2006年01月27日

原理主義再び

テレビの報道は相変わらずライブドア問題ばかり。パレスチナの選挙でのハマス勝利なんてのも、BSはともかく地上波でさっぱり取り上げられないというのはちょっとなあ……。けれども考えてみると、ライブドアが体現していた(代表していた?)のは、資本主義という「信仰」の原理主義(の1ムーブメント)だという感じも。世間的には拝金主義などと形容されているけれど、すべての価値を金銭にしか結びつけない短絡さや、違法なものも含めて強行手段を取るといった姿勢など、宗教の原理主義に通底する部分はかなり多い。ハマスに代表されるような組織がやってきたことと、確かにレベルや内容は違うとはいえ(そちらは人命を直接危険にさらすテロ行為だから)、その基本姿勢は案外、そう遠いところにはないのかもしれない。すると問題は、こういう「信仰」の精鋭化そのもののメカニズムについて問うこと、になっていきそうだ。

そこには組織論的な話も関わってきそうな気がする。テロリストの末端グループが世代的に狭いスパンの人員で構成されているように、ベンチャー企業も構成人員の世代的スパンが狭い。それが狭すぎる場合、あまりに均質になり、異質なものが取り込まれなくなって、結果的にイデオロギーの先鋭化が起こりやすい、みたいな……。健全な環境というのは、やはり多種多様なエレメントが同時にいろんな方向に綱引きをして、全体が揺れ動いていく、というイメージなのだが(民主主義のイメージってまさにそういうもの)、特定分子だけで固まって一方向に引っ張られるというのは、もはやファシズムでしかない。

ハマスのように原理主義政権が危ういのは、その先にファシズムが待っていそうな気配が濃厚だからだけれど、経済的なイデオロギーの原理主義だって、その意味では相当に危うい。実際にライブドアのホリエは選挙にまで担ぎ出されたわけだし……。

投稿者 Masaki : 23:28

2006年01月21日

本業、副業

自由競争だといっても、内実は自由に競争なんかしていないことが改めて露呈した今回のライブドアショック。ま、それはともかく、ライブドアが未だにIT企業だと称されているのはなんだかなあという感じ。話はえらく違うけれど、今週、聞いたことのない会社から翻訳依頼の電話がきた。聞けば、えらい昔に何度か仕事をしたことのある翻訳会社が社名を変更したのだとかいう。以前の社名には翻訳会社っぽさがあったのだけれど、新社名は印象としてそんな風ではなく、一瞬セールスの電話かと思ったほど。丁重にお断りさせていただいたのだけれど、おそらくこの新会社、翻訳業務などはもう本業ではないのかもしれない。くだんのライブドアだって、ITとか言いながらそれは副業になり、企業買収が本業になっていたわけで。

こういう本業・副業のシフトは、バブル期以降に盛んになされ、以来衰えるどころか、ますます拍車が掛かっているように思える。印象としては90年代以降のほうが、むしろ安直にシフトするようになった(?)。これは企業も人も同じ。たとえば研究者だって、特に人文系など、結構安直に他の領域に口出しするようになった感が強い。それがちょうどポストモダンばやりのころからか。ま、面白い成果が出るなら全くオッケーだけれど、20年前はそれでもずいぶん慎ましかった。仏文学者が日本文学を取り上げるぐらいで、専門領域としてオーバーラップする部分がちゃんと確保してあった。その後は学際性ということが安易に言われ、けれども人的交流が進むのではなくて、単純に異分野が安直に言及・直結されやすくなっただけのようで……。それはまあ、日本だけの話じゃないけれど(もとの文学専攻がコンピュータ社会なんかを論じたり、哲学専攻が脳科学に足を踏み入れたりとか)、ちくはぐな印象を拭えないものも少なくない。ま、本業と副業の差はどこにあるのかといったら、その分野に固有の核心的な労苦にどれほど肉迫してきたか、俗っぽくいえばどれほど修羅場をくぐってきたか、というあたりに帰着しそうなのだけれど……。あ、その意味では、ライブドアなんかも、今回の事件でようやく本物の株屋になるのかもしれない(って、存続できるならの話だけれど)。

投稿者 Masaki : 16:46

2006年01月17日

神々の黄昏

昨日はマリンスキー劇場の来日公演の一つ、『神々の黄昏』を観る。「リング」のツィクルスのうち今回観るのはこれだけ。うーん、これほどまでにオーケストラが主役だったオペラって観たことがないほど。その意味では実に面白かった。ゲルギエフ率いるオケの音量や躍動感がすごくて、爆走するところでは舞台上の歌手すら蹴散らしていく(歌手の声がかき消されてしまうほど)。なんだかど迫力の演奏で、あっという間に3幕が過ぎていった。ワグナーの音楽ってこういうものよね、という感じ。演出面は舞台装置も含めてけっこうミニマルで、あとは照明を駆使しまくりだけれど、それほどの目新しさはなし。『黄昏』は奸計が二重三重にほころんでいく話だけに、その結び目をなしているハーゲンのキャラは、ブリュンヒルデと並んでとても重要だと思うんだけれど、今回のハーゲンはなんだか今ひとつ物足りない。そもそもキャラクターデザインがイマイチだし、声量も今ひとつ足りない。そこがちょっと残念か。

投稿者 Masaki : 13:22

2006年01月14日

断章的感性の著者たち?

少し前に出ていた『ウィトゲンシュタイン哲学宗教日記』(イルゼ・ゾマヴィラ編、鬼界彰夫訳、講談社)は、ちょっと驚き。前半部分ではたびたび音楽に言及され、時代の音楽がその時代を代表する規範に対応する、といった考えが記される。後半になると、まるで自分の根っこを掘り起こすように、おのれの宗教意識と格闘していく。どこかあえぎのような思考の断片が断章形式(きわめて日記的なものだ)と相まって、緊張感をともなって迫ってくる。断章を読む醍醐味というのは、そういう緊張感にあったんだけっと改めて思う。

そういえば、こういう緊張感を感じさせるもう一人の著者がレヴィナスだったりする。今年はレヴィナス生誕100年なので、おそらくフランスの雑誌とかで特集があるんじゃないかと期待しているけれど、いずれにしても、全然断章ではない文章が、その抽象的な議論のせいかすこぶる断章的に読めてしまうところがレヴィナスのおもしろさなような気がしたり。文庫で上巻が出ている『全体性と無限』(熊野純彦訳、岩波文庫)なんかも、なんだかそういう緊張感を改めて感じさせてくれる。ロラン・バルトの断章がどこかとっても偽善的(というか、人為的すぎるということね)なのに対して、レヴィナスの様々な文章はどこか本質的な断章的思考なような気がする(一種の妄言だけど)。今年あたりはたくさんある未読のものを中心にいろいろ読んでいきたいものだ。もちろんユダヤ思想の関連を中心に。

投稿者 Masaki : 18:43

2006年01月11日

さまよえるユダヤ人

技術の発祥の神話とされるのはプロメテウスが神の火を盗んだ話。その結果、プロメテウスは永劫の苦しみを味わうことになる。で、これについてレジス・ドブレは、西欧においてこの神話は「さまよえるユダヤ人」に二重写しになっている、みたいなことをチラっと語っている。ちょうど年末くらいにエドガール・キネ『さまよえるユダヤ人』(戸田吉信訳、法政大学出版局)が出ている。十字架を背負わされたキリストが休息を請うた際に、それを断ったために、世界が終わるまで歩き続けることを宣告されてしまうユダヤ人の話。中世に起源があるらしいとのことで、おそらくはユダヤ人迫害などの文脈から出てきたものなのだろうけれど、詳しいことは不明。この話は、なんと南方熊楠も取り上げている。これまた出たばかりの『南方熊楠英文論考−−[ネイチャー誌]編』(飯倉照平監修、集英社)は、タイトル通り『ネイチャー誌』掲載の熊楠の論文を邦訳したものだけれど、これに「さまよえるユダヤ人」伝説を扱った短い文章が4編収録されている。解説にあるように、文化伝播説の考え方が主流だった当時、熊楠は仏典や、さらにはそれ以前の中国の文献に見られる同じような話を紹介し、東方起源であることを論証しようとしている。ま、こうした伝播説は今なら必ずしも採択されないわけで、むしろその伝説のパターンが普遍的であることを立証すると見ることができそうだ。

キリストの十字架の道で起きたとされる出来事だけに、「さまえるユダヤ人」はキリストの顔が写されたというヴェロニカの伝説と対をなすようにも思われる。ちょうど読みかけのピエール・ルジャンドル『鏡に映った神』("Dieu au miroir", Fayard, 1994)が、冒頭でナルシス神話の次にヴェロニカの伝説を取り上げ、主体を構成する隔たりの現前化としてのイメージ、という文脈で扱っている。そこから考えると、「さまよえるユダヤ人」はさしあたり、隔たりの絶対化、世俗世界の永劫化といった表象に結びついている感じ?いや〜いずれにしても結構面白そうなので、どういう文献が出ているのかまずは調べてみたいと思う。

投稿者 Masaki : 20:17

2006年01月06日

「読解可能」な世界

昨年末くらいに出たハンス・ブルーメンベルク『世界の読解可能性』(山本尤、伊藤秀一訳、法政大学出版局)。世界というものが書物のメタファーによって「読む対象」と捉えられたのはいつごろなのか、またそのメタファーにはどうほどの射程があるのか、というのが基本問題。西欧の歴史をこれでラフ・スケッチしていくという面白いアプローチ。古代ギリシア世界においては、プラトンに示されるように自然は考察の直接の対象にはなっていない。ストア派において世界の完全性という話が出てきても、書のメタファーとは結びつかない。プロティノスにいたってようやく天体などが字母との類推で言及されるものの、聖書が参照される書物として成立すると、自然をもう一つの書物とする考えは生じるものの、それは聖書の枠組みでしか捕らえられず、精査される対象とはほど遠いものになってしまう。そしてそうした隔たりは中世全体を通じて維持され、深化していくことになる。自然の解釈が聖書の呪縛から放たれるには近世を待たなくてはならない……と、ここまでで全体の3分の1程度。話はこの後、近世、近代、現代へと続いていく。

個々の議論はもっと詳細に検討できるかもしれないけれど、ラフ・スケッチとしてはなかなか鮮やかではある。書物のメタファーとしての世界、という世界観は、表現はともかく、内実としてはごく最近になって成立したものであることが改めてわかる。世界が正真正銘の書物のメタファーになるには、逆説的に大文字の書物(聖書)から解放されなくてはならない、という次第だ。けれどもまた、自然が完全に読み切られるものとなる(幻想の上で)時、今度は何か新たな書物、新たな参照基準がなければ、それは自然を操作するという話に向かっていかざるをえない、という別の逆説もありうるわけで……。

ブルーメンベルクはクルティウスのスタンス(書物の象徴学)を、古典古代の源流を軽視しキリスト教を重視しているとして批判している。実際は逆ではないか、というわけだ。余談だけれど、最近思うところあって、いまさらながらだけれどクルティウスの『ヨーロッパ文学とラテン中世』("Europäische Literatur und lateinisches Mitelalter", Francke, 1948-93)に眼を通し直しているところ。ヨーロッパという概念形成を空間的というより歴史的に捉えようというその姿勢も、現在のヨーロッパ概念の広がりという文脈からも批判・拡張されていくのかな、と。

投稿者 Masaki : 20:14

2006年01月04日

イーストウッド

クリント・イーストウッドの『ミリオンダラー・ベイビー』をDVDで観る。イーストウッドの監督作品は、どれもある種の復讐譚。というか、人生の負債をなんとか晴らそうとする主人公たちの物語。少し前に観た『荒野のストレンジャー』(72年)なんかもまさにそんな感じ(これは後の『ペイルライダー』(82年)につながる作品。それを言うなら、ミリオンダラー・ベイビーにつながるのは、『センチメンタル・アドベンチャー』(85年)あたり?これ確かフランスでオールナイトで観た覚えがある。朝に無料で固いサンドイッチが食べられたっけ)。けれどもいつしか、そうした負債を晴らそうとしてもっと大きな負債を抱える、みたいな展開に力点が置かれるようになった感じがする(『許されざる者』『パーフェクトワールド』あたりから?)。「人は自分の人生に復讐される」とは色川武大の名言だが、まさにそんな感じか。ややネタバレだが(失礼)、ちょうどフランスではある尊厳死裁判をめぐって、検察側が免訴の請求を出したという話が報じられている。イーストウッドはどんな娯楽作品を撮っても、どこかにさりげなく社会的な問いをかましてくれるけれど、今回はまさに、という感じ。

Webcamから、昨年11月下旬のパリの朝焼け。なんだか新年っぽいんでないの?
effel0511.jpg

投稿者 Masaki : 00:35

2006年01月02日

ソクラテスと中世

プロクロスなどを読んでいると、当然ながら随所でプラトンの著作に言及されるわけだけれど、ソクラテスの名前は出ても、それはあくまでプラトンのテキストの中の登場人物程度の扱いでしかなく、いわば思想としてのソクラテスは「不在」だ。この不在ぶりと、後世のソクラテス評価というのは実に対照的。どうしてこんなことになっているのかと前から疑問だったのだけれど、この年末年始、納富信留『哲学者の誕生−−ソクラテスをめぐる人々』(ちくま新書)を見てみた。ここには、あらためてソクラテスの受容の問題が少しばかりクローズアップされている。日本でキャッチフレーズ的に教えられている「無知の知」なんてのは、実はソクラテスの発言には登場しない。アリストテレスとキケロのフィルターを経て、さらにはクザーヌスにいたる否定神学の流れと出会って「知ある不知」という概念ができあがり、これが近代にまで受け継がれ、ドイツ経由で日本に入ってくるという紆余曲折を経ているのだという。うーん、なるほど、否定神学的なものの見方は意外なところにも影響力を及ぼしているらしい。まさしくこれは中世の思想史の問題。ソクラテスの神格化のプロセスというのも面白そうな問題領域だ。そういえば余談だけれど、『パイドン』の中でソクラテスが語る「魂の不死」の思想(それ自体はプラトンのものとされるけれど)が、ピュタゴラス派の思想を反映しているのではないか、という話もある。それも遡ればオリエントの死生観に至る、という話。このあたりももう少し詳しく押さえてみたいところではある……。

投稿者 Masaki : 19:50