2006年09月30日

中世の翻訳史

文庫化された伊東俊太郎『十二世紀ルネサンス』(講談社文庫)を読む。もとは93年に岩波書店から出ていた市民セミナーの講義録。著者は日本を代表する科学史家。てっきりハスキンズ本などの概説かと思いノーマークだったのだが、読んでみるとこれは実に鮮烈で刺激的な中世の翻訳史論だった(ノーマークだったことが恥ずかしい……)。十二世紀ルネサンスをアラビア文化との交流史との関連で詳細に論じているのだけれど、特に第4講から第6講までの翻訳史の細かな通観は、一読の価値ありという感じ。シリアのヘレニズムからアラビアの文化伝播、さらに西欧の取り込みなど、概説書としてここまで細やかに論じているのは、国外のものでもあまりない気がする。特に中心的問題がとなる翻訳に関わる問いは、著者も指摘する通り、ヨーロッパではどこかあまりに中心的に論じられる機会が少ない印象がある。この著書の場合、とりわけスリリングなのが、第6講で展開するユークリッドの幾何学書『与件(Data)』の中世ラテン語訳の校注の話。著者がウィスコンシン大に提出したという博士論文の概要、その後に発見された別訳との派生関係やほかの仮説への反論、さらに一連のユークリッドの中世ラテン訳との対比で浮かび上がる訳者の同一性など、実証研究のすばらしさが輝かんばかりに示される。文化の浸透が翻訳に媒介されるというその様を、細やかな視線で浮かび上がらせていて見事というほかない。末尾に引用されたヴァレリーの「他をもって自らを養うことほど、独創的なことはない」という言葉が響いてくる。

投稿者 Masaki : 23:22

2006年09月26日

論集を読む愉しみ

ちょっとほかのことで忙しいものの、少しずつ眼を通しているのが、『アルベルトゥス・マグヌス−−その時代、作品、影響』(”Albert der Grosse : Seine Zeit, Sein Werk, Seine Wirkung” Walter de Gruyter Inc., 1981)。Miscellanea mediaevaliaというシリーズの1冊で、80年に開かれたシンポのact。いや〜こういう論集を読む愉しみというのは、そのシリーズ名にもあるように、その「雑多煮」的な部分。ここでも、思想内容の話から研究状況のまとめ、後代への影響など、いろいろな論考が並んでいる。ちょっと面白かったのは、José Ignacio Saranyanaによる小論。久々のスペイン語論文だ。アルベルトゥスの存在論において、esseとessentiaの区別がどう付いていたのかをめぐり、先行研究から肯定派と否定派を紹介し、そのアウフヘーベンとして、ブラバントのシゲルスによる証言を傍証という形で取り上げている。シゲルスの見解の信憑性は、トマスの存在論をめぐるそのコメントによって証されるのだといい、よってアルベルトゥスが両者の区別をつけていたというそのコメントも十分に信用できるだろうという次第。ま、傍証という多少の弱みはあるものの、なんだか論文の書き方の見本のような感じ(笑)で好感がもてる。あと、Sten Ebbesenによるアルベルトゥスの「オルガノン」(アリストテレス論理学)への論考や、George C. Anawatiによるアルベルトゥスの錬金術関連研究のまとめなどは、そのうちメルマガの方で取り上げることにしよう。

投稿者 Masaki : 23:33

2006年09月21日

海のプレゼンス

それほど期待せずに読んだら、個人的には案外当たりだったのが、フランコ・カッサーノ『南の思想−−地中海的思考への誘い』(ファビオ・ランベッリ訳、講談社選書メチエ)。スローライフに象徴される反自由主義の理論的考察なのだけれど、ちょっと面白いのはその着想が、バシュラールじゃないけれど、海、それも地中海が醸す地勢的な詩的想像力にあること。で、そうした想像力でもって西欧思想の根源を本質に迫ろうというのが、なかなか好印象を与えてくれる。特に第二章は、陸と海の境界としての沿岸を、専制と自由の狭間、中庸の思想に重ね合わせているのが興味深い。なるほどハイデガーの陸へのこだわりは海へのアレルギー反応、ニーチェの持つ海の浸透力への抵抗だったが、反動で権力への意思を突き進んでしまう。一方のニーチェ系のポストモダン思想は、ノマディズムを短絡的・消費的にブルジョワ化してしまう。一方が再中心化ばかりなら、もう一方は脱中心化ばかり。むしろ真に豊かな思想はギリシアのもので、そこではノストス(帰郷)、境界の行き来が中庸への道を開いてくれるかもしれない……というわけで、まさにこれはオデュッセウス的叡智だ。この海の想像力は、まさに「内海」ならではのものかもしれないと思う。外洋に直面するような地勢ではこうはいかない。外洋の場合には、どこか外洋への恐怖と内海へのあこがれといったものが、おのれの想像力の深いところに住まわったりしないのかしら。

Webカムから、9月のパレルモ。うーん、ギリシアあたりのWebカムって見あたらないなあ。
palermo0609.jpg

投稿者 Masaki : 23:47

2006年09月18日

ローマ法王の物議

世間的には「失言」問題などと言われていたローマ法王の物議。けれどもこれ、失言というようなものではない。法王は遺憾の意を表したようだけれど、イスラムの過激な人々を中心に騒ぎは収まりそうにないという。うーん、でもこれはどう見てもイスラム側の過剰反応という面が強い。問題の演説は、レーゲンスブルク大学での学者たちを前にした講演のもの(12日)。全文がヴァチカンのサイトに英独伊で掲載されている。さすがにベネディクト16世ことラッツィンガーはもとからの学究肌だけあって、この演説は、理性と宗教という古くからの問題を再考しようというのが趣旨だ。理性のまさしく故郷であるギリシアと原始キリスト教との密接な関わりから説き起こし、「脱ヘレニズム化」(enthellenisierung)というキーワードでもって、理性に対立するようになる宗教の歴史を振り返り(中世後期の主意主義、近世の宗教改革、神学をも席巻した近代における科学偏重主義、現代の多文化主義)、それらへの反省として、新しい形での信仰と理性の出会いを模索しようという、メッセージというか論考になっている。いかにも大学での講演という感じで、問題の設定はきわめて学問的なものだあり、大学の役割にも言及している。

問題の「ムハンマドのもたらしたもの云々」という下りは、最初の導入部分で言及されているだけで、理性は宗教にとっても必要なものだということを述べるための枕として、14世紀のビザンツの皇帝(マヌエル2世パラエオロゴス)とペルシアの学僧との会話が出てくるという次第。しかもそのパッセージ、トルコ軍によるコンスタンティノポリスの攻囲という当時の状況を考えれば、皇帝が過激な言動に出ることも当然のように見える(Er sagt: „Zeig mir doch, was Mohammed Neues gebracht hat, und da wirst du nur Schlechtes und Inhumanes finden wie dies, daß er vorgeschrieben hat, den Glauben, den er predigte, durch das Schwert zu verbreiten“. Der Kaiser begründet, nachdem er so zugeschlagen hat, dann eingehend, warum Glaubensverbreitung durch Gewalt widersinnig ist. Sie steht im Widerspruch zum Wesen Gottes und zum Wesen der Seele. )。この引用でもって、イスラムへの侮辱というのはちょっと過剰反応と思えるのだけど、それにしてもそうした過剰反応が拡がってしまうというところに、何かとてつもない危うさがあるのも事実だ。公人でありローマ教会の第一人者である法王の言動だからという部分ももちろんあるだろうけれど(レベルは違うが小泉の靖国訪問のように)、それにしても本筋ではないところで騒いでしまうのは、やはりDie Weltの記事がいうようなヒステリックな反応にしか見えない。理性と信仰との対話を促すテキストが、非理性的な反応に直面するという逆説は、何かの兆候だろうか?イスラム世界は不可触の存在(語の多様な意味での)になろうとしているとでもいうのか?

それにしてもこの法王の講演はそれ自体として興味深い。理性と信仰の問題は、このテキストがわずかに触れているように、長い歴史に彩られているものだからだ(ドゥンス・スコトゥス、宗教改革、近代の科学偏重などなど)。マヌエル2世のその対話編はクーリー教授(Khoury)の編集によるものだというが、その対話も全体像が知りたいところ(これって、Adel Th. Khouryという宗教学者のことかしら)。

投稿者 Masaki : 20:06

2006年09月16日

掘り出し物

近場の古本屋で、"Revised Medieval Latin Word-List from British and Irish Sources"(Latham, British Academy, 1965)の73年のリプリント版を安く購入(Amazonのものよりもちょっとだけ安かった)。見出し語と文献の初出年(現存するもの)と簡単な訳語が載っているだけなのだけれど、これはこれで一応簡略化された辞書として引ける。聖パトリックからフランシス・ベーコン(ロジャー・ベーコンはもちろんとして)まで網羅しようという遠大な辞書編纂プロジェクト(分冊で出ているDictionary of Medieval Latin from British Sourcesや、同じくform Irish Sourcesなどがその成果だけれど、それらは揃えるとなるとちょっと個人では高額。図書館に期待したいところなのだけれど)の最初の派生物が1934年のBaxter & JohnsonのMedieval Latin Word List from British and Irish Sourceで、それを大幅に増補したのがこれというわけ。「学生向き」を謳っているだけあって、見出し語の意味や用法の変遷も大まかに追えたりもする。うん、なかなかいいね、これ。

投稿者 Masaki : 21:56

2006年09月14日

スピノザ再び

上野修『スピノザ−−「無神論者」は宗教を肯定できるか』(NHK出版、2006)を読む。100ページほどのブックレットだけれど、スピノザの『神学・政治論』を解読した好著。既存の宗教に対する視座という、いわば側面的なアプローチをしかけている。で、その結果、スピノザがトポスの神という現代の宗教論的を先取りしていることが改めて浮かび上がる、という仕掛け。宗教自体は構築されたものである(スピノザにおいては「敬虔の文法」という、哲学とは対立する形で展開する、とされる)一方で、既存の宗教がもつ構造は普遍的であり、それは政治論の形で取り出すことができる……というのがスピノザの議論の大筋なのだ、というわけ。うーん、『神学・政治論』はずいぶん昔に眼を通したきりだけれど、そういう展開だったっけか。また改めて読み直してみることにしよう。「敬虔の文法」が、敬虔を培うため物語・言語の操作という形で成立するという意味で、自然に立脚する概念を扱う哲学とは全く異なるというあたり、スピノザが中世以来の「理性vs信仰」の対立を独自な形で処理していることが示唆されているわけだけれど、このあたりももう少し詳しく見たいところ。

ちょうどオランダはアムステルダムのWebカム。

amsterdam0609.jpg

投稿者 Masaki : 00:42

2006年09月09日

トロワとブリュージュ

asahi.comで知ったのだけれど、中世社会史の大御所、阿部謹也氏が4日に亡くなっていたそうだ。賤民などの西欧中世の暗部に光を当てた研究などは、まさに本邦での中世社会史のメルクマール。翻って日本社会への批判的言論もやはり見逃せないものだった。その志は、おそらく数多くの直接的・間接的な弟子筋によって、継承されていくに違いない。ご冥福を。

ちょうど最近でたばかりの概説書を二点読んでいたところ。限定的な都市を取り上げ、一方は通時的視線をもって、もう一方は共時的な観点から活写するという意味でどこか呼応し合っている感じがしなくもない。一つはJ.ギース『中世ヨーロッパの都市の生活』(青島淑子訳、講談社学術文庫、2006)。13世紀のトロワの町を、市民生活という観点から描くもので、著者は作家だけに、比較的新しい歴史学的知見を取り入れつつ、一方でどこか人物像的なものへの配慮というか目線が感じられる。もう一つは、そのトロワのシャンパーニュ大市の衰退とともに台頭していくというブリュージュを、定点観測的に通史の視点から描いた河原温『ブリュージュ』(中公新書、2006)。こちらも基本的には文化史研究ながら、複合的視点から様々なトピックを取り上げた好著。ブリュージュは個人的にも2度ほど行ったことがあるけれど、運河の織りなす様といい、低い住宅の佇まいといい、ごく普通の目線・佇まいの上に文化が拡がっていくという、一種のダイナミズムを再認識させられるような気がしたのを覚えている。高尚とされるものも、地に足がついたところから発せられるという、ごく当たり前の話だけれど、意外にそうした部分はおざなりにされやすいわけで。同じ中世関連書でも、哲学系の文献や限定的なトピックの論考を読むのに疲れたら、やはりこういう概説書の広い視点を借りて、なにがしかの偏りを補正するのが結構大事かなという気がしたり。

投稿者 Masaki : 23:30

2006年09月05日

キリスト教は無神論的?

ジャン=リュック・ナンシーの『デクロジオン(柵の取り外し)』("Déclosion", Galilée, 2005)にざっと眼を通す。これ、副題に「キリスト教の脱構築1」とあるように、ナンシーの宗教論をめぐる講演や論考を集めたもの。聞くところによれば、邦訳も刊行準備中だとか。

神が世界の原理に還元されるという意味で、一神教というものはもとより無神論的であるというのが出発点となるテーゼ。これは昨今の宗教学で言う、トポスとしての神、みたいな話に通じるものがある。神が原理に還元されるという動きも、その裏側に神と原理を分離しようという動きがあって、一枚岩ではない。一枚岩に見えるものを解体していこうとするところが、脱構築的の本領ということになるのかしら。そしてまた、一神教の中でも特異な立場にあるキリスト教の場合、「それ自体が脱構築、自己脱構築である」(p.55)という議論へと至る。そもそもキリストによって、神そのものは後退を余儀なくされたわけだけれども、そうした動きは、もとより一神教に胚胎しているのではないか、というわけだ。キリスト教史、ひいては西欧の歴史は、そうしたものの継起的な発現、組み替えの過程にほかならない……うーん、爽快なまでの達観ではある。

一方で、自己の脱構築を進めるのがキリスト教本来の動きであるのなら、その到達点としての現代において、信仰(croyance:不在のものへの指向)ではない信心(foi:「信」などと訳されるが、要するに執着の構えのこと)は、果たして純粋な信心、つまり意味そのものへの執着、執着の身振りへの執着として現れるだけなのか、という問題は残る。信心はやはりどこかで信仰へと「横滑り」せざるをえないのではないか、対象を求めるのではないか、という問いだが……一歩間違うと、それは単なる軽信に陥ってしまわないのかしら、などと考えてしまうのだけれど……。

投稿者 Masaki : 22:00

2006年09月02日

グーグルのブックサーチ

グーグルのブック検索で著作権切れ本のフルダウンロードが始まったときき、さっそく覗いてみる。最近gmailが招待制でなくなったので、速攻でアカウントを作ったのだけれど、ブック検索で中身を見るにはそのアカウントが必要になる。うーん、これ、簡易サーチでは基本的に検索語が引用されている書籍がずらずらっと出てくるだけ(ま、それはそれで凄いのだけれど)。著者名で検索しても、著作の数々が並ぶわけではない。たとえば「Hans Jonas」(先のグノーシス本の著者だ)で検索すると、Jonasに言及した本がずらずらと表示される。Jonas本を表示させたい場合は、検索語に「inauthor:」とか付ける。Hans Jonasにマッチさせるなら、「inauthor:Hans inauthor:Jonas」なんてしないといけない。結構面倒かも。また、基本的に大学などの図書館本をPDF化しているというような話だったけれど、フルダウンロードできるものはまだまだ数が限られているようだ。とはいえ全ページをスキャンして、しかもその全テキストでインデックスを作っているというのはものすごい。ある意味感動的。ここは素直に、今後の品揃えとインターフェースの改善に期待しよう。

投稿者 Masaki : 19:54