2006年11月29日

再びピーター・ブラウン

このところ翻訳での刊行が相次ぐピーター・ブラウン。『古代末期の形成』(足立広明訳、慶應義塾大学出版会)も、薄い割にはなかなかの読み応え。原著は1978年の刊行で、ブラウンによる古代末期についての歴史観の変換を告げたとされる、一連の講演をまとめたもの。日本語版への序文というのがついていて、ブラウンが批判していた相手というのが、当時の大御所だったフェステュジエールやドッズだったことが明示されている(もちろん、批判するからといって敬意を失ったりはしないのだけれど)。古代末期には社会不安が拡大し、それへの反動という形で神秘主義などが拡がったとする両者のスタンスに、何もそんなものがなければ神秘主義は拡大しないわけではないと、ブラウンは挑んでいった、ということらしい。たしかに前二者のスタンスは、いかにも大陸的・否定神学的な見方(ロマン主義っぽい?)で、ブラウンのほうはむしろ、社会的な豊かさの内部から変革が導かれていったという読み替えを行っている。こうして、個人の台頭、古来からの異教的伝統に生じた変化、天上・地上の力の変換(キリスト教による組み替え)などが、社会の変化という視点からテーマとして扱われる。なるほど、イアンブリコスやポルピュリオスなどの思想動向(伝統の実践が、怪しげな魔術ではなく、上位のものに関わるものだと見る)が、そうした上昇志向の社会的な文脈の中に位置づけられるというあたりは、なるほどと思うことしきり。初期キリスト教の変貌というのも、改めて興味深い問題に見えてくる。

投稿者 Masaki : 22:48

2006年11月23日

「ギリシア語文法」

高津春繁『ギリシア語文法』(岩波書店、1960-2006)を購入。94年に復刊されて以来、品切れ状態で(アマゾンのマーケットプレイスなどでは3万円の値が付いていた)、まさに待ちに待った復刊。古典ギリシア語の文法書としては、国内で右に出るものはないとされてきた貴重な一冊。45年も前の著書だけれど、当時の(また戦前戦後の)古典学・古典語学のレベルの高さを目の当たりにする思い。とても刺激的だ。岩波の英断に感謝。同じ著者の『基礎ギリシア語文法』(北星堂書店、1951-92)も、入門編ながらとても懇切丁寧な解説がすばらしい。この92年版は読本と合本になっていて、すぐに読解演習に進めるのも良い感じ。古典語復興にぜひ。

投稿者 Masaki : 23:22

2006年11月21日

ヨアキム主義

値段も重さもずっしりとくる大著マージョリ・リーヴス『中世の預言とその影響』(大橋喜之訳、八坂書店)を読んでいるところ。見事な訳業は、サイト「ヘルモゲネスを探して」の管理者の手になるもの。ヨアキムの思想が中世以降にどう伝わり、どう変形していったかという問題を、文献学のアプローチで詳細に論じた一冊。かなり細やかな歴史的・文献学的議論が満載なので、ちゃんと消化できてはいないのだけれど、とりあえず中程まで読み進む。個人的にはヨアキム思想の形成のほうに関心が向かってしまう感じだったのだけれど、同書でもって、ヨアキム主義の長い歴史というのも、伝達作用(歪曲や変形を含めて)の事例として興味深いものだということに、改めて触発されつつある(笑)。同時代の反応やら、すぐ後代の批判や賛同など、ヴィヴィッドに描かれていてとても興味深い。旧約と新約の符合議論を、トマス・アクィナスなどが「当て推量」だとして一蹴しているのも面白い。

ちょうど少し前からヨアキムの『黙示録序説』("Enchiridion super apocalypsim", ed. E.K. Burger, Pontifical Institute of Mediaeval studies. 1986)をちびちびと読み始めていた(こちらも中程)ところで(リーヴス本によると、これは『黙示録注解』の初期異文ということなのだが)、旧約と新約との符合関係についてのヨアキムの議論が、数へのコミットメント(秘数論?)によってドライヴされていることを改めて感じさせてくれる。一方、旧約、新約それぞれに7時期に区分されるうち、その6番目と7番目が並行して「共時的に」存在しているというあたりの話は、今ひとつよく見えてこない。リーヴス本によると、これはヴァンサン・ド・ボーヴェも取り入れた考え方だとう話で(p.206)、少しそのあたりも彷徨いてみたいところだ。

ちなみにこのリーヴス本、冒頭を飾る(表紙も)図版がとても素晴らしい。『形象の書』からのカラー図版は見もの。ここでも、ネットに転がっていた「生命の木」(救済史の系統樹)を掲げておこう。

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投稿者 Masaki : 19:01

2006年11月17日

場所の想像力

この間レンタルDVDで『奇談』を見た。諸星大二郎の短編漫画(「生命の木」)が原作。昔いくつか読んだけれど、今思い返すと、諸星作品の短編ものは『世にも奇妙な物語』あたりで取り上げるくらいが相応しい感じだったような。ちょっと長編には向かないのでは……と思っていたのだけれど、案の定、映画『奇談』は、原作にはない神隠し話をからめて長編化していて、その部分と本来の「生命の木」の話との融合具合が、ちょっと今ひとつだった……。でも、阿部寛の稗田礼二郎(異端の民俗学者)役は、『トリック』の上田を引きずるのではと思っていたら、意外に良かったり。

まったく関係ないものの、この話を観て思い出したのは、ほんの30年くらい前には、田舎のほうに、確かになんらかの土着信仰的なものが、おそらくはすっかり形骸化した形で、断片化して残っていたように思える、ということ。嘘か本当か、それほど遠くないところにある霊山に、家系的に入ってはいけないのだという同級生とかいたし(子どもの戯れ言だったのかどうか、不明なのだけれど)、より近所の山の中でも、あまり人の行かない場所とかあって、子どもらの間では、その場所の因縁めいた妙な話がまことしやかに語られたり、何か嫌な体験をしたという噂話が流れたりしていた。なにかそういう場所的なものが、ひどく想像力をかき立てる面があって、東京からテレビなどを通じて発信されてくる娯楽や情報などと、そういう戯れ言めいたものとが、ごく普通に共存していた。諸星作品が汲み上げている感覚というのは、そういうもののような気がする。宅地整備とかが進んで、ずいぶん見通しがよくなってしまったらしい田舎の画像をGoogle Mapなどで見てみると、のっぺりとしたその写真の感じもふくめて、場所の想像力もすっかり消えているんだろうなあなどと思ってしまう。

投稿者 Masaki : 22:21

2006年11月11日

ラテン語ミサ問題

この1ヶ月半というもの、家族が入院する騒ぎがあって、あまり時事問題などにコメントできたなかったのだけれど、ようやくそちらも退院となり、少し余裕が出てきた。そんなわけで、一ヶ月遅れの話題で、いまさらながらだけれどこの話。10月初めごろ、ローマ法王がラテン語ミサの復活を教皇親書(motu proprio)で出しそうだとの報道がなされた。これ、ラテン語復興という意味では良さそうに思えるのだけれど、どうも事はそう簡単ではないようで。その動き、伝統主義派の分裂状態を諫めるための措置で、ピウス5世当時の典礼にしたがってラテン語ミサを執り行ってもよいという内容になるとされていた。ピウス5世というと、在位期間が1566年から72年の教皇。その典礼は65年の第二ヴァチカン公会議で廃止された。で、フランスのルフェーヴル司教が以前からそれに反対し、88年にはヨハネ=パウロ2世によって破門されている。とはいえ、そのヨハネ=パウロ2世自身がラテン語ミサを容認していて、それでもさほど実施されたなかったという過去があるのだそうだ。問題は、伝統主義派への譲歩がなされてしまうと、第二ヴァチカン公会議の決定そのものが骨抜きになるということで、フランス国内の教会関係者からも反発が出ているのだという。なるほど、これって政治問題化してしまうわけね。

可笑しかったのは、Le Modeの配信しているニューズレター掲載の、グザヴィエ・ゴルス(Xavier Gorce)の漫画。だいたいこんな感じ。無神論者が「僕はラテン語ミサ復活に賛成だね」といい、理由を聞かれて「だってそれでさらに教会から人がいなくなるから」チャンチャン。「『Dominus vobiscum』と言ったらどう答えるね?」と聖職者に聴かれた子が、「それって『ハリポ』の呪文ですね」チャンチャン。『ハリー・ポッター』の呪文って確かにラテン語をもじったものだったようだけど……(笑)。

写真は某所から見た東京。
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投稿者 Masaki : 23:28

2006年11月09日

中世初期の出版事情

箕輪成男『中世ヨーロッパの書物--修道院出版の九〇〇年』(出版ニュース社)に目を通す。前作『写本の社会史』もそうだったけれど、この著者が興味深いのは、出版流通の観点を保ちながら歴史を振り返っているところ。記述は卑近な例やら最近の世相などが混じり、どこか独特の語り口になっている(賛否はあるだろうけれど)。たとえば先に文庫で出たケン・フォレットの『大聖堂』(個人的には未読だけれど)は読者に一読を勧めているのに、エーコの『薔薇の名前』は何が言いたいのかわからんと酷評(笑)。けれどもそこに描かれている僧院の事情に関しては詳しくまとめていて、一応の評価をしていたり。さらに今回は、日本の中世の写本状況などに触れていて、比較研究のとっかかりになっている。そのあたりの比較文化論的な掘り下げがなされているような書籍はないかしら、とふと思ったりした。そのうち探してみようかと思う……。

投稿者 Masaki : 23:53

2006年11月02日

ソフィスト

納富信留『ソフィストとは誰か?』(人文書院、2006)を読む。個人的にも、ソフィストというのは実は再評価されるべきなんじゃないかしら、と前から思っていたのだけれど、そのためのとても参考になる一冊。プラトンの著作でこれでもかという感じで攻撃されるソフィストだけれど、少なくともプラトンの批判が政治的なものであることは近年いろいろ指摘されてきた。とはいえソフィストと呼ばれた人々にまとまった著作が残っているわけでもなく、それだけに実像は霧の中という感じが強い。そんな状況の中、同書の著者は、プラトン以外の文献などを駆使しながら、時代状況の中のソフィストという存在に接近しようとしている。ソクラテスがソフィストとして裁かれていることや、プラトン以外のその弟子たちが、ソクラテスとソフィストとの対立図式を用いていないことなどを指摘したあと、プラトンに見られる対立点を整理しながら、ソフィストとされる人々の論点、とくに相対主義的な考え方を浮かび上がらせようとしている。余談ながら、この相対主義的なスタンスと、それに対立する形での絶対主義的なものとの関わりというのは、歴史的に繰り返されるある種のパターンとして、中世あたりについても再考してみたいところだったりする……。

同書の後半では、ゴルギアスとアルキダマスのテキストをもとに、彼らの言論技法の実際を細かく検討している。とくにゴルギアスの、『ないについて、あるいは自然について』というテキストとその検討はなかなかの傑作。そもそもこのテキスト自体がかなりの違和感を覚えさせるのだけれど、著者はそれを技法とのからみや、参照元となっているであろうパルメニデスの存在論やその継承者たちの議論との関係などから、そうした違和感について詳細に論じてくれている。ゴルギアスの論が、一応の対立項として立てられる哲学の側のパロディであるかもしれない、という論旨だ。うーん、存在論がらみの議論がそのように読めるというのがとても斬新。

投稿者 Masaki : 20:40