2006年03月30日

ソラリス……

スタニスワフ・レム死去のニュース。著名人の生死って、時に勘違いしたりすることがあるけれど、レムについてもそうで、存命だった事実を知らず、訃報にびっくりしてしまった(苦笑)。合掌。あまりにも有名な『ソラリスの陽のもとに』のほか、『捜査』とか『枯葉熱』とかも持っていたはずだけれど、去年夏から借りているトランクルーム行きにしてしまったせいで手元にない(笑)。レムの作品はどれもアイデア的に面白い。『ソラリスの……』なんか、構図としては知性的なものによって、第一質料(みたいなもの)が形をなすっていうんだから、まさに中世の質料形相論っぽい話。質料形相論的な視座が、作品が書かれた60年代くらいまで連綿と伝統として息づいていたのかも、なんて考えるととても興味深い。

質料形相論とくれば光の隠喩。というわけでもないのだけれど、1月某日の代々木体育館の反射光を。
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投稿者 Masaki : 21:51

2006年03月28日

『Cマガ』休刊……

プログラミングを囓ったころに購読していたものの、もうかなり前から買っていなかった『C Magazine』が4月号で休刊だそうで。これも時代の流れだなあ、としみじみ。思えばインターネットにはまりだしたころは、ちょうどPC UNIX(LinuxとかFreeBSDとか)の人気が出てきた頃あいと重なって(当時はインストールが大変だった)、お遊びプログラミング熱も世間的にもっと高まっていたように思う。個人的にも結構楽しんだクチで、イントラネットでもって、perlやCのCGIで「お遊び」会計ソフトなんかを自作して使っていた(市販の方がはるかに多機能で使いやすいので、あまり活用せずに終わったが)。今はWeb 2.0とか言って、さもパラダイムシフトのようなことが言われているけれど、たしかにブロードバンドや各種ツールの整備が進んで斬新なサービスができるようになったとはいえ、Webをプログラムインターフェースにするという考え方はもともとあったよねえ。ただ昨今はセキュリティの問題があるので、昔みたいに安直な「Webツール」を作って公開するわけにはいかないのだけれど……そのあたり、ちょっと寂しい気もする。

Web2.0の代表の一つみたいにも言われるGoogleの各種サービス。そのうちの1つ、Google Earthを使った、桜マッピングプロジェクトとかいうのがあると聞いて、ちょっと覗いてみた。Google Earth上に各地の桜の写真データを取り込むというもの。なかなか面白いでないの。それにしてもGoogle Earthの衛星写真、ちょっと古いよなあ。でも東京はダメだけれど、パリなんかだと通りの名前も詳細に表示できたりしてなかなか便利ではある。

せっかくなので、Google Earth+桜マッピングの画像を。
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投稿者 Masaki : 23:25

2006年03月24日

ティツィアーノ

明日から上野で開催されるというプラド美術館展の目玉の一つとされるのが、ティツィアーノ「オルガン奏者といるウェヌス」。パノフスキー『ティツィアーノの諸問題』(織田春樹訳、言叢社)によると、ティツィアーノには同じポーズのウェヌスの作品がいろいろとあるらしい。「オルガン奏者……」も、ベルリンのものとプラドのものがあって、さらにオルガンがリュートに置き換わった後代のものがケンブリッジやニューヨークにあるのだそうで、それらの移行に、聴覚と視覚の別々の美(それぞれ楽器とウェヌスで表現された)から、やがてウェヌスがすべての美の女王となる変化が読み取れるのだという。有名な「聖愛と俗愛」が体現しているのは、フィチーノやピコ・デラ・ミランドラなどに代表される新プラトン主義の高次の世界なのだという。パノフスキーの解読はとても刺激的だ。

サロメについても面白い議論がなされている。ヘロデの娘(サロメ)が洗礼者ヨハネに直接エロティックな想いを寄せている、という風に変えられたのは19世紀ロマン主義の中でだとばかり思っていると、不意を突かれる。というのも、そのロマン主義の「解釈」につながる流れは、12世紀に端を発しているというのだから。ヘントのスコラ学者ニヴァルドスという人物が、ヘロデの娘を義理の娘ではなく実の娘とし、自分が属する教会の守護聖人(聖女フェレルデ)と同一視し、聖書の記述をラブストーリーに変えてしまったのだという。この異説はヤーコプ・グリムによって再録され、19世紀のロマン派の間に拡がったのだという。うーん、お見事。

せっかくなので、『聖愛と俗愛』(ローマ、ボルゲーゼ美術館)を。
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投稿者 Masaki : 23:43

2006年03月21日

ダ・ヴィンチ……コード?

フランスの学生たちのマニフ。これって、企業の方ばかりを見ている保守政党への募った不満が噴出……したのだろうか。なにしろCPE(contrat première embauche)は、機会均等法の一部のくせに、内容的には若者の雇用をする企業への優遇策でしかないわけで……失業問題への最大の薬が景気対策だとすると、これはいかにも本末転倒のように見える。ちょうどダン・ブラウン『ダ・ヴィンチ・コード』(越前敏弥訳、角川文庫)に、フランスの司法は国民ではなく警察を守っている、みたいな台詞があって、思わず苦笑(ソルボンヌ校への機動隊突入映像を思い起こす)。もっともそれってフランスだけじゃないけれど……。

文庫で出たというので読んでみたこれ(ハードカバーは買う気がしなかった)、本格的ミステリーを期待していたのだけれど、なんだかいかにもハリウッド好みのジェットコースター話。なにしろ足かけ2日の話なんだもの(笑)。たたみかけるように提出される謎はどれも深みがなく、主人公らによってあっけなく解決されてしまい、作品全体を貫くような謎になっていない。ダ・ヴィンチすらちょこちょこと小物的に使われるだけで、その図像学的な謎を追いつめるというようなものでもない。ちょっと肩すかし(題名が泣いてるぜ)。エーコ『フーコーの振り子』をさらに通俗化したような……。フランスをはじめとする大陸系の図像学者なんかまるで誰もいないかようだし(称揚されるのは英語圏の学者だ)、ルーヴルの館長の孫娘が、研究環境で幼少から育っておきながら、そちら方面についてさっぱり知らないというのも、設定として変だよなあ(一応暗号解読の切れ者という設定だけど)。真犯人だって「わかりやすい」。個人的にはもっと無意味にペダンティックだとか、凝った仕掛けがあるとか、そういうものが読みたいのだけれどねえ……。

投稿者 Masaki : 00:22

2006年03月16日

美しき本、活字

文庫で出たウィリアム・モリス『理想の書物』(川端康雄訳、ちくま学芸文庫)をざっと。中世の彩色写本やそれを模した初期印刷本の美しさは至宝と呼ぶに相応しいけれど、19世紀のこの装飾デザイナーの熱の入れようも、蒐集熱の果てに私設印刷所を作って理想の書物を作ってしまおうというのだから並ではない。印刷活字へのこだわりももの凄い。16〜18世紀ごろの本の復刻版なんかを見ても、今とはだいぶ活字が違う。例えば手元に、キャンピオン(17世紀のリュート奏者)の『伴奏・作曲論』の復刻版なんかがあるけれど(1716年の版を復刻したもの、Minkoff, 1976)、これなどを見ても例えばsの文字などはまだ真ん中の横棒のないfみたいだ。現行の活字体になるのはもうちょっと後なわけか……ちょっと活字の歴史もちゃんと押さえておきたいところだなあ。そういえば余談だけれど、最近はあまり見かけないけれど、日本でも昔の活字には、「ね」とか「れ」とかの左下の折れ部分がやたら黒々としている字体があったような。小学校のころ、それを真似て書いてみたこともあったっけ(笑)。

投稿者 Masaki : 23:43

2006年03月14日

映画「日本国憲法」

遅ればせながら、ジャン・ユンカーマン監督作品『映画・日本国憲法』(DVD)を観る。戦争放棄の文面の重要性を12人の識者のインタビューで綴った作品。挿入される音楽や映像フラッシュの軽さが内容の重さを和らげているのはいかにも昨今のドキュメンタリー。だけれど、「9条は戦争についての日本のアポロジーなのだ」というチャルマーズ・ジョンソンの話や、「緩衝材になっている9条がなくなれば、アジア各国の軍拡が進む恐れがある」という韓洪九の話など、ぐっとくる部分も少なくない。うーん、憲法はもともと政府の暴政を抑止するために起草されるものだというダグラス・ラミスの言に従って(これって、「マグナ・カルタ」以来まさにそう。合衆国憲法なんかも実はそうなのだ)、その本質論から憲法改正を考えるなら、9条温存、政府への抑止効果増強の方向で行くってのが本筋だよなあ。

投稿者 Masaki : 21:18

2006年03月11日

非類似の類似

NHKのBS2で昨日放映されたN響によるスクリャービン「プロメテウス」を録画で視る。2月の定期公演だったというこれ、「色光ピアノ」というスクリャービン本人が望んだ仕掛け(楽譜に指示があるんだとか)を取り入れたものとしては世界初演だということで、一部で話題だった。なるほど、オケの後方にしつらえたスクリーンに、抽象的な模様がライティングでもって映し出されるという趣向。スクリャービンはこれを、一種の瞑想体験として考案したという話だけれど、iTunesなどのサウンドイフェクトなどに慣れ親しんでいる現代人にとっては、それほど斬新なものではない……よなあ、やっぱり。

けれどもこういう抽象模様の瞑想性というものは、実は古くからある。なんと中世のころから。最近読んだディディ=ユベルマン『フラ・アンジェリコ−−神秘神学と絵画表現』(寺田光徳、平岡洋子訳、平凡社)は、ドミニコ会の神秘神学との連関でフラ・アンジェリコの絵画を読み込もうとする意欲作だけれど、議論の柱の一つがフィレンツェはサン・マルコ修道院の回廊にある「影の聖母」の下部に配置された、大理石風の抽象模様の解読だ。石の表象ということで『鉱物論』のアルベルトゥス・マグヌスや、非類似の類似という文脈から偽ディオニュシオス・アレオパギテスが召喚されたりする。議論は「場」(コーラ)そのものをめぐるものにまでなっていき、アルベルトゥス『魂について』などの質料形相論も援用される。うーん、お見事。絵画が瞑想的な思惟に踏み込んでいることを浮かび上がらせるために、論考もまた瞑想そのものに立ち会おうとするということか。

フラ・アンジェリコの有名な「受胎告知」の一つを掲げておこう。この列柱が形作るmの文字の形象や、さらにはそれが3つの区切りが三位一体を表していること、画面の外に押し出されているもう1つの柱の空間から、外面の右にいるマリアが実は列柱のまん中に座していることなど、イコノグラフィックな議論も同書には満載だ。

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投稿者 Masaki : 21:29

2006年03月08日

パウロの政治神学

ヤコブ・タウベス『パウロの政治神学』("Die Politische Theologie des Paulus", Wilhelm Fink Verlag, 1993)にざっと眼を通す。いわゆる「ロマ書」に見られるパウロの政治的スタンスを解き明かす87年の講義録。パウロの立ち位置がモーセに重なるものであることを示すのが最初の講義。旧約と新約の接合点にパウロがいるという次第。その意味でもキリスト教の源泉はやはりパウロにある、というテーゼが示される。パウロがもたらした帰結に、その後の教会だけでなく、異端とされたマルキオン派もあったという話が次の話題。その流れの先に宗教改革があり、さらにそのプロテスタント的空気(ワイマール期ドイツの)を経て、それを反映したカール・バルトの神学論があり、さらにそうした空気へのカトリック的反動としてカール・シュミットの政治神学があるという構図が語られる。シュミットが宗教と世俗権力を貫く構造(例外的状況が織りなすもの)を指摘するのに対し、タウベスは両者はむしろ結託の関係にあり、そこからシュミットの「全体論」を批判している。うーん、デリダやアガンベンが取り上げて注目されたシュミットの論だけれど、それもまた時代状況という中で相対化されるべきものなのかどうか、考えどころではある……か。

投稿者 Masaki : 20:55

2006年03月06日

アラビアン・ナイトの世界

前島信次『アラビアン・ナイトの世界』(平凡社ライブラリー)を読む。東洋文庫の原典訳『アラビアン・ナイト』の訳者による概説書で、もとは1970年刊行のもの。全体を貫く、アラビアン・ナイトに関する当時までの研究状況の紹介・検討がとくに興味深い。アラビアン・ナイトは900年ごろから1500年ごろまでの間に、アラビア語圏の各地にわたって発展してきたもので、そこにはユダヤ、仏教、ギリシアなどの説話を多数取り入れているというグルーネバウム説が一応の決着ということだろうけれど、そこにいたる様々な人々の様々な説が、かりに誤りだったとしても、学問的な試みのダイナミックさを表している感じだ。その後の流れはどうなっているのかと、そちらも知りたくなってくる。こういう民衆的な説話集が、そもそもイスラム世界では久しく評価されていなかったという事実も見逃せない。結局、19世紀にフランスの東洋学者が翻訳し紹介したことによって世界的に広まる契機となり、逆にアラブ世界でも小説の類への注目が高まるというのが一連の流れだったようで、なるほどこれはオリエンタリズムの問題の一端を示す現象でもある。

さらに余談ながら、コーヒーの話も紹介されている。「昔アラブの偉いお坊さんが……」というのがコーヒー・ルンバの歌詞だけれど(笑)、本書によるとコーヒーがアラブに紹介されたのは意外におそい15世紀末ごろなのだそうだ(諸説あるらしいけれど)。それ以前に成立していたらしい千夜一夜物語には、結局コーヒーのことは一部をのぞきほとんど出てこないのだという。うーん、なるほど、コーヒーはそもそもエチオピア(アビシニア)起源らしいということなのね。

投稿者 Masaki : 23:12

2006年03月03日

老境の作品

久世光彦氏死去。テレビなどでは「『時間ですよ』などで知られる……」という形で紹介されることが多いけれど、個人的にはむしろ近年の向田邦子作品の演出とか、あるいは『一九三四年冬−−乱歩』などの作家活動の方が印象的。いずれも、こういってよければ老境に入ってからの仕事だ。同書は今や文庫版で出ている。失踪した乱歩の内面をえぐる、実に「乱歩っぽい」迫力の一作だった。合掌。

確かサイードは、みずからの晩年に、先人たちの晩年の作というものに関心を寄せていたんだっけ。そこまで特化しないまでも、どの作家においても老境に差し掛かって以降の作品というのは存外に面白いのかもしれないなあ、と改めて思ったり。ちょうど日経新聞の夕刊で、筒井康隆が老人たちが書く小説は面白いはずだ、みたいなコメントをしていた。最新作『銀嶺の果て』は『バトルロワイヤル』真っ青の老人バトルの話なのだそうで(笑)。老人たちが元気な社会って、これから先の理想型かもしれないのだけれど……さて、どうなるんかねえ。

投稿者 Masaki : 15:05

2006年03月01日

トマスの「教師論」

思うところあって、トマス・アクィナスの『教師論』を読み直してみる。テキストは"Uber den Lehrer - De magistro"(Felix Meiner Verlag, 1988)。『真理論』(Quaestiones disputatae de veritate)の問題11がそれで、同書ではあわせて『神学大全』第1部の問題117も併せて掲載している。教師論といいつつ、要するに知性がどう作用するかという話が展開するわけで、人間に内在する可能知性が、外部の能動知性の作用を受けて顕在化するというのが主軸。種子(semina)の形で与えられている知性、すなわち原初の知的な概念作用(conceptio)が、能動知性の「光」を受けて、感覚を捨象した像(species)を認識する、というもの。この一種の内在論は、中世を越えて根強く継承されていくわけだけれど、おそらくこの能動知性の話が後退していくところに、近世以降の科学の台頭がある……んだろうなあ。ちょっとそのあたり、ちゃんと跡づけていく必要があるかもね。能動知性の後退……ってテーマ的に面白いかも。

Webcamシリーズ。昨年12月上旬のパレルモ。ああ、地中海(笑)。
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投稿者 Masaki : 23:25