なのかが浮かび上がってきそうな気もする。

投稿者 Masaki : 16:03

2005年06月07日

Apple雑感

久々にコンピュータ関連話を。いや〜それにしても面食らったAppleのインテルへのチップ変更話。G5が発熱のせいでノートに載せられない、クロックスピードがさっぱり上がらないことに業を煮やした、というのが公式見解だけれど、一方でジョブズは、実はインテル版も密かに作っていました、みたいなことを言ったそうだ。なるほど、OS Xは基層がNetBSDだから移植もまあそんなに面倒じゃないのかなという気はする。けれども結局アーキテクチャの独自路線は捨てないようで、将来のそのインテルボックスはWindowsは動かなくなるとかいう話のよう。シェアが伸びるかどうかは微妙だよなあ。現行のPowerPCボックスも長くサポートする、なんて言っているらしいけれど、かつて68系からPowerPCに移行した時のように、数年で旧来のチップへの対応はなくなってしまいそうだ。新規開発のアプリケーションなんかは、以前のチップなんかサポートしないだろうし。OS9からOS Xへの移行も同じだったし。そうなると、少なくともしばらくは買い控えが出そう。Appleとしては、それまでiPodなんかだけで売上をつないでいこうということなんだろか。うちもG3のiBookとか使っているけれど、そろそろ買い換えたいかなと思っていたところ。今回の発表で、ちょっとインテル版が出るまで静観かな、という感じ、か。

投稿者 Masaki : 21:11

2005年06月04日

モナドの愉しみ?

少し前に手頃な新書サイズで出たライプニッツの「モナドロジー」の邦訳(『モナドロジー 形而上学序説』、清水富雄他訳、中公クラシックス)。久しぶりに読んでみて、やはり改めて想うのは、このモナド論のもつどこか静謐な穏やかさ、というか明るさだ。そこでのモナドが、中世的な個の概念を突き詰めていったものだとするなら(そもそもライプニッツの予定調和って、とても中世的だったっけね)、個の思想には近代において付与されるような悲壮感などは微塵もない。このことはあらためて注目していいかもね。近代において個の概念に付与される絶対的孤独の絶望感は、それはそれでまた別の深みをもたらしたとはいえ、例えばレヴィナスが『時間と他者』("Le temps et l'autre", PUF, 1979)で述べているような、孤独の愉しみの復権というのは、今こそ求められるんじゃないか、という気もする。なにしろそれは、他者との連携の理論の出立点になりそうだから。他を映し合うモナドに、新しい息吹が入り込むからもしれない、なんて。

投稿者 Masaki : 22:04

2005年06月03日

ルルス

2000年に東京で開催されたというクザーヌス国際会議のactである『境界に立つクザーヌス』(八巻・矢内編、知泉書館、2002)。ちびちびとこれを読んでいたのだけれど、とりわけ目を引いたのがヴァルダー・オイラーという人の「慣習は神の属性ではない」というタイトルの論考。これ、アベラール、ルルス、クザーヌスそれぞれが著した、スタンスもアプローチも異なる架空の宗教対話編3作を比較するという内容。個人的に注目されるのは、ライムンドゥス・ルルスの『異邦人と三賢者』かな。なにしろルルスは、実際にはアフリカでの布教に失敗した経験をもっている。一般に、ルルスの「宣教」というか説得は、合理性にあまりに重きを置きすぎていた、などと言われたりするのだけれど、どうなのだろう?ルルスのこの著書はぜひ目を通したいところだ。

投稿者 Masaki : 23:43