2006年06月27日

生きたプロティノス像

今更ながらだけれど、ピエール・アドによる『プロティノス、またはまなざしの純真さ』(Pierre Hadot, "Plotin ou la simplicité du regard", folio essais, 1997)を読む。これはフォリオの一冊(いわば文庫版)だが、実際には第4版にあたるもの。初版は1963年で、その後、アド自身がプロティノスの『エンネアデス』の翻訳・注釈に関わり、本書にも部分的改訂が施されたという。古代思想を生き生きと蘇らせるピエール・アドだけあって、本書のプロティノス像はとてもヴィヴィッドで、難解とされる『エンネアデス』と、ポルピュロスの『プロティノス伝』からこれほどの明快な思想の根っこと人物像を描くというところがまずもって素晴らしい。プラトン思想そのものとの差異や、ゲーテやベルグソンなどの近代思想との相同関係など、いろいろと興味深い点があるけれど、文章は決して難解ではなく、とてもわかりやすい。古代世界において(古代末期でも)、哲学が宗教にも比される集団への加入としてあり、そこに加わることが生活全般をすっかり変えてしまうことだったというテーゼは、本書にも生きている。プロティノスの文書からそうした生きるための思想へと接近する様はまさに感嘆もの。未邦訳なのが残念だ。なんかこう、「難解でなければフランス系の思想書ではない」みたいな風潮ゆえに置き忘れられた一冊、という感じもしなくない。あるいは、専門的でなくあまりに「一般書」すぎて、専門家はつまらんと思うのか?いずれにしても、どっかで出しませんかね?

投稿者 Masaki : 23:23

2006年06月25日

ローマの幻影……

歴史学研究会編『幻影のローマ』(青木書店、2006)に眼を通す。「ローマ」のイメージが中世以降、西欧を中心にどのように受け継がれていったかを様々な角度から論じた論集。帝国的な政体の話に限定されない、文化その他の影響関係などを期待していたのだけれど、そういう期待からはややずれるものの、イスラムやビザンツなどの話などもあって、全体としてはとても興味深いものになっている。総論的なものよりも、やはり魅力的なのは各論。オーサー・リングボム氏の論文は、モルタルの年代測定という考古学的アプローチを中心に、サンタ・コンタンツァ聖堂にアプローチするというもので、個人的には馴染みがないだけにかえって新鮮。なかでも最後のイルカの図案をめぐる一節は印象的。個人的にもイルカの表象にはちょっと興味があったのだけれど、なるほど、イルカはアポロンとディオニュソス両方の象徴、加えて光と闇の象徴なのか。そのほか、中世のアルファベット書体における模倣の実態に迫ろうとし、カロリング朝に碑文書体の模倣が盛んになされていたことを跡づける北村直昭氏の論考、イスラムにとってのローマとはビザンツ帝国のことだったという太田敬子氏の論考、まだあまり研究がなされていないのだという教皇の即位儀礼に関する甚野尚志氏の論考などなど、読み応えのあるものがいろいろ。

投稿者 Masaki : 00:15

2006年06月21日

プラド美術館展

昨日は新宿の紀伊国屋書店で稀覯本展をやっているというので、とりあえず覗いてみたのだけれど、どれも閉じた状態の展示だったのが残念。写真でもいいから、中を開いた状態が見たいのだけれど……面白いものとしては、ライムンドゥス・ルルスの『コディキリウス』の初期印刷本が出ていた。84万円。個人ではとうてい買えまっしぇん……。エラスムスなんかもあった。

さらにそこから上野に行き、念願のプラド美術館展に。会期の最初のほうに行くつもりだったのだけれど、ここまで伸ばしてしまい、その結果、すごい人の波にもまれてしまうことに。会場はまさに芋洗い状態だった(笑)。思うに、数年前からずいぶん幅広く導入された解説イヤホンシステムのせいで、特定の絵画の前で渋滞が出来ている感じ。うーん、ユビキタスの先駆的実例として紹介されたりもするシステムだけれど、これは良し悪しだな、という気がする。ま、それはともかく、それでもとりあえずティツィアーノほかお目当ての絵はちゃんと見れた。「ヴィーナスとオルガン奏者」(プラドに2種類あるうちの1つ。ほかにベルリンのものもあるそうな)なんかは想像していた以上に大きく、ド迫力だった。ほかにもルーベンスによるティツィアーノの模写「ニンフとサテュロス」などを堪能する。音楽図像学的な関心からいうと、ホセ・アントリーネスの「マグダラのマリアの被昇天」(1670-75)で、天使(プット)が奏でるリュートがとてもおぼろげに描かれているのが、なにやら当時の動向を象徴している感じがして興味深い。うーん、同時代の主流は、ヤン・ブリューゲルの「大公夫妻の主催する結婚披露宴」の擦弦楽器の楽隊や、テニールス「村の祭り」(1647)のハーディガーディやミュゼットなど、低音が重厚な楽器へと移行しつつあったということか(?)。

パノフスキーによるとヴィーナスの意味合いが変わっているのだというティツィアーノの「ヴィーナスとリュート奏者」を掲げておこう。ケンブリッジとニューヨークと2種類あるようで、これはメトロポリタン美術館のほう。
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投稿者 Masaki : 00:19

2006年06月19日

アヴェロエス思想圏の「可能性」

例のエマヌエレ・コッチャ『想像力の透明性』(E. Coccia, "La transarenza delle immagini", Bruno Mondadori, 2005)を、最後は多少読み端折りつつ、やっと読了する。前にもちょっと触れたけれど、これはアヴェロエス思想圏を、ある意味できわめて現代的な問題系として取り出すという、あまり類書のない一冊。巷では、たとえばヘーゲル、カント、さらにはデカルトなどを、今日的な問いに向けて援用しようといった話は盛んに論じられているけれど、ならばそれら以前の思想にも、同じような復権と再利用が可能でない理由はない。とくに同書が扱うアヴェロエスを中心とした思想は、デカルト以降当たり前とされている「考える主体」を脱構築するための重要なキーになるかもしれない、というわけだ。これは下手をすると、集合的インテリジェンスというとても今日的な問題系にも関係していきそうだ。

俗にアヴェロエス主義という言い方があるけれども、そうした「主義」が後世の産物(ライプニッツなどから)であることは同書も押さえているけれど、そのアヴェロエスという「主体」を中心とする「思想圏」が想像されるという点に、すでにして著者は、同書で論じていくトポスとしての集団知性、それが個別化される際の想像力の問題などを、一種の具体例のごとくに重ね合わせてみせる。「アヴェロエス主義」自体が、アヴェロエスの思想から取り出せる問題系の、一つの具現形だというわけだ。うーん、恐るべし、この相同関係。なるほどアヴェロエスの思想は、有用性を失って狭義の思想史に死蔵された遺物などではない、というわけだ。うーん、思わず唸ってしまう。時にこういう刺激的な論に出会えるからこそ、思想史の散策は止められないよなあ、と。

投稿者 Masaki : 21:33

2006年06月15日

チームプレー?

日本については開始前から言われていたことだけれど、フランスもか、という感じなのが、ワールドカップの試合での得点力不足。フランスの場合は、どうもジダン以下の古参を前にして、ちょっと下の世代(アンリなんかもそうだが)がどこかメンタル的に萎縮している感じがする。ドイツのカーンみたく、老兵はしかるべきときに後方に移動するのが、やっぱり順当というものなのかも。

それにしてもサッカーの試合を見るたび、チームプレーが主だと言われてはいても、最終的には個人の技量に帰着するということを改めて思う。今はどうかしらないけれど、30年くらい前の中学校あたりの教育って、チームプレーとか団体行動とかにむちゃくちゃ重きを置いていた感じがする。「一人はみんなのために、みんなは一人のために」なんてスローガンを教師が盛んにまくし立てていた……って、あんたそりゃ三銃士か(キリスト教かという話もあるが)。ま、それはそれでよいのかもしれないが、結局、理想と現実は一致してはいなかった。たとえば部活。私個人が通った田舎の中学では、課外活動は半ば強制的に運動系のチーム競技に加入させられた。というか、陸上の個人競技すら、チーム戦のようなノリだった。で、ちょっと当時のルサンチマンを語ると(笑)、私はバスケ部だったのだけど、馬鹿な指導者(顧問も上の学年のやつらも)たちは、先発メンバーばかりにフォーメーションその他を教え込んで、控えのわれわれを完全に放っておいた。技なんか身につける暇もない。で、当然先発メンバーだけで試合に臨む。監督役の顧問は控えなんか使う気は毛頭なく、とはいえ負けが込んでくると、一応みんなで参加したことにしたいだけのために、控えのわれわれも2,3分づつ試合に出される。でも練習なんかろくにやってないので、当然ちゃんと動けるわけがない。パスも回ってこないし、回されてもどう動いていいかわからないし。そんなわけで、出てもすぐに交替。まったくアホらしい。結果、先発メンバーはこき使われ、控えはメンタル的に腐って、チームは当然のように負ける。この繰り返し。これのどこがチームだっつーのと当時は思っていた……とここまで回顧して、げ、この図式って、昨今の日本の社会的縮図みたいじゃないの、と思い至る。むー、チーム指向の理想と現実の乖離もまた、結局個人をいかに育むかに帰着しそうだ。で、底上げのためには、控え組にこそちゃんとした指導が必要。当たり前といえば当たり前のこと。チームプレーの基本は個人、という至極当然の話。

投稿者 Masaki : 16:57

2006年06月13日

文体論のほうから

アウエルバッハ『中世の言語と読者』(小竹澄栄訳、八坂書房)に目を通す。古代末期から中世初期にかけてのラテン語文献の文体論の推移(というかその緩み)を追いながら、読者層の意識がどのように変化していったかを考えるという、著者の壮大な遺作(アウエルバッハは1957年没)。とりわけ最後の章は、初期中世にとどまらず、ダンテの時代にまでいたる長いスパン、各国別の多様な動きでもって、西欧の読者と世俗語の変遷を俯瞰していて圧倒される。些細なことだけれど、そこで言及されている、エックハルトを文体論的に見るという観点は、個人的にはまったく見過ごしている部分。うーん、なるほどねえ。確かにエックハルトのラテン語著作は読みやすい感じがする。これまで思想的な部分に注目する意味でラテン語著作を中心に見ようと思ってきたけれど、いずれドイツ語の説教も見ていきたいところ。

上の本、表紙カバーの絵はアントネッロ・ダ・メッシーナ(15世紀、シチリア島メッシーナの生まれ)による『書斎の聖ヒエロニムス』(ロンドン、ナショナル・ギャラリー)。この不可思議な書斎の構成がとても興味深い。

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投稿者 Masaki : 21:19

2006年06月09日

バタイユ

衝動買い的に、最近文庫で出たアセファル資料の邦訳『聖なる陰謀』(吉田裕ほか訳、ちくま学芸文庫)を購入。ぺらぺらとめくってみているところ。久しぶりのバタイユ本だが、これはまとまった著作ではなく、1930年代にバタイユらが興そうとした宗教結社「アセファル(無頭人)」の結成にまつわる文書をまとめたもの。編者はイタリア人研究者マリナ・ガレッティ。バタイユの研究をするわけでもない一般読者にとって、こういう資料集は、まずもって宗教論として読むということになるのだろうか……というか、失敗した組織形成から見る、一種の組織論として読むことはできないかしら、というのが購入動機だったりするが、さてさて。

ちょうどサッカー・ワールドカップの開会式がTVで流れている。「サッカーは新たな民衆の阿片だ」という話も言われたりするけれど、その動員力・ファンの熱狂ぶりも、こうして見ると著しく組織的・構成的な感じがするなあ、と。

投稿者 Masaki : 23:23

2006年06月06日

アヴィセンナ・ラティヌス

少しアヴィセンナについてもある程度見ておきたいと思い、とはいえアラビア語は現状では時間をかけてアプローチしてくしかない段階なので(苦笑)、とりあえずそのラテン語版をいくつか読んでみようと思い立ち、まずは中世のラテン語訳の校注版から、『自然学第一の書・第一論考』(Avicenna Latinus "Liber primus naturalium, tractatus primus", Editions Peeters, 1992)を見てみる。G.ヴェルベケによる序文がなかなか。まずは形而上学に対して自然学(物理学)の扱う対象をどう設定するかという点で、中世の思想家たちがそれぞれどういう立場を取ったか、という話から始まっている。これ、天体などまで含めるとなると、自然学とするか、数学・形而上学の問題とするかが微妙になるというわけだ。アルベルトゥス・マグヌスなどはアヴィセンナ寄り、トマスが中庸ながら、いずれもそれを形而上学問題としているのに対し、ブラバントのシゲルスなどは自然学で扱うことを主張するのだという(アヴェロエスの立場に呼応)。こういう問題一つ取ってみても、それぞれの立場の多様性がとても興味深い。

本文でも、「ヒューレー」(質料)の「受容力」の議論などが展開されていて、なるほど13世紀の質料再評価の動きの発端を感じさせるものがある。ちなみにこの第一書第一論考は12世紀末からラテン語訳がなされているという。

投稿者 Masaki : 01:05

2006年06月03日

アガンベン特集号

最近は買わなくなっていた『現代思想』誌だけれど、6月号はアガンベン特集ということで久々に購入。でもなんだか、やはり雑誌としての高揚感みたいなものはずいぶんなくなっている感じだ。ま、それはともかく。とりあえずアガンベンのテキストの翻訳と、上村忠夫氏+田崎秀明氏の対談を中心に眼を通す。『生政治』ばかり取り上げても困る、みたいな上村氏の発言がいい(笑)。アガンベンの思想も、そのメシア思想や言語論といった背景から見ないといけない、というような話。確かに。また収録されているアガンベンのテキストも興味深い。扱うテキストの発展可能性を探り出しては解釈学的規則に則り進み、決定不可能な時点到達した段階でそのテキストから離れる、といったアガンベンの基本的メソッドも改めて確認できる(「装置とは何か」)。思うに、アガンベンのテキストって、そのテキストに言及されている当のテキストを読みたくさせる何かがある。「もの自体」で言及されるプラトンの『第七書簡』とか、「記憶の及ばない像」で言及されるオリゲネスの復活論とか。それって「開かれ」?(笑)。

余談ながら、「開かれ」もそうだけれど、「動かされ」とか、「〜られ」という受け身の助詞を伴った動詞を名詞的に使う形が、少しずつインフレ的に使われ始めているような印象があって、ちょっと気になる……。たとえば「記憶の及ばない像」では、文中に引用されたアリストテレスの『魂について』の訳の一節で、「動かされを被る」という訳語が当てられているのだけれど、その該当箇所は、"πῶς νοήσει, εἰ τὸ νοεῖν πάσχειν τί ἐστιν"(429 b 25)で、「もし思考が何かを被ることであるなら、(知性は)どのように思考するのだろう」という感じ……「動かされを被る」なんてしなくてもいいんだけど(笑)。

投稿者 Masaki : 23:28