2006年02月25日

アンセルムス的転回

まだ途中だけれど、瀬戸一夫『神学と科学−−アンセルムスの時間論』(勁草書房、2006)を読んでいるところ。これまで、ペトルス・ダミアニやランフランクスの時間の考え方をそれらの神学論争から浮かび上がらせてきた同著者は、今回ランフランクスの後継者にあたるアンセルムスを取り上げ、再び論理命題の図式化などを駆使して、時制の用い方から時間概念をすくい上げる精緻な作業に取り組んでいる。今回は、論理命題についての判断を宙づりにするという、一種記号論的な操作が問題になっていて、それはとりもなおさず、科学的な命題の萌芽だということになる。著者はアンセルムスの中にその操作の痕跡を見、「アンセルムス的転回」の可能性を示唆している。うーん、なるほど、記号の事物からの遊離を跡づけるというのは、とても重要な作業なのだなと改めて。ただ、そういう微細な部分に分け入っていくだけに、今回の著書ではこれまでよりも、挿入されるコペルニクスなどのたとえ話がむしろ前面に出てきすぎているような印象もところどころ感じられたり(笑)。とはいえ、近世以降に展開していく科学の芽、あるいはそれを下支えする発想の一端が、11世紀ごろに神学の中で培われていくというのは、検証しがいのあるテーマだなあ、と。

投稿者 Masaki : 06:50

2006年02月21日

エックハルトの「光」

いつもながら興味深いblog「ヘルモゲネスを探して」は、1月から2月の一連のアーティクルでガンのヘンリクス(13世紀を代表する思想家の一人)による照明論を取り上げていた。ヘンリクスに限らず、この時代の光の比喩(というか、実際にはそれ以上のものなのだけれど)は、認識論と存在論との微妙な錯綜を浮かび上がらせていて面白い。トマスなどは認識論的に読めるので、はるかにわかりやすいけれど、対照的にエックハルトあたりになると、かなり存在論の方にシフトしている感じで、いろいろ意外な記述に出会ったりとか。両者の中間あたりにガンのヘンリクスが来るのかしら(そういう中間のものこそが、案外一番わかりにくく、そして一番刺激的だったりする。そのうち当たってみたいところだ)。ちょうど最近、昨年ネット経由で海外の古本屋から入手した『ヨハネ福音書注解』の分冊(本文のごく一部だ)を眺めていたところなのだけれど、そこでは光は単なる能動知性の枠を越えて、形相=生命=知性(さらには存在)という連鎖を次々に表していくもののよう。照らされて浮かび上がるスペキエス(プログラミング用語的にいうと、クラスに対するインスタンスだ(笑))も、認識論と存在論の間を揺れ動いている感じ。

それにしても上の『注解』の分冊、戦前の印刷物だけれど、まさに中世の学生たちが手にとっていた形式。昔はこういう流通があったのだなあ、と。分冊をすべて集めて自分で製本していたわけだ。うーん、今現在、全部集めるのは難しそうだが……。それにしても書籍のそういう売り方、復活してほしいような気もする。

投稿者 Masaki : 17:03

2006年02月20日

雑感:フレーズの一人歩き

少し前だけれど、「辛口言葉(Langue Sauce Piquante)」がマルクスの「宗教は民衆の阿片である」という一節を取り上げていた。ソクラテスの「無知の知」ほどではないにせよ、これも一人歩きしている句ではある。実際には、これはもうちょっと長く、「宗教は不孝に苛まれる者のため息、心なき世界の魂、精神なき時代の精神なのだ、(要するに)それは民衆の阿片なのだ」、みたいに続く。阿片そのものも、当時は痛みを緩和するものという意味だったようで、麻薬的なニュアンスではない。

そういえば技術論で引き合いにされたりするプロメテウス神話(およびそれに先立つエピメテウスの過ち)も、プラトンの『プロタゴラス』を改めて見てみると、なるほど技術は人間に与えられたものの、それはあくまで生活のための知恵であって、社会をなすための知恵(戒めと慎み)はというと、やはりゼウスによって(ヘルメスを遣わして)、しかも万人に(少数者だけにでなく)与えられたという話の展開になっていく。プロクロスの『プラトン神学』5巻などでは、このあたりの話からゼウスとデミウルゴスとの同一視という議論が展開していくのだけれど、それはともかくこの政治的「技術」が非専門技術であるということは、なかなかに示唆的ではある。

久々にWebcamから。1月初旬のモンデッロ湾(パレルモ)。いいねえ地中海は。
Golfo di Mondello.jpg

投稿者 Masaki : 16:12

2006年02月17日

不信社会

救急医療はまったく当てにならないという現実をまざまざと見せつける出来事が、最近ごく身近なところであった。レントゲンまで撮っても骨折を見抜けない医者が現実にいるというのは恐るべき事態だよなあ。こういうところから医療不信なんてことが起きてくるわけで。医療に限らず、広義のサービス業全体にそういう不信が広まってきている感じもする。あるいは世代間不信なんてのも、昔よりひどくなっているみたいだし。上の世代は後続世代を信用していないし、下の世代も上に対して同様だ。なんだか不信が社会の隅々にまで雲海のように拡がっていこうとしている感じ。やだよなあ、こういう雰囲気。

絲山秋子「沖で待つ」という小説を読んだ。芥川賞受賞作。こういう受賞作を読むのなんて川上弘美『蛇を踏む』(文藝春秋)以来かも。亡くなった同期入社の友人のハードディスクを、生前の約束にしたがって壊しにいくという話……って、こう要約してしまうと身も蓋もないけれど、実際には独特な味わいで、微妙な関係性を切り出しているところがなんだかほほえましい感じもする。どこか孤島のような作品世界。けれどもその孤島の周りには、ひょっとして地鳴りのごとくに社会の不信感のようなものが渦巻いているのかしら……なんてつい穿った見方をしてしまう。巨大な不信社会に抵抗できるのは、案外こういうミクロな連帯感しかないのかも、という感じを抱かせもする。

投稿者 Masaki : 16:33

2006年02月11日

さまよえるユダヤ人−−その2

「さまよえるユダヤ人」の伝説について基本文献を調べようと、とりあえずマリー=フランス・ルアール『さまよえるユダヤ人の神話』(Marie-France Rouart, "Le Mythe du Juif Errant", José Corti, 1988)を入手してみた。ざっと眺めただけだけれど、これは19世紀のその伝説の受容、とりわけ文学界隈でのその受容史を追ったもののようだ。中世あたりから通して追っていくのかと期待していたので、ちょっと肩すかしといえなくもないが……それでも起源についての言及もあり、1228年に英国の聖職者マチュー・パリスが記したのが最初のテキストだというし、さらに一番古い言及はグイド・ボナッティというイタリアの天文学者(13世紀?)のものとかあるという。うーん、そのあたり読んでみたいものだが……。

面白いのは、烙印を押されてさまよう運命にあるというそのユダヤ人(アースヴェリュス)が、18世紀末ぐらいになると、人間の自由を体現しようとしたとして一種英雄視されていくこと。そのあたりの動きは、カント思想などの影響を反映しているという次第。プロメテウス神話との関わりはどうやらそのあたりにあるらしい。社会から排除されるものが高みに返り咲くという、まさに人類学的な興味深い現象だ。この「さまよえるユダヤ人」はまさに「外部」を体現する形象なのだなとあらためて納得。

投稿者 Masaki : 21:36

2006年02月07日

レシプロシティ……

麻雀小説や麻雀漫画は結構好きでたまに読んだりはする(基本的に麻雀そのものはど下手なのでやっていないけれど)。なにしろそれらの作品は、話は荒唐無稽でも基本的にアイデア勝負なので、そこがなかなか面白い。深夜枠でやっているアニメ『アカギ−−闇に舞い降りた天才』も当然のごとく視聴。これ、面白いのは主人公アカギが相手に徹底して同等の条件を求めること。たがいに破滅するくらいのものを賭けてぎりぎりの勝負をする、というのはまあピカレスクロマンではありがちだけれど、本筋に関係ないエピソードでも、不良少年たちに「こんなやつ殺したっていい」と言われたアカギが、形勢逆転ののち、「こんなやつ殺したっていい、ってことは、お前も殺されて構わないってことだな」みたいな台詞を言う場面がある。相手への侵犯には、相手から侵犯されるということが裏側に貼り付いている、と。この相互性を逆手にとると、暴力的連鎖をストップさせるための倫理の芽にもなりうる、ということを改めて考えさせてくれる。

そういえばイスラム圏とヨーロッパの対立という感じになっているこのところのムハンマドの風刺画問題。これなど、まさしくレシプロシティの欠如を如実に感じさせるもの。暴力的連鎖は、相互が決してイーブンにならないから続いていくわけで。そもそも、民主主義的な表現の自由も、イスラム教の偶像否定も、本来なら互いの陣営内部でしか通用しないイデオロギー。それを外部にまで拡張しようとするから話がややしくなる。ともに、そのイデオロギーが通用しない「外部」があることを受け入れないといけないのだが……イデオロギーってそもそもそういう部分を排除して成り立っているから始末が悪い。西欧側の反応も、かなり極端というか、一種の思想的硬直が進んでいるみたいだというか。

投稿者 Masaki : 21:46

2006年02月03日

ラスト・オブ・イングランド

ある方と雑談をしていて、米国が日本の牛肉禁輸措置について「米国は日本車に欠陥があっても禁輸にはしない」と述べた話が出、その人(毒舌が持ち味だけれど)は米国について「なんだかまるでサタンの国のようだ」とおっしゃった。うーん、意外なところでサタンの話が出てきたなあ、という感じ。とっさにヨハネの黙示録が思い出される(笑)。そういえばヨハネの黙示録は新約の中では「浮いて」見える。正典の中では落ち着きが悪いような感じ。そもそもどういう経緯でこの文書が正典入りを果たしたのか気になるところ。改めて言うまでもないけれど、そもそも聖書の正典成立過程はいろいろ謎だよなあ。そのうちちゃんと勉強してみたいところなんだけれど……。

終末論的悪夢といえば、最近久々にデレク・ジャーマンの『ラスト・オブ・イングランド』をレンタルDVDで観た。87年の作品だったっけ。ジャーマンの映画としてはとりわけわかりやすい。細部はすっかり忘れていたけれど、大英帝国の終末のイメージが強烈なリズムでモンタージュされている。寺山修司の実験映画に通じるものがあるし、シャコンヌやら民謡やら威風堂々やらの曲の使われ方もサウンドコラージュとして興味深い。映像の物語素というものを考える題材にもなる……けれども現代世界の文脈からすれば、やはりそのテロリストの悪夢のイメージがなんといっても強烈だ。実験映画のある種の暴力性と、描かれるものの暴力性とが重なり合って、とても息苦しい映像体験が拡がる。だけれど、のっぺりしたテレビ画像ばかりが流れるこのご時世には、どこかこういうアンチテーゼももっと欲しいところかもね……?

投稿者 Masaki : 15:32

2006年02月01日

イソクラテス

昨年夏ごろに文庫で出た廣川洋一『イソクラテスの修辞学校』(講談社学芸文庫)を読む。プラトンの向こうを張って弁論や修辞を教える学校を作ったイソクラテス。けれどもそこで実践されていたのは、一般にソフィスト的とされるような技巧・技法にのみ重点を置いた教育では必ずしもなかった、というのがメインストリーム。逆にプラトンの側の政治性などがあぶり出されていくという点がとても興味深い。歴史の重視、言論重視の教養理念としてのピロソピアー、書き言葉を尊重する立場など、イソクラテスの思想はどれも近代へとつながる底流になっていることがわかるというもの(最後の章では、イタリアのユマニストとイエズス会の教育理念への継承についても触れられている)。これ、プラトンからの逆照射によって輪郭がはっきりとしてくる、というのが同書の見事な技だ。なるほど、ギリシアから受け継がれる伝統もとうてい一枚岩ではない、と。確かに、ソフィスト的なものの再評価(実践教育として)というのは結構面白そうなテーマかも、という気はする。教師論なども合わせて、西欧の一つの流れとして掘り起こせないもんかなあ。

写真は都内某所の元旦のもの
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投稿者 Masaki : 19:15