2005年05月31日

EU憲法条約……

フランス国民投票でのEU憲法条約批准の否決。なるほど、ブリュッセルやストラスブールの意思決定機関と、末端に位置する人々の民意とのギャップを如実に感じさせる結果だ。上の連中が何をどう決めようと、末端の人々の目に見える変化は、安い域内産の農産物の流入だったり、廉価な労働力を求めて国外に移転していく工場だったりするわけだ。それでは「よりよいEU、よりよいフランス」なんていう話は絵空事にしか聞こえない。現状の自由主義の本質というのは、実はうたい文句の完全競争なんかではなく、自前の利権をいかに温存しつつ領域拡大をするという保護主義的なものだし(競争はあくまで外部とだけするのだ)、それは帝国的戦略を「民営化」したものだという気もするが、EUの問題は、どこかでそれを取り違えて、域内での競争を前面に出してしまった点にある。もし中国の繊維問題などがはるか以前にクローズアップされ、具体的な影響をもたらしていたら、また話は変わっていったのかも知れないけど……。

自由競争の仮面をかぶりつつ、実は利権の保護をひた走るという自由主義のいびつさ、あるいは帝国的な拡張主義のイデオロギーは、やはりきっちり批判されないといけない。これって、遡っていけば、やはり西欧の制度化された宗教の構図と、根っこのところでは一つになっている。そう、中世の神学の議論などは、実はイデオロギーの強化という意味でとても重要な役割を果たしてきたわけで、そのあたりの役割を詳細に見ていく必要を、改めて痛感する……。

投稿者 Masaki : 21:28

2005年05月29日

「個」概念の考古学?

「個人」概念の問い直しも、最近は中世や古代にまで遡って行おうとする動きもあるようで、なかなか興味深い。最近、『中世における個人』("L'individu au Moyen Age", Aubier, 2005)という論集に目を通したのだけれど、文体の個性化とか、愛情の表現方法と自己だとか、様々な著者がいろいろな角度からアプローチしていて刺激的。最も直接的な論考が、ニコ・デン・ボックなる人の、サン=ヴィクトルのリカルドゥス(リシャール)論。この論文、前半では「個人」への言及の歴史をアリストテレス思想の広がりに即して簡単に振り返っている。西欧中世の伝統では、アリストテレスを紹介した際のボエティウスの言及を嚆矢として、12世紀の本格流入にいたり、アベラールやポワティエのジルベールなどのラディカルな唯名論的現実認識(「個別しか存在しない」という立場)から、オッカムのウィリアムの唯名論まで(「形相とは知性が現実を捉える際に生まれる概念にすぎない」)を俯瞰し、そうした流れにおいて、ドゥンス・スコトゥスの「そのもの性」概念(類概念の属性と偶有性とを併せ持ったカテゴリーとして、個別を捉える)がいかに鬼子的であるかが示されている。論の後半になると、その「そのもの性」への先駆的なものとして、サン=ヴィクトルのリカルドゥスによる「ダニエル性」(ダニエルという人物の実体としての個別性)が紹介される。なるほど、探せばいろいろあるもんなのね。

論文では、この概念はあくまで先駆として示されているだけで、スコトゥスとの関連などには触れられていない。リカルドゥスのこの話は、『三位一体論』第2巻12章に登場する。まだ全体は読んでいない羅仏対訳本("La Trinité", cerf, 1999)で確認してみると、この部分は、「実体」についての論。リカルドゥスは、実体を類、種、そして個に分けている。個というのは、類や種のように通約可能性をもたない単一の実体なのだという。うーん、このあたりの話が三位一体論ないし構成的な見取り図にどう組み込まれていくのか、ちょっと全体を見ないとわからないけれど、いずれにしても面白そうではある。

投稿者 Masaki : 20:33

2005年05月26日

「永久」の担保

思うところあって、このところ読んでいたアレクサンドリアのフィロン(ピロン)による『世界の不滅について』(希仏対訳本:"De aeternitate mundi", cerf, 1969)。フィロンといえば、キリストとほぼ同時代に活躍したユダヤ教系の思想家で、プラトン主義の先駆的な存在とされる人物。この『世界の不滅』については、プラトンの『ティマイオス』と旧約聖書の『創世記』の記述をつき合わせて、世界が創造されたものであるにせよ、なにゆえに不滅であると考えられるか、ということについて論じている。滅する因には外的・内的な因があるものの、「世界」にはどちらも当てはまらない(世界には外部はないし、内的な要素の組み替えの契機もない)というのがメインストーリーだ。不滅でないとすると、そもそも神との契約そのものの信用が成り立たなくなるというようなことを、フィロンは考えている節があって(?)、なにかそのあたりの切迫感のようなものが興味深い(これはちょっと穿った見方かもしれないけれどね)。期限が切られない、あるいは「永久」といった言葉で示されるような契約関係においては、一度その契約関係が取り交わされてしまうと、その部分をいじることは、当然契約そのものの信用性、持続性を損なう可能性が出てくる。だからこそフィロンがここで論理をかざして問うのは、世界の起源ではなくて、その「終わりのなさ」の担保であるように思える。

余談ながら、これでちょっと思い出すのは最近改憲論とかさかんに言われている日本国憲法。これにも「永久」の語が3度も使われている(戦争放棄の9条、基本的人権の11条、憲法による基本的人権の保障を説いた97条)。仮に改憲するとして、このあたりの文言がどうなるのかは、もしかすると国民的な契約の根源にかかわる問題になったりするんじゃないだろか。「永久」と言ってはみたものの、結局改訂するまでの「永久」でしかありませんでした、などということになったら、二度とその文言は信用されないわけで。そこで謳われている理念が、あるいは契約関係そのものが、総崩れしてしまうことにもなりかねないかも……と。

投稿者 Masaki : 16:18

2005年05月21日

リクール没す

気候の変化に身体がついていかず、今週は風邪を引いてダウン。と、ここへきてまたしても訃報の追い打ち(?)。今度はフランスの哲学者ポール・リクール。享年92歳とのこと。言わずと知れた解釈学の泰斗。西欧の注解の伝統を受け継ぎ、それをある方向にラディカルに拡張したもの、という風にもとれる。そういえば『時間と物語』、個人的には2巻目の途中まで読んで放置していたっけなあ。オマージュを込めて再開することにしようか、と。

投稿者 Masaki : 20:53

2005年05月13日

ガルガンチュア

長野の知事をやっている某作家のデビュー作など、「カタログ小説」と言われた80年代前半の小説群は、世相の記録という意味ではそれなりの意義があったのかなかったのか……なんてことを漠然と思ったのは、そういう「カタログ小説」のはるか上流に位置する始祖鳥のごときホラ話を読んだから、か。ご存じラブレーの『ガルガンチュア』の新訳(宮下志朗訳、ちくま学芸文庫)。新訳は原書がもつそういうカタログ性みたいなもの(博学とか博覧強記というのともちょっと違うかな?)が前面に出ている感じ。権威やら何やらを剛胆に笑い飛しながら、けれども密かにここに流れているのは一種の蒐集癖……というかリストアップすることへの過激な欲望、という感じ。なにしろそれは、話の進む方向にまで大きく影響を及ぼすのだから。「書く」って行為には、そういうリストアップする指向性が内在しているのかもなあと、いまさながらに思う。それって結構、世間のblogや掲示板、web全般の活況にも通じるものがあるんかな、と。

投稿者 Masaki : 22:30

2005年05月09日

「スポット」の幅

見過ごしていたのだけれど、フランスのテレビ局France 3の番組Culture et Dépendanceのサイトで、2004年6月放送分のデリダとドゥブレの対談が観られる。1時間半の対談で、主権やヨーロッパの問題などアクチャルな話題が主なテーマになっている。問題へのアプローチが両者で異なっている(当たり前だが)点が面白い。射影概念じゃないけれど、いってみればスポットの光の当て方の違いというか。筋をなすレーザー光のように奥にまで届く透徹な光でスキャンするのがデリダだとすると、より広いスポットライトを駆使して陰影の部分を浮かび上がらせようとするのがドゥブレという感じ。例えば主権概念についてなら、デリダはそれが分散し相互のやりとりのプロセスになるよう脱構築されることを目し、市民運動を高く評価するのに対して、ドゥブレはそれが国民国家と切り離せない概念であることを指摘し、その再興には懸念を表明してみせる。うん、なんだか本当に面白いのは、この対話の狭間の部分にこそあるような気がする(笑)。

投稿者 Masaki : 23:43

2005年05月08日

村落的……

この間DVDで観たナイト・シャマランの『ヴィレッジ』。シャマランの映画って、一作ごとに「なんだかな〜」という感じが強くなってきている(笑)。ネタバレっぽくなってしまうけれど、こんな村、破綻なく維持できるわけないじゃないの……と思ってしまうのだけれどなあ。とはいえ、恐怖があって、それに対処するために人が団結するというこの構図、「お金は苦しみを呼ぶだけだ」てなセリフとは裏腹に、昨今の自由主義世界のある側面の縮図になっている。そこに欠落しているのは、恐怖そのものへのメタな視点だ。うーん、現代世界の恐怖についても同じことが言える、ってか。

この作品でちらっと思い出したのは、あまりちゃんと読んでいなかった関根伸一郎『アスコーナ−−文明からの闘争』(三元社、2002)。アスコーナは19世紀にスイスに興った菜食者コロニーなのだそうだけれど、同書の写真などを見ると、かなりヒッピー的、あるいは新興宗教的で、なにやら怪しげな雰囲気を醸し出している(爆笑)。同書はその誕生から衰退まで、さらにドイツの文人などの関わりをエピソードとして追ったもの。ある意味で、組織がたどる変遷をすべて網羅した見本のようになっている点が、組織論的には面白いかもね。そういえば17世紀末に登場したアーミッシュの起源もスイスにあったんじゃなかったっけ。宗教改革の話も含めて、近世のスイスは興味深いかも。

投稿者 Masaki : 15:34

2005年05月05日

顔の現象学へ?

最近、DVDで出ていた『緋牡丹博徒・お竜参上』(加藤泰監督作品、1970)をレンタルで看た。浅草の一家が仕切る演芸場を別の一家が乗っ取ろうとする、というのがストーリーの基本線で、なんだか先のフジテレビVSライブドアを彷彿とさせる(笑)。映画では、乗っ取りをかけるほうの親玉は例によって悪人面で、勧善懲悪のパターンが踏襲されている(両方やくざなんだから、本当なら勧善懲悪なわけないのだけれど)。フジテレビあたりもこういうストーリーを演出したかったのだろうけれど、そう出来なかった一つの理由は、映画と違い登場人物の人相がどれもこれも「善玉」っぽくなかったせいじゃないか、という気もしなくない。うーん、こうしてみると、「人相」または「顔」の現象学的考察なんて話が改めて気になってきたり。

説話的なパターン認識を崩してしまうほどに、人相ないし顔というものはあいまいなもの、分類や理解をはねつけるものだ。境界線上の曖昧なものは恐怖を誘い、人はそれをアブジェクトしたがる……ってなところから例によって始まるクリステヴァの『斬首の光景』(星埜・塚本訳、みすず書房)は、そうはいっても、メドゥーサの恐怖を一方に、そしてイコンの聖性をもう一方の側に見据えながら、そうしたものの恐れや畏怖を和らげ塗り固めていくフィギュール(表徴)へと足を踏み入れていった西欧のイメージの歴史を、辿り直すという面白い一冊。頭部への両義的なこだわりというのは、「オイディプス期前の母親への恐怖」(いかにもクライン派っぽいが(笑))の文脈でなくとも、いわば全体的な自己認識にぽっかりあいた穴を、別の代償で埋めようとするもののように思える。何しろ自分の顔を見えないために、あえて他者の顔に自己投影をしようとか(そんでもってそれを次々に切り替えていく)、さらには超越的な視線を仮構しようとしたりとかする……ある意味でそれは、聖なるものへも通じる空虚かな、と。先に挙げた野家啓一『物語の哲学』で紹介されていたエルンスト・マッハの自画像(ソファに足を伸ばした自分を自分が見たままに描いた図で、当然頭や顔は見えない)などが、とりわけそういうことを考えさせたり……。

投稿者 Masaki : 08:17

2005年05月02日

パターン認識と誤謬

去る30日、前の日の深夜からネットの接続が不調だったのだけれど、ついにまったく繋がらなくなってしまった。少し前にもこういう症状があり、その時にはNTT側の中継局の問題だったので、今回もそうだろうと思いこんでいたのだけれど、サポートに問い合わせたらそちらの異常はないという。ついでにいろいろと指示されて、結果としてADSLモデムの不調ではないということが判明した。そうなると怪しいのはもう長年使っているルータ、ということに落ち着いた。実際、ルータの交換で復旧は完了。いや〜それなりに面倒だった。

当然だけれど、ネットワークの場合、どの機器が不調でも症状は同じ「全然繋がらない」という状況になる。まあ、そうなったら順を追ってそれぞれの機器を確かめていけばよいわけで、作業は面倒でも、チェックポイントはそれほど多くないので、どこの不調かは比較的簡単に判明し、対策も講じられる。けれども今回の反省点は、比較的最近NTT側の不調があったせいで、それがパターン認識的な刷り込みとなって(今回もそうだろうと勝手に思いこみ)、手元の機器のチェックが遅れたこと。こういうバイアス、日常的によくあることだけれど、現実を複合性ともども捉えようとすることは実はとても難しい作業だと改めて認識したり。

こうしたネット機器程度ならそれほど問題ではないけれど、より複雑な系では、どこから手をつけてよいかわからなかったりして、ある程度限定されたチェックポイントにいきなり「決め打ち」を仕掛けるような場面もあるかもしれない。けれども、そういうやり方が有効に働くのは、そうした系に対する知識ベースが豊富で、様々なコーパスがリファレンスとして整えられている場合に限られるはず。そういう意味では、若い医者とかが、患者よりも資料とかパソコンのデータベースとかばかりを参照して、「決め打ち」的診断をしたりする、というのが最近増えているのだという話を聞いたけれど、それはちょっとなあ、と思う。しなやかに対応できない場合の「決め打ち」は、逆にバイアスをこしらえてしまうだけだったり。うん、歴史や思想の探求でもそれは同じことか。

投稿者 Masaki : 12:11