2006年10月27日

サイードの人文学擁護

サイード『人文学と批評の使命』(村山敏勝・三宅敦子訳、岩波書店)を読む。遺稿などを除き、完成した本として出たものとしては「遺著」にあたるものだという。晩年の仕事、というのがサイードの晩年の関心だったとかいう話だったと思うけれど、なるほどここでは、すさまじいまでの危機意識をもって、人文学と批評のいわば再建を謳っている。ベースとしているのがヴィーコだったりする点に、ちょっと思いがけなく感動したり(「人がほんとうに知ることができるのは人が作ったものだけである」(p.14)というか、人は、人が作ったものを通してしか、人と真には関われない、ということを、以前から思っているわけなんだけれど)。古典といわれるものの再読に、歴史を開く場、闘技の場(p.30)を見ようという熱いメッセージだ。4章では、アウエルバッハの『ミメーシス』にその実践の具体例を見いだしている。「探求と発見の感覚」(p.125)を湛えたアウエルバッハのテキストを読むサイードもまた、「喜びと不確かさを気取らずに読者と分け合」っているという、この二重の批評的実践。さすがサイード。訳者のあとがきにある遺稿の音楽論もぜひ読みたいところ。

投稿者 Masaki : 20:30

2006年10月19日

みたびスピノザ

このところ、ちょっと事情があってあまり本を眺めている暇がないのだけれど、とりあえず、書店で買えるようになって3年目の『中世思想研究 48号』(中世哲学会編、知泉書館)をぱらぱらと。確か前号のスピノザと中世の関係に触れた論考に続き、今回はシンポジウムが「中世から近世へ」と題されて、近世に流れ込んだ中世からの遺産という感じのテーマ設定になっているのが興味深い。とくに柴田寿子「西欧近世にみる開放的共存の思考様式」という論考は、スピノザの『政治神学論』の二重性(超自然や人格神を否定すると同時に、啓示や預言の確実性を肯定する)を解釈する試み。教義内容にかかわりなく、敬虔な服従は可能だとするスピノザの主張は、ユダヤ教的精神として読むことができ、それは内面と外面とを分離するような考え方ではない、という話だ。これは先の上野修氏のブックレットとも重なる議論。スピノザの「自然」の意味などもふくめ、このあたりは何度でも吟味しなおして、近現代への批判的視座を再構築するための足場にできそうな感じがする。うん、中世から近世という流れも、ちゃんと押さえていきたいところだ。

写真は、この間都内の某駅で、携帯のカメラのレンズに映り込んだ夕日の光の筋。
luminus.jpg

投稿者 Masaki : 00:29

2006年10月13日

甘い顔して……

少し前にジョージ・クルーニー製作総指揮の映画『シリアナ』をDVDで観た。中東の石油利権に絡んだ諜報戦の内幕を描いたもの。映画だけに多少の現実離れした部分もあるだろうけれど、とりわけ、日々の苦渋を感じている若者たちに、イスラム系のテロリスト集団が食事と教育を餌に「甘い顔をして」接近していく様が、なんだかとてもリアルだった。若者たちは結局洗脳されて、自爆テロへと疾走していく。岩波の『世界』11月号には、8月くらいにナチスのSS(武装親衛隊)のメンバーだったことをみずから暴露したギュンター・グラスの『フランクフルター・アルゲマイネ』紙のインタビューが翻訳で掲載されている。これを読むと、グラスにしても、若い頃にひたすら家を出たい一心で志願兵となり、結果的にSSに編入させられたのだということがわかる。グラスは、ヒトラー・ユーゲントの教育はモダンで、団長は「いいやつだった」と振り返っている。これってまさに、上の映画のイスラム原理主義組織の手口と同じ。口当たりがよく、未来の希望を抱かせるふりをして、つけいってくるというわけだ。現状への不安・不満につけこみ、輝かしい未来を吹聴しては、おのれの陣営にからめとる。しょせん思想は後から付いてくるのだから、ということか……。

考えてみれば、そういうことは大なり小なり様々な場面で行われている。一般市民にとっての日常においては、一寸先が闇なのはもとからのこと。それを、たとえば小泉内閣はたくみに政治利用しようとした。もともとそうであるものをことさらに吹聴して、改革の軸にしようとしたわけだ。とはいえ小泉は、輝かしい未来といったそれなりの希望を言葉たくみに描きはしたものの、具体的に見せるところまではいかなかった。というか、希望を見た人たちは新自由主義万歳になり、そうでない人たちは反新自由主義という立場を取り、全体的にみると、幸いながら前者が席巻するというところにまではいかなかった。で、今回の北朝鮮の核実験で、政治家たちは脅威のレベルが格段に上がったということを言う。これもまた同じ構図になっていきそうな点が気がかりだ。北朝鮮が核実験をしようとしまいと、日常のレベルでは何も変わらない。一寸先が闇という時間意識はもとより組み込まれているものだから。もしかすると、より上位の国のレベルでも状況は何も変わっていないのかもしれない。北朝鮮脅威論自体はずいぶん前からあるのだし。問題なのは、今後そういう不安につけこんで、いろいろと軍拡的な施策が直接・間接に行われていくかもしれないということ。どこかで誰かが書いていたと思うのだけれど、大学だけを9月からの始業にし、高校卒業からの半年を、若い人たちの社会奉仕活動にあてようという案は、有事をあてこんだ兵役にシフトする恐れがあるのでは、そのための布石なのでは、というような話もある。うーむ、いかにもありそうで恐い……気がついたら妙なことになっている、というのが一番厄介だ。

投稿者 Masaki : 12:18

2006年10月09日

カントーロヴィチ

「書物復刊」は今年で10周年だそうな。今年は充実のレパートリーで、カントーロヴィチ(そちらの表記ではカントロヴィッチ)の『祖国のために死ぬこと』(甚野尚志訳、みすず書房)もその一冊。これは論集で、表題作は、古代世界において情緒的価値をもっていた「祖国」の概念が、いちど宗教にからめ取られ、再び12世紀以降に「王権」と結びついてその情緒的価値が復権するプロセスを論述したもの。神秘体としての国家の成立というテーマは、後の『王の二つの身体』に結びついていく重要なものだけれど、個人的にとりわけ興味深かったのは、それに関連する国庫の成立の話。キリスト教の財産論の起源をめぐる考察の一端としても、これはとても参考になるもの。それから、中世からルネサンスにかけての芸術理論と法という、一見関係のなさそうに見える事象の連関を説いた末尾の論考も刺激的。やはり当時の法学の問題は避けては通れない、ということかしら。

投稿者 Masaki : 10:27

2006年10月03日

パース

新書館が出している季刊誌『大航海』(別冊ダンス・マガジン)No.60の特集はパース。変形文法のチョムスキーと政治批評のチョムスキーがときに同一人物ではないかのような誤解を受けたりするけれど、パースもまた、記号論のパースと、『連続性の哲学』などのパースとがイメージ的に分裂していたりする。なるほど、そのあたりの補正にも一役買いそうな特集、というわけだ。『謎への推量』というパースの論文草稿の翻訳もさることながら、毎号どちらがインタビューアーなのかわからなくなる(笑)三浦雅士氏の、パース研究者伊藤邦武氏へのインタビューが面白い。たとえばパースの場合のフォームとマター(形相と質料)は決して静的なものでなく、カオスの状態(質料)になにかがぶつかるそのぶつかり(形相)の関係にあるのだというくだり。ちょうど『ローマ帝政期のマニ教テキスト』(I.Gardner & S.Lieu, "Manichaen Texts from the Roman Empire", Cambridge Univ. Press, 2004)をちらちら見ていたら、リコポリスのアレクサンドロスのテキストに、アリストテレスとは違う質料形相論が見出されるという話が載っているのを眼にしたばかり。マニ教のコスモロジーでの質料は「無秩序な運動」のことなのだという。なんだかこれ、遠い残響をなしているようでとても興味深い。

投稿者 Masaki : 22:10