2006年05月30日

質料的知性

メルマガの方にちょっと記したけれど、このところエマヌエレ・コッチャのアヴェロエス論を読んでいる。そんなわけで質料的知性(可能知性)に関する話を整理する意味で、、ハーバート・A. デヴィッドソン『アルファラービー、アヴィセンナ、アヴェロエスの知性論』(”Alfarabi, Avicenna, and Averroes, on Intellect", Oxford University Press, 1992)から、アヴェロエスの質料的知性に関する一章をざっと読む。この本、基本的には論集らしいが、噂に違わず参考書としては実によくできている。質料的知性に関しても、それに言及しているアヴェロエスの著作の書誌的な情報をまとめ、それぞれの著作の該当箇所を紹介しながら思想的変遷を追い、最後にはユダヤ世界、ラテン中世への影響関係にまで言及するという周到ぶり。よくまとまりすぎていて、これだけ読んですべてわかった気にさせられてしまいそうな、ちょっと危ない本でもあるかも(笑)。けれどもこれらはあくまで思想史的な基本情報。思想史の探究はどこか読み手の内面的な肉迫が課せられるものだとつねづね思っているので、その意味ではこれはあくまで予備的な土台(コッチャなどの議論や、あるいは原テキストの方に向かうための)にさせてもらうのがまずは順当な手続きかな。

いまださっぱり進まないけれど、アヴェロエス『「魂について」中注解』のアラビア語や逸名著者の『バヒール(明示の書)』のヘブライ語をちびちび読み囓ってみると、それぞれ付いている英訳や仏訳の訳文との印象の落差が大きいことにいちいち驚かされる(って、それは単に語学力がまだまだだからかもしれないが)。だからたまにいるけれど、「アラビア語は読めないけれど、訳で読んだし詳しい専門家にも伺いを立てた」とのたまう英米系の研究者などの話は、いまいち全面的に信頼してよいものか戸惑わずにはいられない……(笑)。前に言及した『視覚の理論』のリンドバーグなんて人もそう。うーん、英訳経由だけというのはやっぱり怪しいんじゃないかなあ、と。

投稿者 Masaki : 23:45

2006年05月27日

奥底

フランス・ドルヌ+小林康夫『日本語の森を歩いて』(講談社現代新書)を読む。ドルヌ氏は昔、外語の院に講師としていらしていて、発話行為の言語学(lingustique de l'énonciation)についての講義を持っていらした。うーん、なつかしい。で、旦那さんの小林氏(授業後の飲み会みたいなところで、一度だけお目にかかったことがあったっけ)とのこの共著、なんだか新書にするにはもったいないほどの情報量。空間表象の話や、助詞「に」「て」の孕む諸問題、「よく」の意味論、「た」の用法の多様性などなど、日本語とフランス語の微細な表現方法の差異を説得力あるやり方で詳述していく。発話行為を考えるという営為は、どこか思考の本質的部分に触れるものなのだなあ、ということを改めて思う。

そういえば、最初の章で、「au fond」というフランス語が、日本語でいう手前に対する奥では全然ないという話があったけれど(fondはいわばデッドエンドだという話)、ちょうど読み始めたジャン=リュック・ナンシー『イメージの奥底で』(西山 達也、大道寺玲央訳、以文社)もタイトルからしてまさにそんな感じ。イメージのデッドエンド性へと潜っていくような印象だ。このあたりを敷衍するに、写真や映画も、私たちが思うようなどこか窓のように開いた感覚ではなく、媒体の向こう側に穿たれた、あるいは抉られたもの、というような感覚になるのかしら。当然そこには聖像との連関も、もっといえば質料論的な連関もあるはずで……。

ナンシー本のカバーはカラヴァッジョ『執筆する聖ヒエロニムス』の一部。全体を挙げておこう。
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投稿者 Masaki : 23:21

2006年05月23日

主観性?

身体技法までを含めて技術全般を問題にするとなると、長いこと糾弾されるがままだったソフィストあたりにまで遡らなくてならないと常々考えているのだけれど、そんな中、日下部吉信『ギリシア哲学と主観性』(法政大学出版局、2005)をパラパラとめくってみた。本当はじっくり読むべきものなのだろうけれど、まあとりあえず。古代以後の西欧形而上学が主観性をめぐる一大イデオロギーだったという観点から(なるほど一神教の神もまた大いなる主観性だということ)、その批判のために、それとの葛藤を繰り広げたであろう初期ギリシア思想の数々を再び取り上げようという一種の「復権」の書。ここに描かれたプロタゴラスやソフィスト全般の姿は、あえて事物の「本質」「原理」といったものへと向かわない、「反プラトン主義」的なスタンスだ。テクネーを指向するとはそういうことだ、とまで同書は言う。なるほど、必死に攻撃しているのはソクラテスのほうだ、というのは説得力がある。

投稿者 Masaki : 23:29

2006年05月20日

オッカムについての基本書

渋谷克美『オッカム哲学の基底』(知泉書館、2006)を読む。これはまさにオッカムの著作を読むための教科書。オッカム『大論理学』の邦訳を手がけた訳者による論考なのだけど、仮にオッカムのスタンスを、ほかの論者に対する「論理学的転回」と称するならば、それが基本的にどのようなものなのかがよくわかるというお得な一冊だ。特に「存在」(esse)と「本質」(essentia)をめぐるスコトゥスやエギディウス・ロマーヌスなどへの批判が、外部の事物と心的な事象とを明確にわけるオッカムの立場から演繹されている、といったあたりの話はじつによく整理されている。さらに後半では、言語的事象にこだわることによって、後の論理学者のように、その階層論に踏み込んでいく様も克明に解説されている。述語づけの「態」を分けるなんてテクニカルな話なども、実に面白い。このあたりは、いかにも論理学的な醍醐味&迷宮の端緒という感じだ。それにしても、外界の事象(スコトゥスの共通本姓など)をひたすらに否定して、心的事象としての言語的表象の論理にのみ向かったオッカムの、その徹底ぶりはどこに由来するのだろう、そもそもオッカムという論理学的転回はどのようにして成立したのだろう、という点がとても気になる。これは大きな問題だ。さらに、ポルピュリオス注解も見逃せないところで、個人的には、オッカムの論理学的に引っ張った解釈もさることながら、ポルピュリオスのもとの論が存在論的にとても興味深い気がする。うん、そのうちぜひ読みたいところ。

投稿者 Masaki : 12:05

2006年05月18日

戦略的敗北?

日仏会館で、両国の宗教学者らによる講演会があったのだけれど、あいにく予定が立て込んでいて行き損ねた。現代におけるセクト問題など信仰の(悪しき)「復活」をめぐる討論、ということのようで、行けなくてちょっと残念だがまあ仕方ないか。文脈は違うけれど、ちょうど最近眼にしたラカンのインタビューのタイトルが「宗教の優位」("Le Triomphe de la Religion", Seuil, 2005)。1975年初出のインタビューだそうで、この中でラカンは、宗教は精神分析その他の優位に立つ、それは宗教が現実界の、たとえば生などに意味を付与するものだからだ、というようなことを語っている。うーん、これって、一種の敗北宣言(何に対して?宗教に対して?)のような感じでもあるけれど、実はその認識を突き詰めてなお現実界へのアクセスを探りうるかというような、戦略的敗北という感じでもある(悲壮な感じはまったくないし、開き直っているわけでもないし)。

ラカンなんか読むのはちょっと久しぶりなのだけれど、ちょうどつい先日、ほとんど手違いに近い形で入手してしまった中野昌弘『貨幣と精神』(ナカニシヤ書店)が、予想に反して(新たな貨幣論を期待して眼を通したわけだけれど)、ラカン理論を援用して「最初にXありき」(Xには贈与とか、構造とか、力とかいろいろなものが入る)みたいな論を総ざらい的に批判していくというもので、ちょっとしたシンクロを感じてしまった(ラカン理論の整理の部分なんかは、藤田博史氏あたりが90年代頭ごろに出していた著作を思い出したり)。こうした論も、やはりどこかであらかじめ戦略的敗北を宣言せざるをえないし、そのせいで常にある種の空疎感を抱え込まなくてはならないし。それを突き抜けていくなんて、並み大抵のことではないのだが……。

投稿者 Masaki : 23:11

2006年05月16日

公共哲学と一神教

この週末にかけて、『一神教とは何か−−公共哲学からの問い』(大貫隆ほか編、東京大学出版会、2006)にずらずらと眼を通した。キリスト教系の神学、聖書学、宗教学などの隣接領域から集まった研究者らによる論考と、それらをめぐる討論の記録。現代世界にも関係する「信仰」の問題を、根源から考え直そうという趣旨のよう。全体的な流れとして、人格神をいわば「脱構築」して(そういう言い方ではないけれど)場の理論を検討するとか、三位一体論もしくは聖霊の問題を再考するとかといった方向性が浮上しているのが興味深い。論考そのものよりも、それをめぐる討論のページが格段に面白い。思わぬ問題点が指摘されたり、話が意外な方向へと話が転がっていったり。たとえ議論がかみ合っていなくても、この対話的やりとりこそが思索の基本的営為なのだな、ということに改めて納得。うーん、こうした議論の先に拡がっているであろう神学や宗教学の奥深さ。

投稿者 Masaki : 20:13

2006年05月10日

完全休養

リンパ腺が腫れて発熱、7日以来完全休養状態。やっと熱が退いてきたのでぼちぼちとネットをやっている。先月28日だかにオープンしたというINAのArchive pour tous(万人のためのアーカイブ)なんかも覗いてみた。放送通訳業務などで、たまに古い番組映像がニュースの中にポンと出てきて、その当時の番組本体を知らないので、なんのこっちゃとなる場合があったりするけれど、これで、もしかすると多少そういうのも詳しく調べられるようになるかもしれないなあと。テレビ番組などは、実際に眼にしたことがないとなると、まったくリファレンスがわからないもの。そういう意味ではこのアーカイブ、なかなかよく出来ている……って、ストリーミングは無料でも、ダウンロードしてローカルで見るには数ユーロとか払うわけね。先にできていたBBCのOpen News Archiveとは方向性が違うけれど、いずれにしても動画のアーカイブって、これからの大きな流れなんだなあ、と改めて。

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投稿者 Masaki : 22:38

2006年05月06日

esse、essentiaなどなど

世間は連休だけれど、4日にモーツァルトイヤーの「La Folle Journée」でいくつか公演を聴いたのを除き(Viator Musicae Antiquaeを参照のこと)個人的にはさほど目立ったことはなし。この間届いた"Etre, Essence & Contingence"(Les Belles Lettres, 2006)の序文をぼそぼそと読み始めたところ。ガンのヘンリクス、ローマのジル(エギディウス・ロマーヌス)、フォンテーヌのゴドフロワといった綿々の、存在、本性、偶有性に関わる論考の仏訳。序文では、クーニヒ=プラロングという研究者が明快な整理を行っている。幹となっているのは、存在と本質とが融合関係にあるのか分離しているのかという点をめぐるそれぞれの立場で、前者がアヴェロエスからシゲルス(ブラバントの)そしてガンのヘンリクスにいたる系譜を形作り、後者はアヴィセンナからトマス・アクィナス、ジルへといたる系譜を形作る。ヘンリクスとジルの調停役のような位置づけになるのがゴドフロワなのだとか。もちろん細部に至ればそれぞれの著者のスタンスは縺れていくわけだけれど、これだけでもずいぶんと見晴らしがよくなった気がする。

投稿者 Masaki : 14:08

2006年05月02日

ライン地方の博物学?その2

ローランス・ムリニエ『ストラスブールの失われた写本』("Le Manuscrit perdu à Strasbourg", Pub. de la Sorbonne, Presse universitaire de Vincennes, 1995)。ビンゲンのヒルデガルトの博物学的著作について、もとは失われた統一的な写本があったのではないかという仮説に向かって、書誌学的な実に細やかな検証を試みた研究書。ざっと目を通しただけだけれど、書誌学的な面白さに満ちている感じ。うん、こういう詳細な研究はやはり見事だ。幻視者としてだけではない、ヒルデガルトの知識人としての側面は、もっと取り上げられてよい気がしていたけれど、なるほど書誌的な面では、オットー・ミュラーから出ているドイツ語訳とか、いろいろ問題ありなのか。こういう基礎的な作業から、現存する版による校注が出て、それから訳が作られなくてはならないわけだけれど……眩暈がしそうなほどの膨大な作業を要するわけで、こういう真正の「プロの」研究者の成果には、ただただ頭が下がる思いでいっぱいだ。

投稿者 Masaki : 20:55