2006年04月28日

ノリ・メ・タンゲレ

先日来日したジャン=リュック・ナンシー。その『私に触れるな−−ノリ・メ・タンゲレ』(荻野厚志訳、未來社)に目を通す。個人的には「復活」後の身体をめぐる議論を期待していたのだけれど、そういうふうには進んでいかなかった。聖書に出てくる表題のシーンについて、それをめぐる絵画や文言を様々な角度からながめ、「死んでいながら死んでいない」「消えながら消えていない」「触れつつ触れていない」という一種例外的状況が幾十にも(重層的に)読み込めるという話が展開するのだけれど……そういう宙づりの状態が文化的営為の根底にあるという話は今や耳新しくなくなり(不在とか禁忌とかにはそうした構造があるというわけだけれど)、そのあたりの構図を反復的に描き出して見せられても、たとえば同書の場合には当の宗教的な思惟そのものに切り込んでいくわけでもなく、どこか肩すかしを食らった気分が残る……ってそれが同書のそもそもの脱構築的意図だったりするのかしら、なんて(笑)。けれども、やはり神なき時代の宗教的なもの、同書のいう「信」をえぐりだして浮かび上がらせるような作業のほうが改めて重要に思えたり……。

話は違うが、26日はチェルノブイリ原発事故から20年ということで、欧州のメディアはどこも大きく取り上げていた。そんな中、F2では、原発一帯の立ち入り禁止地域では今や動植物の野生化が進み、ユーシェンコ大統領はそれを観光資源として活用する道すら探ろうとしている話を紹介している(27日)。商魂逞しい?ま、それはそうだけれど、見方によっては、まさに「復活」の譬えの産出、ってことになるのでは?触れつつも触れられないものは、その周りに文化的営為を産み出すという構図の、はるか下流の世俗版(笑)?

図は同書にも再録されているティツィアーノの『ノリ・メ・タンゲレ』。ロンドンのナショナルギャラリー所蔵とのこと。
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投稿者 Masaki : 23:07

2006年04月26日

ラッセル

『知の欺瞞』で現代思想の数々を切って捨てたブリクモンは、切られた側の代表格レジス・ドブレと対談した『啓蒙主義の陰で』("A l'ombre des Lumières", Odile Jacob, 2003)の中で、何度か「大陸系の哲学よりもラッセルの哲学を好む」みたいなことを述べている。やっぱりなあ、という感じ。で、そんなわけでラッセルの論理哲学の概要を見ておこうと思い、概説書として三浦俊彦『ラッセルのパラドクス』(岩波新書)を読む。ラッセルの理論のエッセンスを丁寧に解説した好書。新書にしておくのがもったいぐらいの中身だ。チョムスキーの生成文法なんかもそうだったけれど、論理学的なアプローチで言語を突き詰めていくと、次々に別の整合性が現れてきて、また理論の組み替えが必要になっていく。けれどもそれをさらに極限にまで突き詰めていくと、その先で途方もない思惟に行き着いてしまうというあたりの論理構築物(現実的な言語も感覚も、本質的にはバギーなものなので、それをあえて無矛盾な原理でもって読み替えていこうとすれば、やはりどこかで虚構的・構築的なものを引き入れてしまうのは必定なわけだけれど)のものすごさは、なんだかため息が出そうなほど……。ラッセルがめぐりめぐって到達したという中性一元論は、中世でいう能動知性みたいなところにも重なっていくらしいのが面白い。

上のブリクモンに戻ると、同書でもドブレの「説明」は説明になっていないぞなどと手厳しい。思うにドブレのメディオロジーはそもそもグランドセオリーではなく、むしろ「シンプルデザイン」(中央制御で末端をすべて統括するのではなく、ある程度末端の素材的特性を利用して、制御の負荷を軽減するという手法)に近いものだという気がする。メディオロジーを批判する向きは、どうもそのあたりを取り違えていたりするような……。問題になるのは、いわば質料因の復権。上のラッセルの概説書でとりわけ興味深いのは、末尾で紹介されるラッセル的な中性一元論も、どこからか質料因の議論(レベルは相当違うけれど)に入っていくらしいこと。そういえば13世紀のアリストテレス主義も、やはり質料因の評価という側面を強くもっていたわけで、そのあたりをも重ねて、質料因をめぐる問いを立体的に眺められないもんかなあ、などと空(妄?)想は膨らむ一方……か。

下の図は、オランダの17世紀の画家、サロモン・コニンクによる有名な『老学者』。これってある種の理想像だよな〜。
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投稿者 Masaki : 17:09

2006年04月21日

イスラム社会の異人論

このところ少しずつ囓り読みしていた西尾哲夫『アラブ・イスラム社会の異人論』(世界思想社)。ある部族に伝わるわずか一編の民話から、アラブ世界を特徴づける巨大な民族誌を浮かび上げるという労作。これが見事なのは、やはり題材となっているその民話。思うに民話研究では、どの話を取り上げるかによって、その考察の広がりや深み、さらには価値までがほぼ決まってしまう感がある。その意味では、ここで取り上げている「りっぱな血をひくおこないのすぐれた人々」は、異人に対する社会関係を中心に、民族誌的に様々な要素にスポットをあてられる見事な一編だ。

分析は基本的に民話を社会学的・言語学的な鏡のように見立てて、そこに社会的要素を社会構造や言語構造として読み込むというもの。途中で言及されるアラブの「聖人」についての分析も、一貫して社会集団にとっての役割という観点から考察していて参考になる。翻って、西欧社会の聖人伝なども、こういう集団的機能から読み込んでいったら面白いだろうなという気がする。そういう研究もないわけがないと思うし、ちょっと探してみようかしら……。ま、それはさておき、同著者の今後も期待大だ。一つの方向性として、上の民話にも出てくるし『ヴェニスの商人』にも登場する「人肉1ポンド」モチーフ(身体の一部が借金のカタに取られそうになるが、第三者の介在で救われる、という筋の説話パターン)を、普遍的な意味という観点から考察していくのだという。いや〜壮大な研究計画だ。

投稿者 Masaki : 14:45

2006年04月17日

制度としての宗教は……

イースターのこの時期に合わせるかのように、TUTAYA DISCASで予約していたスコセッシの映画『最後の誘惑』(88年)が届いた。このタイミング(笑)。ずっと未見だったのだけれど、確かに最後の30分くらいの展開はとてもスキャンダラスなもの。公開当時にフランスあたりのカトリック右派団体が騒いだというのも頷ける感じ……。人間的にキリストを描く、というのは西欧文化圏ではやはり様々な制約があるのだろう。たとえば福音書の「奇跡」は奇跡として描かざるをえない、ということなどなど。そういう意味では、ルイス・ブニュエルの『銀河』なんかのほうが、よほど批判力としてはラディカルで秀逸だった気がする。その皮肉に満ちた表現がとても鮮烈だったっけ(細部はかなり忘れているけれどね)。

『最後の誘惑』ではユダは裏切り者ではないというスタンスで話が進む。最近、ユダによる福音書というパピルス文書が確認されたという話が伝えられたけれど(ナショナル・ジオグラフィック)、これなどはむしろ、『ダ・ヴィンチ・コード』の映画公開に合わせたプロモーションのようにも見える。なにせ、人に「ヴァチカンを揺るがすかも」なんて思い込ませようとしている感じがちょっと見え見えなので。けれども、「隠蔽する権力」というのはしょせんフィクションの舞台装置でしかないわけで(ヴァチカンはペンタゴンにならんで、そういう舞台に取り上げられやすい)。実際のローマ教会は、何世紀にもわたり正典を核としてがっちり構築されているのだから、それ以外のいかなる「外典」がどれほど発見されようと、その制度的な根底は揺るぎようがないんじゃないかしら。

安易な舞台装置に回収されずに、西欧をマクロ的にもミクロ的にも織りなしている「キリスト教的なもの」をちゃんと認識することの方がはるかに重要だ。正典・外典の分離・排除を核とする「制度」についても、考察を深めたいもの。で、そんなことを考えつつ、今日は来日中のジャン=リュック・ナンシーの公演を聞きに。「無神論と一神教」という題目に惹かれて行ってみた(内容は当初予定のもと変わったのだというが)。ナンシーの最近の仕事は、宗教の脱構築というのが一つの軸になっているそうだけれど、そういう作業は言葉の上ではともかく、そう簡単にはいかないはずだ。今回の講演では、神を体制の中心に据えないことのを「無神論」とした上で、古代世界はその意味で無神論だったし、キリスト教も聖・俗での権力を分割したときから無神論を抱え込むことになったとし、そうした西欧の歴史的な核をなしてきた無神論を肯定的に考え直す以外に、グローバル化時代の新しい方向性は打ち出せない、みたいな話が展開した。うーん、方向性として異存はないが、今むしろ必要なのはその先のとっかかりだ。その意味では、Q&Aで出た、スピノザを刷新して援用する、みたいな話の方が重要になってくる気がするのだけれど。

投稿者 Masaki : 23:44

2006年04月15日

ラディカルな「信」

アントニオ・ペタジネ『困難なるアリストテレス主義』("Aristotelismo dificile", Vita e pensiero, 2004)。途中まで読んでちょっと息切れ(苦笑)。アルベルトゥス・マグヌス、トマス・アクィナス、ブラバントのシゲルス、さらにボナヴェントゥラまでの、人間知性をめぐる思惟の微細な差異を追っていくというもの。シゲルスの単一知性論に差し掛かるかな、ところで足踏み。それとの関連でいうと、シゲルスの『形而上学問題集』("Questiones in metaphysicam")といい、なかなか核心的なところに入っていかないのが難儀なところ……。この『形而上学問題集』は4つの異本があって、一応の校注本が2巻本で出ている。ケンブリッジ/パリと、ミュンヘン/ウィーン。いずれも講義の記録(reportatio)。さしあたり前者を入手して頭のほうから漠然と読んでいたのだけれど、うーん、こういうのはやっぱり漠然と読んではいかんなあ、と(反省)。シゲルスのラディカルさというのは何なのか、どこに由来するのかというところからアプローチしなおしたいところ。仕切り直しをしよう。

キリスト教圏は昨日がイースター前の聖金曜日。十字架の道の礼拝などが各地で行われたそうで、France 2では聖職者が十字架をかついでモンマルトルを登る様子をちらっと紹介していた。ヴァチカンでのこの礼拝は、コロセウムで行われるんだねえ(RAInetのニュース配信でも少しだけ中継していた)。さらに強烈なのが、フィリピンでのキリスト磔刑の再現。AFP BB Newsで写真が出ていた。うーん、いわゆる第三世界での「信仰」はどこかラディカルな方向に引っ張られていく感じがする……。

投稿者 Masaki : 23:56

2006年04月13日

「嘘と貪欲」

経済の様々な制度の萌芽はおおむね西欧中世にある、と言われるわりには、その時代の経済に、とりわけ思想史的な面からアプローチするという本はあまり見あたらなかったりする。そんな中、満を持して出たという感じなのが大黒俊二『嘘と貪欲−−西欧中世の商業・商人観』(名古屋大学出版会)。スコラ学の文献、説教史料、商人文書などを駆使して、蔑まれていた商業活動が13世紀以降、徐々に容認され、肯定されていく過程を追うという、立体的でスリリングな論が展開する。個人的には特にスコラ学でのスタンスの変化が興味深いところ。徴利禁止を克服するために、13世紀のピエール・ド・ジャン・オリーヴィが持ち出してくる貨幣の「種子的性格」という議論は、明らかに当時の質料形相論が残響しているなあ、と。またそれに続くオリーヴィの公定価格論の独自性(なんと共通善との結びつきが読みとれるのだという)を取り上げた部分では、外国人研究者だからこそ読み解ける異文化研究の意義を改めて感じさせるような、貴重な一例になっている。うん、たとえたどたどしい読みでも、こういう僥倖がありうると知れば、改めて続けようという気にさせてくれるじゃないの(笑)。労作であり内容的にも実に刺激的な研究に、拍手を。

投稿者 Masaki : 23:08

2006年04月10日

「信」の問題

昨日テレビで放送された静岡県舞台芸術センター(SPAC)による公演『酒神ディオニュソス』(エウリピデス原作)。鈴木忠志演出のこれ、オウムなどのカルト教団事件や9.11との関連で評価された作品だということだった。確かに能のような演出(音楽も雅楽中心、ただしクライマックス近くではいきなり現代音楽っぽい曲が流れた)はドラマチックに回っている感じがしたけれど、断固としてディオニュソスを受け入れないテーバイのペンテウス王が、僧の魔術ですっかり骨抜きになってしまうあたりの演出に、ちょっと説得力が足りない感じも……(原作は読んだことがないのだが)。これじゃ、それまでの言葉による応酬がまったく吹き飛んでしまうでないの。魔力でどうにでも操れるのなら、王を殺害する必要はないし、そもそも王に受け入れを迫る必要すらなくなるわけだし……そのあたりの拮抗をよく描いていた(ように思われる)だけに、ちょっと残念かも。魔力を無批判的に出した段階で、「信」の暗部へと踏み込むようは批判性は、まったく持ち得なくなってしまうわけで。真に問題になるのは(現代において読み込むべきは)その「魔力」の正体。こういうプロットの演劇を現代に蘇らせるのなら、そこにこそ解釈の妙味があってしかるべき……。能などの動きを入れる作品解釈があるのと同水準で、そうした思想的解釈の演出だって十分ありうると思うのだけれど。

ちょうど、ラウル・ヴァネイジェムの編纂による『何も信じない技法/3人の偽善者の書』(Editions Payot & Rivages, 2002)を読んでいるところ。表題の前半をなす書は、17世紀にジェオフロワ・ヴァレによるものとされ、恐れをベースにした宗教のあり方を、知を抑圧するものとして糾弾している。表題の後半に対応するテキストは2編収録されていて、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の推定上の始祖たちが糾弾されている。17世紀、18世紀のもので、それぞれドイツ、オランダ(ロッテルダム)で書かれたものとか。リベルタンの系譜をなすこうした信仰への抗いは、現代的にいえば資本主義批判にも通じるものだ。

投稿者 Masaki : 23:34

2006年04月08日

ライン地方の博物学?

オンラインの古本屋で購入したハインリッヒ・バルス『生物学者としてのアルベルトゥス・マグヌス』(Wissenschaftliche Verlagsgesellschaft, 1947)。とりあえず第一部・第二部を中心に眼を通す。全体としては動植物を扱ったアルベルトゥスの博物学的著作を、その出典などをからめて紹介するというもので、第一部は概論で、中世の博物学の系譜をたどり(セビリアのイシドルスとか、ラバヌス・マウルス、ビンゲンのヒルデガルトなどなど)、第二部でアルベルトゥスの生涯と著作を紹介し、第三部でいよいよ実際の著作の内容に入っていくという構成。モノグラフのお手本のような一冊。1947年の刊行ということだけれど、博物学方面からのアルベルトゥスへのアプローチというのも、その後それほどなされているようには見えないが……。出典については、アルベルトゥスがもっぱら参照しているのが、アラビア語からラテン語に翻訳されたアリストテレス(およびアヴィセンナ)で、それに自分の観察を取り込んで修正しているのだという。どのような異同がどの程度あるのか、もとのテキストに当たってみたいところ(それにしてもアルベルトゥスの全集とか、大学図書館あたりには各地に置かれているみたいだけれど、一般人にはアクセスが難しいからなあ。ヨーロッパもその点はさして変わらないみたいだが。そういえば以前辻由美氏が、『翻訳史のプロムナード』(みすず書房)執筆に際してフランス国立図書館に入るため、出版社に頼んで推薦状を手配してもらったみたいな話があったっけ。Galicaなどがある分だけ、今はずいぶん良くなってはいるけれどねえ……)

こうして見ると、翻ってヒルデガルトあたりの博物学の特異さが光る感じもする。そちらの出典関係はどうなっているのか、研究の現状といったことも含めてちょっと調べてみたい。なにかこう、ライン地方の博物学的伝統みたいなものが浮かび上がってきたりしないのかしらん?

投稿者 Masaki : 19:32

2006年04月05日

落差

東京の桜はほぼ最盛期を過ぎつつあり、一部で葉桜という感じだけれど、東北以北はこれから順次開花シーズン。「桜の咲く頃1年生」というような定型句が当てはまらない北部地域では、子どものころから「中央と地方」みたいな落差を何となく感じ取って育つ。季節感の微妙なずれから、テレビ番組の違いまで、いろいろなところでそういう落差に直面する。私の出身県では、たとえば初期の「仮面ライダー」シリーズなんかは半年以上遅れて放映され、「仮面ライダー・アマゾン」はシリーズまるごとカットされた。当時、『冒険王』などの児童向け雑誌で東京での放映状況はわかったため、当然大きなギャップを感じるしかなかった……ま、それは受け入れるしかなく、そういうギャップを自分の中で埋めることから情報リテラシーの基礎みたいなものを身につけていく、という感じもないわけではなかったけれど。

昨晩のNHKで、美輪明宏が寺山修司の思い出を語っていくという番組をやっていた。なんだかありそうであまりなかった番組(笑)。しきりに訛りを気にしていたという寺山は、そういう落差を逆手にとって、あるいはスプリングボードとして、中央に反撃を加えることのできた達人のようにも思えてくる。落差が強いる生産性、みたいなものは敷衍できるのかしら、なんて考えたり。番組中、映画『田園に死す』の一部を流していたけれど、ラストシーンの晴れた日の乾いた田んぼの情景は、寒々しいながらも、東北地方的な春の心象風景を見事に切り出しているように思えなくもない……。

写真は先月31日の隅田川沿いのもの。結構寒かったぞと。
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投稿者 Masaki : 23:12

2006年04月02日

ギブソン

ちょっと思うところあって、ギブソン『生態学的視覚論』(古崎敬ほか訳、サイエンス社)に眼を通す。ご存じ「アフォーダンス」概念の生みの親、ギブソンの遺作。生物にとっての環境が様々な意味を「アフォード」してくるという、主観・客観の二分法を超越したその知覚論が、ここでは視覚・光学に特化する形で詳細に展開する。生物にとっての環境は物理的な環境ではなく、「面」で構成される生態学的環境だ、というのが基本スタンスで、その面を構成するのが抱囲光配列、さらにそうした配列構造を形作るのが物質と媒質の織りなしだというあたり、あれあれ、中世のロジャー・ベーコンあたりの光学理論に、結果としてどこか似ている(笑)。うーん、アフォーダンスの革新は50年代から60年代にかけて大枠が形作られたという話だけれど、やはりこのあたりまで、中世からのなんらかの思想の残響が響いている気がする。うーん、これ、現象としてはとても面白いよなあ。

そういえば、視覚論の歴史についての基本図書、デヴィッド・リンドバーグ『視覚の諸理論−−アル・キンディからケプラーまで』("Theories of Vision", The University of Chicago Press, 1976)を見ると、9世紀から10世紀にかけてバグダッドで活躍した医学者兼翻訳家のフナインあたりが、媒質としての空気に言及した嚆矢らしい。グロステストやロジャー・ベーコンにつながる、ガレノスの視覚光線の送出理論(extramission)とアリストテレスの送入理論(intromission)の折衷案の先駆、ということ。

投稿者 Masaki : 22:12