2006年07月29日

ギリシア語2題

深夜枠で放映されている「コマネチ大学数学科」を久々に見る。放送日を間違えたり、録画に失敗したりして、このところはあまり見ていなかったのだけれど、いつの間にか、thinking time前の決め台詞(ガダルカナル・タカ)が、「cogito, ergo sum」から、「αριθμοι κυβερνουν συμπαν」(数は万物を支配する)に変わっていた。「アリスミ・キベルヌン・シバン」と読んでいることからもわかるように、現代ギリシア語(活用語尾も、-ωσιじゃないし)。なんで古典語じゃなく?ピュタゴラスとかじゃないの?おそらく「数は万物を支配する」も、「無知の知」「オッカムの剃刀」みたいに、そのものズバリの一句というのはない、ということか……?これに関連して、Loebのアンソロジー"Greek Mathematical Works"のピュタゴラス関係の部分をズラズラっと眺めているところ。

Le Mondの校正係がやっているブログ「langue sauce piquante」(辛口言葉)の、エピメテウスの語源についてのアーティクルのコメント欄がえらく騒がしくなっている。Προμηθεύς(Προμᾶθεύς)と対をなすΕπιμηθεύς、「pro(前)」に対して「epi(後)」、メーテウスはμανθάνωに由来し、「後から考える者」というのが一般的な語源的解釈なのだけれど、これがいわゆる「アホ、間抜け(フランス語のcon)」の意味になるかどうか、というのがその争点。Baillyの辞書(希仏)も言及されているけれど、これは英語圏ならLiddle & Scottの辞書に相当するもの。奮っているコメントの数々が脱線していく様がなかなか面白かったり。

投稿者 Masaki : 22:56

2006年07月28日

アラン・ド・リベラ

中世思想史家のアラン・ド・リベラ。久々にその大著を読む。『理性と信仰』("Raison et Foi - Archéologie d'une crise d'Albert le Grand à Jean-Paul II", Seuil, 2003)がそれ。要するにこれ、1277年のタンピエの禁令(当時のアリストテレス主義の優勢に対して、神学と相容れないテーゼを糾弾した有名な禁令)で糾弾された、二重真理説(哲学的真理と神学的真理を分ける考え方)の問題圏を詳細に探った一冊。ド・リベラはエックハルト論とかアルベルトゥス論とかのモノグラフものよりも、『ライン地方の神秘思想』や本書など、ある程度広いスパンのものの方がはるかに面白い気がする。けれども本書でも、核をなすのはアルベルトゥス思想の見直し・再評価。トマス・アクィナスの「単一知性批判」(いわゆるアヴェロエス派の)が、実はアヴェロエス本人の思想とはスタンス的に重なる部分が多いのだという話から始まって、タンピエが批判する二重真理説が、実は具体的な対応物とは別に、遡及的に「作られたもの」だったという話にいたり、それらの相互の誤解のネットワークみたいなものの中にあって、その遠因の一つをなしたアルベルトゥス・マグヌスは、一方で偽ディオニュシオス・アレオパギテスを通じて信仰と知の別様の統合を図ろうとしていた(第三の道だ)という話が続く。これがメインストーリーだけれど、とはいえ本書が真に魅力的なのは、そうした展開の個々のディテール。たとえばアルベルトゥスと占星術の関係とか、アルベルトゥスにいたる「flux」概念の小史とか。このあたり、いろいろ細かな興味深い問題もあるので、そのうちメルマガのほうで取り上げてもいいかな、と。

投稿者 Masaki : 20:13

2006年07月24日

イエスの時間論

アガンベンのパウロ論などを宗教学者たちがどう受け止めているのか、その一端を見たくて、最近出た大貫隆『イエスの時』(岩波書店)に眼を通した。ユダヤ教においてモーセよりもアブラハムの契約が重要である点や、イエスがそのアブラハムなどを中心に、著者のいうところの「イメージネットワーク」を作り上げていたという議論、それが総合的な時間論として転回するといった話など、いろいろと刺激的な内容だ。パウロもまた、アブラハムの事例によってモーセ律法を相対化しているのだという。

アガンベンについては、いくつかの文献学的な問題を指摘しつつ、おおむねその内容(『残りの時』)を肯定している。モーセ律法に対する例外状態としてのイエスの死などは、上のアブラハム伝承へのパウロの視座と重なり合うというわけだ。さらに、「イメージネットワーク」という考え方が、アガンベンの論じるベンヤミンの「星座的布置」という話に重ね合わされるという点も興味深い。アガンベンはこれを、パウロにおける予型論に重ね合わせるわけだけれど、著者はイエス的なものにすら重ねられると論じている。うーん、面白い。日本でのベンヤミン研究がユダヤ神学的発言を認識論に回収して非神学化しすぎているという著者の苦言(?)もあって、これはベンヤミンに限った話じゃないなあと思ったり。いずれにしても、近現代のヨーロッパ思想を読む上でも、ユダヤ神学、キリスト教神学などはある意味必須であることを改めて思う(当たり前なのだけれどね)。

投稿者 Masaki : 13:29

2006年07月21日

不寛容の根はどこに?

レバノンへのイスラエルの空爆。どこぞの国の首相が訪問し「まあまあ、相互に歩み寄って……」みたいな、小学生なみのタテマエ的な演説をしたその日に、一連の空爆が開始されたというのがとても印象的だった。そういえば先に触れたドキュメンタリー『knowledge is the beginning』では、政治に荷担するのではないと言いながら政治的身振りを取らざるをえないバレンボイムが、イスラエルのクネセットでの授賞式(芸術賞)の演説で、建国の宣言の一節(友好に関する部分)を取り上げて会場からのブーイングを食らう、というシーンがあった。その演説を受けて、賞を授ける側の文化大臣が「国家への攻撃だ」みたいに激し、この不寛容さに、バレンボイムは少々あきれ顔で「どう思うかは、それもまた自由の証ですがね」みたいに皮肉でやり返す。建国の理念などよりもっと根深い土着的怨念を見る思いがする一場面だ。何か今回の空爆も、言われているような米国対イランの代理戦争的側面などの政治的な表層よりも、もっと底のほうにある不寛容の根のようなものの存在を感じさせる。今更ながら、ユダヤ文化の底流へと接近を、一度は試みる必要を感じるのだが……。

投稿者 Masaki : 20:20

2006年07月18日

構築への意思

最近『神話論理』の刊行が始まったりして、久々に注目されていたレヴィ=ストロース。論理に矛盾があるとかいろいろ言われたりするけれど、その学問的な「構築への意思」はほかではマネできないほどのもの。そこがとても感動的だったりする。昨年平凡社ライブラリーに入った『レヴィ=ストロース講義』(川田順造、渡辺公三訳)は、来日の際の3本の講演を収録したものだけれど、これもまた文化人類学の可能性に対する強い意思を感じさせるテキスト。人種のような生物学的要因が文化に影響するのではなく、逆に文化の様式が、人類の生物学的変化の方向をかなりの程度決定してきたのではないか、というのだからものすごい。

「構築への意思」といえば、この長い週末、映画化されたりして何かと話題のコミック『デスノート」全12巻を大人読みしてみた(笑)。この緻密な心理戦・論理戦は、まさに作者たちの構築の意思の賜物。そして作中人物たちも、壮大な「構築への意思」を展開する。でもって、それがちょっとした末端の揺らぎによってほころんでいく様が圧巻。なんだかこれ、設計する技師は賢いものの、末端の技術者が手を抜いたりして、全体的にクオリティが必ずしも高くなくなってしまうという、一昔前のフランスの技術関係者の世界に似ていたりする。某エレベータ会社が、欠陥を保守担当会社のせいにしたりするのも同じ構図か。ヒエラルキー構造は、末端のゆらぎにもろく、すべて統制されて自己完結するようにはならない、という一種の戯画としても、『デスノート』はかなり面白い。

投稿者 Masaki : 22:59

2006年07月15日

エイサゴーゲー

ポルピュリオスの『エイサゴーゲー』(ラテン語題名ではイサゴゲー)は、短いのであっという間に読了。使ったのは仏語対訳本("Isagoge", Vrin, 1998)で、翻訳のほか解説はアラン・ド・リベラが担当している。さらについでに、アヴェロエスの『イサゴゲー中注解』(ハーバート・デーヴィッドソンによる英訳版)も参照してみた。アヴェロエスの時代、アリストテレスのいわゆる「オルガノン」には、必ず序文的にこのイサゴゲーが入っていたという。それでアヴェロエスもまた注解をすることになったらしい。中注解はほとんど逐語的に写しては随所に批判的文言を交えていくという形だが、結局、同書は論理学の入門としては失敗している、みたいなのがアヴェロエスの結論だったりする。余談ながら、現時点でamazonで購入できる唯一のアルベルトゥス・マグヌス全集の一冊(Tomus 1, pars 1a)は、「ポルピュリオスの『5つの普遍概念論』について」で、イサゴゲーの注解というか、いわば「創造的書き換え」を行っている。まだ途中まで見ただけだけれど、うーん、圧巻。

さてさて、今度はシンプリキオス『エピクテートス「提題」注解』に進もうっと。

またまたWebカム画像から。6月下旬のブダペスト。
budapest0606.jpg

投稿者 Masaki : 12:28

2006年07月14日

Coup de boule

ジダンの頭突き話は、なんだか人種差別問題やらサッカーの陰の部分なんかが絡んできて、妙に変な方向に流れた感じがする。フランスでは、ほとんどすべてジダン擁護論に傾いたようだし(でも、試合直後の後味の悪さは忘れられない)。そんななか、すでに話題になっている応援ソングの替え歌がむちゃくちゃ可笑しい(笑)。Coup de bouleというのがそれ。L'Expressのサイトで聴ける。もとは、Zidane, il va marquer(ジダンがゴールを決めるぜ)という歌詞だったそうだが、Zidane, il a frappé, zidane, il a tapé (ジダンが打ちやがった、ジダンが叩いた)に替えたものとか。これをリフレインにして、あいの手のように歌詞に入れている。歌詞もふるっていて、ちょと意訳だけど「イタリアは痛そう、イタリア選手は苦しそう。審判だってテレビで見たんだし。頭突かよ、冗談にしちゃよくできてるけどな」「スポンサーはいろいろ当て込んでたのに。シラクだけはよく喋ってたけどな」みたいな感じで続いていく。この皮肉というか……トレゼゲあたりを「冗談きついぜ」っていいながら繰り返すあたり、まあ、ちょっときついけど、ま、それにしても笑い飛ばしちゃってるパワーがいいねえ。

投稿者 Masaki : 20:04

2006年07月10日

ナレッジ・イズ・ザ・ビギニング

ワールドカップの決勝は、ジダン退場のフランスが負けて後味の悪い幕切れ。それにしても頭突きとはなあ。なんだか「選手としての自殺」のような最後、あるいは早すぎる伝説化をあざ笑うかのような暴挙。どこぞのメディアが報じたらしいように「マルセイユのクソガキの部分」("quelque chose (...) d'enfant des mauvais quartiers de Marseille")が顔をもたげたのか、なんだかよくわからないけれど、身体知と理性というものは、いずれかが天才的であればそれだけバランスを取るのにも才覚が必要になるのかしら、というようなことをちょっと考えさせられる。

あまりにも後味が悪すぎるので、ちょっとリフレッシュの意味で、少し前に購入したDVDを見直す。バレンボイムが2005年夏に行った、中東の若者たちによるラマラ・コンサート。その収録DVD2枚組("Ramallah Concert")から、演奏会にいたる軌跡を描いたドキュメンタリー作品を観てみる。『始まりは知識(Knowledge is the beginning)』というのがそれで、バレンボイムの盟友サイードの生前の姿とかも見られる。「私は政治をやっているのではない。音楽のような芸術が、400人ほどの人々に2時間くらいの間、憎しみを忘れさせる。そんなささいなことをやろうとしているだけだ」みたいなバレンボイムの言葉が感動的だ。ここには、身体知(感覚を含む)の側から理性への働きかけを素朴に信じる強い確信のようなものがある。うん、少し心洗われる気がした。

投稿者 Masaki : 22:51

2006年07月05日

「エジプトの謎」

イアンブリコス『エジプトの謎』の原典(とはいえ、Les Belles Lettresの希仏対訳版だが)をようやく読了する。エジプトのコスモロジーについて、新プラトン主義の立場から詳述したもの。総論(1書)から神的存在の位階論(天上世界は7層構造だという)(2書)、天啓の探り方(占い方法)(3書)、悪の起源(4書)、供犠の概論(5書)、禁忌(6書)、象徴(7書)、第一原因(8書)、ダイモン(9書)、究極の善への接近(10書)といった内容で、なるほど、プロクロスが高く評価する理由がうっすらとながらわかったような気もする。新プラトン主義のテーマの総覧的な構成にもなっている。とりわけその階層構造の論が興味深いところ。また、8章では「二つの魂」という考え方が示されている。デミウルゴスの力に与るプシュケーと、天空に由来し星辰などの影響を受けるプシュケーだという話で、ここから人間の被支配と解放とのダイナミズムが生じるというわけだ。ちょっとこのあたり、自由にまつわる議論の系譜とか、あるいはユダヤ以来の伝統となっていた二重創造説などとの関連(があるのかないのか)などからしても興味の尽きないところだったり。

さあて、今度はイアンブリコスの師匠にあたるポルピュリオスの『エイサゴーゲー』(範疇論入門)に取りかかることにしよう。

投稿者 Masaki : 00:49

2006年07月02日

ピーター・ブラウン

『古代末期の世界』が見事だったピーター・ブラウン。その最新の邦訳は98年の来日講演の再録。『古代から中世へ』(後藤篤子編、山川出版社)がそれ。古代末期を単にローマ帝国の没落からのみ見るのではなく、中世との連続性の中に置き直すというのがブラウンの中心的テーゼだけれど、同書ではさらにその歴史観がいくぶんかの修正を経て発展していることがわかる。うーん、思想の進化という感じだ。収録された講演は3つ。まずは後期ローマ帝国が貧富の差に蝕まれたというような歴史観を打破しようとする、ある意味瞠目させられる説。「貧者へのケア」の拡大が、今風の貧困の拡大を表しているのではなく、単に当局(帝国の)への司教のとりなしの戦略を表しているにすぎないという話。続く2つめは中心と周辺といった隔たりで地中海世界を見てはいけないという、これまた刺激的な説。中心からの拡散的モデルではなく、星団的モデルで見ろ、というわけ。3つめは死生観における関心の焦点が「この世」から「彼岸」へと移行するのが、西欧中世の早い段階、大グレゴリウス(6世紀)の時代だったという話。煉獄の誕生も、そのころだとしており、ル・ゴフへの批判という感じでもある。うーん、中世初期がどれほど豊かだったのか(あるいは通説どおりそうでなかったのか)、疑問はいや増すばかりだ。

久々にWebカム画像。6月末のザルツブルク。
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投稿者 Masaki : 22:50