2006年08月31日

政治制度のバックボーン

先頃出た『思想としての<共和国>』(レジス・ドゥブレほか著、みすず書房)はちょっと不思議な体裁(というか内容構成)。単行本表記としては初めて、ドブレではなくドゥブレにしている。89年のドブレの論考「あなたはデモクラットか、それとも共和主義者か」(水林章訳)を中心に、来日時の日仏学院での三浦信孝氏との対談、水林氏による講演、さらに樋口陽一氏とその二人による鼎談が収録されている。なぜ民主主義者ではなくデモクラットと訳しているのかは、水林氏の講演に答えが出ているけれど、89年の論考はメディオロジー以後のドブレの宗教論にもつながっていく重要なもの。そこで繰り返されるのは、政治体制の背景に宗教が生きているという現実だ。アメリカ型の民主主義はそれをいたるところで標榜するし、フランス型の共和制もまた、宗教からの分離を謳いつつ、宗教の諸制度を受け継ぐ形になっているという意味で、宗教をいわば「抑圧」する形で成り立っている、ということがはっきりとわかる。政治制度をめぐる議論では、それを支える宗教の問題はなかなか前面に出てこないけれど(とりわけ日本ではそう)、西欧的な制度を見るためにはそれがぜひとも必要だということを改めて指摘している。なかなか貴重で興味深い一冊。

投稿者 Masaki : 20:49

2006年08月25日

分類と系統樹

国際天文学連盟の投票で決まった冥王星の「追放」。ブリュノ・ラトゥールあたりが盛んに説く、科学の構築主義的な側面をいやがうえにも見せつけたような感じだ。公式などの法則はともかく、分類や定義をめぐっては、パワーバランスなどが物を言う余地はかなり大きいのかもしれないなあ、と。ちょうど三中信宏『系統樹思考の世界』(講談社現代新書)を読みかけているところで、科学のありうべき姿というようなことも含めて感慨にふけったり。同書は分類とも密接な関係にある普遍的な思想的営為として系統樹思考を考え直そうというもの。そうなると、当然これは通時態が問題になる。歴史を扱う限り、懐疑論にも狭い実証主義にも与しないギンズブルグ(同書でも言及されているが)のような立場はやはり擁護されてしかるべきとは常々思っていたけれど、ここではアブダクション(パースのいう、仮説数の最適化)の方法論が高く評価されていて興味深い。なるほどそれはあくまで最善の説明を探すための手法なのだけれど、歴史のように反復実験での検証が不可能なものの場合、最善の説明で満足しなくてはならないというのはある程度仕方のないこと。もちろん、その手法、とくにモデルの精緻化が、やはり実像に肉迫するためのアプローチとしては欠かせないとの条件つきなのだけれど……それがないと、歴史に関わる方法論はまさに構築主義以外のなにものでもなくなってしまうわけで(同時発生的・複線的なものが、単一系統と見なされてしまう危険の排除を、最適解という形からどう導くのか、とても興味あるところなのだが)。

同書でライムンドス・ルルスが言及されていたのが印象的。同書も指摘するとおり、ルルスの知恵の樹には通時的なものはなく、階層的な序列関係が前面に出ている。これに関連して、興味深い指摘が、ウンベルト・エーコ『完全言語の探求』(上村忠男ほか訳、平凡社、1995)にある。ルルスの考える原理の数が限定的で、開かれたものではないのは、世界を記述しつくすことに主眼があったのではなく、それが異教徒改宗のための道具だったからだ、という点だ。うーん、これは示唆的だ。閉じた体系はどこかで道具的な性格を強めてしまう……のかしら?

エーコ本の表紙を飾った、ブリューゲルの『バベルの塔』。3枚あるとされる『バベルの塔』のうち、ロッテルダムにある、1564年ごろ製作の一枚。

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投稿者 Masaki : 23:41

2006年08月23日

名前の禁忌

レンタルビデオ屋の棚を眺めていたら、実写版『ゲド戦記』というのが置いてあった。笑えたのは、ジャケットがいかにも欧米系ファンタジーの「クリシェ」っぽくて、『ゲド戦記』そのものとは似ても似つかない感じなこと。『ゲド戦記』は哲学的な台詞が多くて、映画にやすやすとできるようなアクションなどはほとんどない……といっても、3巻までしか読んでいないのだが(苦笑)。岩波のハードカバーはちょっと抵抗があって買わずじまい(大昔に確か友人が持っていたものを部分的にずらずらとばし読みした)。昔、ちくま文庫で1巻「影との戦い」が出て、「よっしゃ、ちくま文庫版でそろえたろ」とか思っていたら2巻以降は出ず、最近になってようやく岩波のソフトカバー版を購入することに……。こういうパターンの人って結構多そうな気がする。ちなみにジブリにはまったく期待していないので(最近のジブリ作品の色づかいになじめないのと、deus ex machina的なおそまつな結末ばかりになってしまっているのがつまらなない)、この夏のアニメ版はテレビででも放映するまでは見る予定なし。

それにしてもその作品世界でとりわけ興味深いのは、名前をめぐる禁忌と支配。真の名前を知ることで、その名のついた対象を制御できるという基本設定が暗示しているのは、二重世界(聖なる名前と俗なる名前、あるいは魔法世界と世俗世界)というか、いわば聖・俗の二分割が十全に生きている世界観だ。3巻「さいはての島へ」では、そうした分割線があいまいになってしまうことで、世界の価値の体系が崩れていく、という舞台設定へと反転する。なるほどこの聖・俗の二元論は、実際の歴史においても、たとえば文字の使用の制限という形で制度に反映されて、結果的に文字の神聖化を助長してきたんだっけ。文字というところを魔法に置き換えれば、ル=グインの作品世界の基本設定が得られる。その意味で『ゲド戦記』は文字社会の歴史を批判的・寓話的に写し取ったもの、というふうにも取れる。

投稿者 Masaki : 23:22

2006年08月19日

マイモニデス伝

中世のユダヤ思想家マイモニデスに関する、本邦初の評伝『マイモニデス伝』(A.J.ヘッシェル、森泉弘次訳、教文館)を読む。これは見事な評伝。ヘッシェルというこの著者はレヴィナスなどとも並び称される20世紀のユダヤ教神学者なのだそうで、28歳の時の著書だとか(1935年)。マイモニデス思想の展開を微に入り細に入り時代背景と関連させて活写しているのだけれど、こういう形で見ていくと、広い意味での思想というものが、人の生きる糧になる様というのが実によく納得いく。とりわけ、弟の死後、悲嘆に暮れる彼を支えるのが質料形相論などを含む形而上学だというあたりがなかなか感動的だ。人が知力を駆使して構築・継承する「体系」なるものは、決して無意味な構築物ではない、ということか。余談ながら、ちょうどシンプリキオスによる『エピクテートス「提題」注解』を読みかけなのだけれど、そちらでも、人の倫理機制・行動機制がコスモロジーといかに密接に関係しているかを改めて思い知らされる気がしているところだ。

いずれにしても、少し前に購入して積ん読状態の『迷える者への道案内』の仏訳("Le Guide des égarés", Verdier, 1979)も、ちゃんと読もうという気になってきた。中断していた「八つの章の論」のアラビア語読み(ヘブライ文字で書かれている)も、そのうちサイト内のscriptorium2あたりで行おうかなあ、と。また、最近の研究状況も気になるところ。ハーバード・デーヴィドソンの2004年刊行のマイモニデス論など、ぜひ見てみたいと思う。

同書の裏表紙に使われている写真は、マイモニデスの『ミシュナー・トーラー』からの一ページだそうだ。彩色が実に美しい。
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投稿者 Masaki : 01:20

2006年08月16日

「ユダヤ人」の構造

お盆休み(というか休んではいないのだけれど)中、内田樹『私家版・ユダヤ文化論』(文春新書、2006)を読んだ。ユダヤ人のユダヤ性というのは本当によくわからないのだけれど、同書もその定義の曖昧さから話が始まっている。けれどもそこで著者は、基本的なスタンスとして、ユダヤ人の定義に絡む問題をめぐっていくのではなく、「ユダヤ人」という概念を手にしたことによって、世界は何を手にしたか、という問題機制へと踏み込んでいく。すでにして大いに期待させる踏み込みだ。前半では日本を例に取り、日猶同祖論やその後の陰謀史観などがともに国民国家の整備・近代化の支えをもたらしたことが論じられ、後半ではより広いスパンから、ヨーロッパ(とくにフランス)がユダヤ人概念から何を得たのかという話がパラレルな形で展開する。一種の合わせ鏡の理屈により、ユダヤと反ユダヤが結びつく形で、「『世界』とか『歴史』とか呼んでいるものこそがユダヤ人とのかかわりを通じて構築されたものなのではないか」(p.199)と著者は言う。うーん、これはそのまま宗教論の方へと接合・拡張していきそうな感じ。ヨーロッパのユダヤ的な根っこというのは、捻れて隠され疎まれている(忘恩だ)だけにいっそう複雑……。

投稿者 Masaki : 21:43

2006年08月11日

星辰

今年出たばかりのアルベルトゥス・マグヌス『原因論ならびに第一原因からの万物の発出について』(Liber de causis et processu universitatis a prima causa)第1書の羅独対訳本("Bucher über die Ursachen und den Hervorgang von allem aus der ersten Ursache", Felix Meiner Verlag, 2006)。このところずらずらっと眼を通していたのだけれど、改めて思ったのは、形而上学で扱われる中で意外に面白いのが天文学というか星辰の話だということ。同書では第4論考7章(「天空は魂によって動かされているのか、それとも自然、知性によってかという問題について」)がその話に当てられていて、当時の主要な学説についてコメントされている。このあたり、コンパクトな見取り図として興味深い。

全体的にはまず、天空は自然(その本性)により動くのではないとする逍遙学派(およびストア派)の議論を紹介し、アヴィセンナ、アルファラービー、ガザーリー、さらにギリシア語著者のアレクサンドロス、ポルピュリオスなどによる、魂による駆動説をめぐり、さらにアヴェロエスやマイモニデスなどの反論(知性による駆動説)を紹介し、それに反論を加えている。さらにアルペトラギウスなる人物の「二重駆動説」(普遍的な動因、個別の共通動因)を紹介している。このあたり、ちょうどハンス・ヨナスの『グノーシス的宗教』("The Gnostic Religion" Beacon Press, 1958-2001)に導かれて『ヘルメス文書集成』("Corpus Hermeticum", Bompiani, 2005)所収の「ポイマンドレス(ΠΟΙΜΑΝΔΡΗΣ)」を見ているところだったので、そちらの魂の二重説みたいな部分とも重なってくる感じ。アルペトラギウスって何者?ちょっと探ってみよう。

投稿者 Masaki : 18:40

2006年08月08日

スポーツの哲学

昨年10 月からメインマシンにしていたiMac G5がいきなりの故障(やれやれ)。そんなわけで古いiBookで書いている。このところジダンの頭突きやらツール・ド・フランスでのドーピング、さらに国内でも亀田の世界タイトル戦の疑惑判定など、なにかとスポーツの臨界を思わせるスキャンダルが続いているが、そんな中、ミシェル・セールがスポーツをめぐってフランソワ・リヴォネ(哲学者)の問いかけに答えるという趣旨のドキュメンタリー、『スポーツへのまなざし』("Regards sur le sport", INSEP、2004)というDVDを観た。中間的な存在を前面に持ってくるというのがセールのスタンス。それは時に、ちょっと常識から逸脱した物言いになったりする。ここでも、まずはスポーツ選手の主体というよりは身体について語り、球技の主役はむしろボールで(笑)、選手はボールによってプレーされている、ボールという疑似オブジェクトによって選手たちはチームという社会関係を織りなす、といった話が展開したりする。さらに、観客が観る眼は、補欠選手のそれに重なるのだともいう(笑)。出場選手と観客との中間に位置する補欠選手たちこそが、観客の想像的な参加を煽るのだ、というわけだ。なるほど観客は補欠の補欠、補欠のN乗という延長か(笑)。かくして、出場選手を中心とする同心円的な関係ができ、それはとりもなおさず悲劇の上演の誕生に重なるという。古代ギリシアなどでの悲劇は、「上演」することで暴力をパージする、というのがそのそもの起源ではないか、というわけだ。スポーツはそこに重なり、まさにヒト化の作用、教育的意味へと繋がっていくのだ、と。

こういう中間者の視点でみると、サッカーの点を入れるのは選手ではなく「ジャッジがゴールを認めること」が得点なのだということになる。点を入れているのは実はジャッジなのだ、とセールは言う(笑)。ルールが特化された制度の中で、選手たちは拮抗する諸力に操られる。けれども今や選手たちを操っているのは、スポーツの範囲内にとどまるルールだけではなく、より大きな外部的諸力なのでは、という気もする。セールの見解にはスポーツの外部という話は出てこず、やはりアマチュアのものを一種の理想として考察している感じで、プロスポーツ(あるいはアマチュアの疑似プロ化)がそういうものと別の論理に絡め取られる様は語られない。けれどもこの中間者という観点を設定するなら、そこにもまた同心円的な力の拮抗関係が描かれていくんじゃないか、と。

投稿者 Masaki : 17:38

2006年08月04日

古書……

ガザーリの『形而上学』の中世ラテン語版(J.T. Muckle校注、St. Michael's College, 1933)がAmazonのマーケットプレースで安く出ていたので購入。えらく安いので、ボロボロの本でも来るかなと思ったら、某神学校のライブラリーの印が押してある。「まさか盗品?」とも思ったのだけれど、一応印の上にDiscardと記されているし、出所がニューオーリンズなので、もしかすると洪水被害などの関係で(?)手放したものかしらん、なんて思ったりも……。うーん、ネット上の売買って、そういう部分が恐いといえば恐いわなあ。それにしても、貸し出し印が76年に1度貸し出しただけというのが痛々しい。誰も読まないかねえ、ガザーリ本……。

災害報道などではあまり取り上げられないけれど、そういう場合に大量に出る廃棄本や、復興費用のためなどで手放されるであろう書籍などは結構膨大な数になりそうな気がする。そういう場所での買い取り・転売業者なんてどれくらいいるんだろうか、とふと思ったり。ちょうどニコラス・ケイジが武器商人を演じる映画「ロード・オブ・ウォー」(監督・脚本:アンドリュー・ニコル)をレンタルDVDで観たのだけれど、コンテナでアフリカなどに運ばれる物資が、武器・弾薬でなく書籍だったらどんなに平和だろうと想像してしまった。うーん……。

Webカムより、ルクセンブルクの6月末の写真
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投稿者 Masaki : 22:52

2006年08月01日

ストア派……

古代思想ものを一つ。エミール・ブレイエ『初期ストア哲学における非物体的なものの理論』(江川隆男訳、月曜社)を読む。これはまたとーても面白い。ストア派の基本原理が一種の唯名論(唯物論)にあり、しかもそれが「論理学の要請というよりも、むしろ自然学の帰結である」(p.23)というところからして、すでにして魅了される思い。個々の物体のみを基本単位として認めるその立場は、一方でそれが生み出す非物体的なもの(属性など)を認めているが、興味深いのは、それが動詞的に理解されるものなのだということ(あるいは述語になるものだということ)。ここから、非物質的なもの(レクトン)が織りなす「意味される対象」が実在の「指示対象」から区別される、ということになって、なんだかソシュールみたいな話にもなっていったりする。さらにこれらが空間や時間の領域へと拡張されていく様はなんとも刺激的だ。ブレイエの解釈、そしてその詳述ともいうべき訳者の解説。いずれもやや晦渋なところもあるものの、唯名論の長い系譜を改めて提示してみせたという意味でも実に興味深い論考だ。新しいマテリアリズムの可能性?

投稿者 Masaki : 23:36