2006年12月29日

C.S.ルイス

『ナルニア国物語』で知られるC.S.ルイスは、実は中世・ルネサンス文学の研究者でもあった(ケンブリッジ)。というわけで、その中世文学に関する著書の一つ、『廃棄された宇宙像』(山形和美監訳、八坂書房、2003)を読んでみた。原著は著者が亡くなった翌年の1964年に刊行されている。基本的にはケンブリッジに移る前のオックスフォードでの講義をまとめたものということだ。内容は中世に伝えられた異教的コスモロジーの概観を、その主要な係留点(「スキピオの夢」、カルキディウス、マクロビウス、偽ディオニュシオスなどなど)と後世への影響(特に英国。チョーサーはもちろん、シェイクスピアやミルトンなどまで)を絡めて示している。天空の球形性や構造、魂をめぐる諸説など、細かな言及を交えつつも、基本線としては必須のエッセンスを手際よく、歯切れよくまとめている。うーん、個人的に、「三者原理」(「媒介なしに一つの端から別の端に移行することは不可能である」)などの絡みで触れられているリールのアラヌスに注目してみたくなった。

投稿者 Masaki : 21:18

2006年12月26日

「ビザンツ歴史紀行」

西欧ではなく日本の中世史の著名な研究者が記した、ビザンツ文明圏の旅行記というのを興味深く読んだ。今谷明『ビザンツ歴史紀行』(書籍工房早山、2006)。イタリア、ギリシア、トルコと、かつてのビザンツ帝国に関係する地をめぐった旅行記。遺跡探訪の詳細と、過去の文献や歴史的な背景のコメントが絶妙に重なり合って、はるかな歴史への思いをかき立ててくれる。著者の専門である日本史との比較論的な視点も各所にちりばめられている。中でもとりわけ貴重なのが、ギリシア編でのアトス山巡礼記。そう簡単には入山できないと言われている修道僧らの文字通り「聖地」だが、著者はそれを軽やかな足取りで、飄々と渡っていく……。うーん、お見事。末尾で著者が構想を語っているビザンツの封建制と中世日本の封建制の比較論、ぜひ読んでみたいものだ。

カバーを飾っているのは、ラヴェンナのサン・ヴィターレ寺院のモザイク画。ユスティニアヌス帝を描いたもの。
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投稿者 Masaki : 00:51

2006年12月23日

剣をめぐる論考集

『続・剣と愛と--中世ロマニアの文学』(中央大学人文科学研究所編、中央大学出版部、2006)に目を通す。今回の論集は「剣」の文学的(文献的)表現をめぐる論考が多く、扱う題材は多岐にわたっていて大変興味深い。まさに競演という感じ。個人的にとくに面白かった論考をピックアップしておくと、まず小路邦子「エクスカリバーの変遷」。ジェフリー・オブ・マンモスの「ブリタニア列王記」から始まるアーサー王の剣(カリブルヌス)は、クレチアン・ド・トロワの「ペルスヴァル」ではガウェイン(ゴーヴァン)が持っていたりするが、ロベール・ド・ボロン「メルラン」で原型ができあがり、そこから先、多くの流布本に担われ少しずつ変貌していく……。意外にこういった変遷史はこれまでちゃんと扱われてこなかったような気もする。小川直之「サラディンを倒したイスラムの名刀マルグレ」は、本当は病に倒れたイスラムの英雄サラディンが、ヨーロッパ側の伝説(というか文学作品)では、同じく十字軍を苦しめたコルニュマランのもっていた剣マルグレによって(その剣はその後、紆余曲折を経てジェラールなる兵士の手に渡る)命を落とす、とされるのだという。この話から、サラディンへのキリスト教徒側の複雑な思いが浮かび上がる、という寸法だ。

鈴木圭子「時代としての剣」は、なんとビンゲンのヒルデガルトの幻視における剣のイメージを分析したもの。そこでの剣は時代区分(時間の表象)と関係するのだという。その独特な諸特徴をまとめた後、ヒルデガルトの歴史認識にまで踏み込もうとする。なるほどこういう切り込み方はなかなかに刺激的だ。仮谷浩子「聖ペトロの剣の行方」は、有名なエルチェの聖母被昇天劇の時代的変遷を追ったもの。その台本に中にとりこまれた、聖ペトロが剣を振り回す場面の由来や変遷を、実に手堅くまとめている。ほかにも、人類学的な知見からのアプローチなど、深みのある論考の数々がある。巻末に、この研究チームは2007年3月でいったん解散するとある。ちょっと残念ではあるけれど、それでももう1冊くらいは出そうな感じもするので、期待したいところ。

投稿者 Masaki : 00:21

2006年12月20日

師走の風景

師走はやはりいろいろと忙しない。世間の年末進行は、こちらにも否応なしに関係してくるわけだけれど、そんな中、足かけ2年かけてちびちび行ってきた(途中ほかのが入ったりして、遅れたりしたが)プロクロス『プラトン神学』の原典購読(Les Belles Lettresの希仏対訳版)を一通り完了する。うーん、6巻通読はなかなかの読み応え。プラトンの著作に出てくる神々を体系化するというもので、重複や繰り返しがいろいろあったけれど、なかなか興味深いものではあった。で、今度はアプロディシアスのアレクサンドロス『宿命論』に取りかかる(先のピーター・ブラウンに触発されて)。逍遙学派から見た宿命論としては唯一無二のもの。のっけからアリストテレスの4大因の話が出てきて、ヘイマルメネーをそうした原因の観点から説く方向に行きそうで、ちょっと期待している……。

また、先に眺めていたフィオーレのヨアキム『黙示録序説』は、6と7の数字の重なり合いで引っかかったまま読了。これに関連する論考を見つけたので、アマゾンで注文してみたが、さてどんな感じだろう……?いずれにしても、これでようやく、秋に出て早速入手したアルベルトゥス・マグヌス『自然ならびに魂の起源の書』の羅独対訳本("Über die Natur und den Ursprung der Seele", Herder, 2006)に取りかかれることに。これ、断片的にしか読んだことがなく、こういう形で廉価版で読めるのが嬉しい。アマゾン・ドイツで結構前に予告が出てからずっと待っていた一冊。これも最初から、『鉱物論』などで展開される質料ドリブンな話が炸裂していて、すでにして興味深い。アルベルトゥス関連の比較的新しい論集も入手したものの、秋からいろいろあって手つかずのまま。ま、ゆっくりやっていこうと思う(いつもそう言っているが(笑))。

久々のWebカムは、12月上旬のブダペスト。朝の光がとても美しい。
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投稿者 Masaki : 21:38

2006年12月16日

季節はずれのエイプリルフール?

13日夜に放送されたというベルギーの偽テレビニュース。「フラマン(フランドル)独立」という嘘ニュースは、王宮前中継やら、人気歌手への突撃インタビューみたいなものまであったようで、まさに真に迫っていたのだそうだ。30分でフィクションであることが伝えられたというけれど、その後の一般市民の反応では「あれじゃあ、本当にフラマンの連中が独立を考えてしまう」といった声もあったようだし、実際そういう議論を喚起するのが目的だとしている公営の放送局RTBF(ベルギー・フランス語圏放送局)は、当然ながらかなり批判を受けてはいるようだが……。うーん、確かに悪い冗談ではあったのだろう。けれども、どこぞの国の教育基本法改正やら防衛庁の省への昇格やらは、同じ悪い冗談でもフィクションじゃないだけに、むしろいっそうタチが悪いように思えるのだけれど……。

ベルギー史というと、ガイドブックや紀行のようなものを除くと、通史としてはジョルジュ=アンリ・デュモン『ベルギー史』(村上直久訳、白水社、クセジュ文庫)くらいしか見あたらない気がするが、これを見ると、フランドルとワロンの対立の構図が浮かび上がるのは意外に遅く、1830年の独立革命後あたりから顕著になってくるのだという。特にフランドル側では、「オランダを想起させるものすべてに対する盲目的な恨み」(p.102)への反発から、復興運動が高まる。それが進むにつれて、ワロン側でも反動が起きる。なるほど、現実に上乗せされる想像的なもの(ルサンチマン)が、運動という形に結実するという典型かも。戦後は立場が逆転し、フランドルのほうが、地理的な立地条件などもあって経済的に発展する。うーん、このあたり、先のカール・シュミットではないけれど、陸に対する海の復讐という感じに見えなくもない。そういう意味では、フランドル独立なんてのも、決してありえないシナリオではないのかも……なんて。

投稿者 Masaki : 12:45

2006年12月14日

「陸と海と」

数ヶ月前に読んだフランコ・カッサーノの『南の思想』で言及されていたカール・シュミットの『陸と海と』("Land und Meer", Klett-Cotta, 1954-2001)を読んでみる。これ、独語版を注文した後で、最近邦訳が復刊になったことを知った。いずれにしても、これは海の勢力圏と陸の勢力圏との争いという構図でもって西欧の歴史を振り返り括り上げるという、空間表象をめぐる政治学。バシュラール的な詩学ではないけれど、これもまた一種の詩的想像力による叙事詩といった感が強い……。カッサーノが指摘していたように、ここにはどこか、大陸の側からの海の勢力圏に対するルサンチマンというか、おぞましいものの抑圧のような視線が感じられる。海(あるいは沿岸部)というのは、やはり奥まった大陸の覇権を脅かす「他者」なのだなあ、と妙に納得する。シュミットは、現代においてはエレメントとしての海と陸との制圧戦は終わり、今度は火(技術)や空気(宇宙)のエレメントが浮上するという「予告」を述べているけれど、事態はそれほど割り切れる形では展開せず、いよいよ複合化したエレメント(四大元素?)が不気味に忍び寄っているかのようだ。カッサーノのいうような、陸と海の中間を行く中庸の姿勢は、いよいよ難しくなっている気がするのだが……。

投稿者 Masaki : 19:55

2006年12月08日

雑感:フランス24

tHerodote.netのニューズレターによると、去る12月5日は、かつてのフランス通貨「フラン」が誕生した記念日。1360年にコンピエーニュで、ジャン2世(善王)が創始した金貨で、トゥールで鋳造されていたリーヴルと同じ価値があったという。ジャン2世はポワチエの戦いの後、捕虜としてロンドンに連行され、その身代金が300万リーヴルとされた。当時のフランスは百年戦争で財政的に荒廃していて、王は自分の娘をミラノ侯爵ヴィスコンティに嫁がせることで、最初の支払いとして40万リーヴルを拠出し、いったん解放された。francという名称はその解放を示唆しているのだという。英仏の争いの中で生まれたフランは、2002年にユーロに置き換わって消滅したわけだけれど、その直前、自国通貨を失うということの重大さをレジス・ドゥブレが指摘していたことが今さらながら思い出される。フランスの国際舞台でのプレゼンスが相当に弱まってしまっている現在、やはりこの自国通貨の喪失は、大きく響いているのかもしれない。ユーロが前面に出た「ヨーロッパ」という文脈では、フランスとて一種の「小国」のようでしかないわけで……。

そんな中、折しもフラン誕生の記念日の翌日、さしあたり報道分野での情報発信力を盛り返そうと、政府主導で発足したニュースチャンネル「FRANCE 24」(www.france24.com)が本格始動した。でも、コンテンツ的には公営チャンネルのニュースレポートの使い回しという感じが強く、いまひとつ魅力に欠けている印象だ。もちろん、まだできたてなので、早計かもしれないけれど。いずれにしても必要になるのは、違う見方を示すための広い意味での「思想」だ。そういうバックボーンがないと、報道の視点も安易なほうへと流れてしまうしかない……。そういう意味では、政府主導だというあたりがちょっと……。

ついでながら、Wikipediaなどにも掲載されているジャン2世の肖像を掲げておこう。これ、ルーヴル美術館所蔵の作者不詳(?)テンベラ画で、1349年ごろのものとか。
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投稿者 Masaki : 19:46

2006年12月05日

「独学の時代」

夏頃以来の積ん読だったうちから、米本昌平『独学の時代』(NTT出版、2002)を読む。いわゆる在野の科学史家による回想録なのだが、いや〜これは痛快。大学紛争の洗礼を真っ向から受けた著者は、権威主義的なアカデミズムの世界に敢然と反旗を振りかざし、大学院に進むこともせずサラリーマン生活をしながら研究をなそうとする。その苦闘の半生を綴ったもの。ルサンチマンも、個人などに向けられるのでなく、より大きな権威(機構)に向けられるなら、ときに生産的になりうるという証左かしらん。大学紛争時代の話というのはもっと語り継がれるべきだという気もするので、その意味でも興味深い証言だし、また、二重生活という「人体実験」(著者本人いわく)の貴重な記録でもある。さらに、著者が若いころからずっと追い続けてきた、生物学における目的論の探求というテーマにも、どこか共感を覚える部分がある。個人的には、アリストテレスの質料因の見直し・再検討という流れが重要と思っているのだけれど、この著者は目的因の問い直しを生物学の文脈で探ってきたという次第だ。ハンス・ドリーシュの生気論を情報論的な観点で読み替える……なんて実に刺激的!「学問研究は人間、最後の最高の道楽ですから、簡単にはやめられるものではありません」(p.204)というセリフ、まさに膝を打つ思い。これぞまさしくotium(あるいはσχολή)の思想。

投稿者 Masaki : 20:35