2007年01月30日

ストア派の問題圏

昨年秋からのジル・ドゥルーズ本のミニ刊行ラッシュ(?)。『アンチ・オイディプス』の新訳、『シネマ2』の刊行に続き、個人的には一番注目だったのが『意味の論理学』(小泉義之訳、河出文庫)。まずは下巻の付録から読み始める(笑)。とくに「ルクレティウスとシミュラクル」では、ストア派と決定的に違う(「原因関係を同じ仕方で割ってはいない」)エピクロスの体系が、いかに流出の理論を導き、シミュラークルの世界を導くかが言及されている。で、ここから翻って上巻を中心に随所に散りばめられたストア派をめぐる話を追っていく……。昨夏のブレイエ本の議論を蹈襲する形で、話は展開する。原因と非物質的結果、そしてその結果から遡及される準・原因ともとの原因との間に断絶がある、と認めると、今度は準・原因が織りなす関係性を問題にしなくてはならなくなる。ストア派はかくして「運命」(まさに準・原因の関係性だ)を肯定するし、占星術を理論的装置とすることになる、と。で、ドゥルーズはまさにその本来の原因と準・原因との差異に注目して、そこからシミュラークルを、肯定的分離を引き出してみせる……とまあ、こういうわけだが、うーん、これはまた実に悩ましい解釈だ。このところ読んでいたアプロディシアスのアレクサンドロス『運命論』が批判していたのは、まさにその「必然から独立した運命」なるものだったわけだけれど(逍遙学派からすれば、必然(微細で周到な因果関係)と自由(因果関係の認識の限定性、外部)との間の中庸こそが真実であって、運命なるものを仮構するのはそもそも無意味なのだ)、このあたりもまた、事物と概念と意味との微妙な割り方という筋立てで読み取っていくこともできるかも、なんて。

投稿者 Masaki : 18:36

2007年01月26日

書物史の確立者

フランスの超有名人、ピエール神父は、まさにその遺産ともいうべき「住居権」の問題がようやく浮上したときに他界した(サンマルタン憲章とその後の動き→「先見日記」の飛幡祐規氏の記事に詳しい)。こういう歴史的符合というものもあるのだなあ、と。けれども個人的には、そのピエール神父の死亡記事が載った1月23日付けルモンドに掲載された、ロジェ・シャルティエが記した一文が印象的だった。書物史の確立者、アンリ=ジャン・マルタンが13日に亡くなっていたのだ。マルタンは1924年生まれ。国立図書館勤務を経て、リュシアン・フェーヴルとの共同作業を通じ、書物史を確立した。図書館勤務時代、禁書棚の猥褻本の目録作成を担当していた(「不幸にも」)というから興味深い。今でこそ書物史も重要な歴史学の一部を成しているけれど、マルタンが書物史を手がけようとしていた当時は、まさに間隙ともいうような分野だったという。晩年は書物史のパースペクティブを拡大し、コミュニケーション史に取り組んでいたのだという。弟子筋も多数いるというし、うん、久々に最近の書物史の動向も調べておきたくなった。

投稿者 Masaki : 22:42

2007年01月22日

博物学的

ユイスマンスの『大伽藍』(1898年作)から第10章と第14章を訳出した『神の植物・神の動物』(野村喜和夫訳、八坂書房)は、神学上の植物・動物の象徴誌の概要としてなかなか見事なもの。ページ上部に散りばめられた図像がまたいい。小説だとはいえ、主人公デュルタルやプロン神父の口を通じて語られる諸説は、19世紀末の教会の知的な雰囲気をも伝えている。たとえば、デュルタルは中世の聖人らの語る動物誌の理解になんとか理論的道筋を立てようとするし、プロン神父は、聖書に出てくるまか不思議な動物誌が、ヘブライ語からの翻訳に際して、もとのなんてことはない単語が歪曲されて伝えられた結果だといった、きわめて実証的な見方を示したりもする。いずれにしてもここには、植物誌・動物誌の列挙にとどまらない、当時の「分類への指向」のようなものが垣間見られる感じだ。

それに関連して、ちょうど、出たばかりの新書、久我勝則『知の分類史』(中公文庫ラクレ)に目を通したところなのだけれど、これ、アリストテレスから近代にいたるまでの、しかも西洋と東洋への目配せもしつつ、分類法や百科事典、図書分類の方法などを列記してみせる(主に目次だけだけれど)というもの。やや荒技な本ながら、テオフラストゥスとかディオスコリデス、ローマのウァロといったかなりマイナーなものや、中世関連でもファラービーの『科学の分類』、バルトロマエウスの『事物の属性について』、ヴァンサン・ド・ボーヴェの『大鏡』などが取り上げられていて、とても面白い作りになっている。意外にこういう分類の仕方を一挙に見せるという本はあまりなかった気がする。もちろん、その分類の力学や精神史といったものに踏み込んではいない(それは新書のレベルを超えるだろうし、同書のような軽妙な記述ではすまなくなるだろうから)けれど、それはこれからの問題設定だろう。うーん、近現代になってから分類が問題として取り上げられなくなったことも含めて、そのあたりを跡づけるというのは壮大な作業かもしれないが、分類の精神史ってやっぱり面白そうだなと改めて思う。

投稿者 Masaki : 23:18

2007年01月20日

チョムスキーとメディア

昨日は、いただきもの(多謝)の券をもって、来月ユーロスペースで公開予定のドキュメンタリー「チョムスキーとメディア--マニュファクチャリング・コンセント」(配給:シグロの試写会へ行く。途中休憩を挟んで3時間弱の長編。主にチョムスキーの講演や対談(テレビなどの映像)を集成・編集したもの。持論の「プロパガンダモデル」を武器に、チョムスキーは映画の多くの部分で喋りまくる。圧巻。細身の体のどこからそれだけのエネルギーがでるのだろうと思うほど。

前半のハイライトは、70年代の東ティモールの虐殺についての米国内記事の少なさが「意図的」だったかどうかをめぐり、チョムスキーと新聞社の代表その他の論陣が繰り広げる丁々発止。実は報道のレベルでアメリカに言論の自由は限定されている、という一般人の誰もが薄々感じてはいることを、様々な事例で説き明かそうとするチョムスキーの姿は、どこか妙にトリックスター的な様相を帯びていく。それが後半では、「言論の自由」と歴史修正主義がらみのスキャンダル(チョムスキーの真摯な姿勢が、歴史修正主義に利用された形だ)にまでいたる。最後はオルタナティブメディアの可能性についての展望で締めくくられる。メディアに構造的に内在している言語弾圧・思想注入の機能についての告発も、市民メディアのネットワークの話も、今やそれほど目新しい話ではないけれど、チョムスキーが語れば語るほど、逆説的に、その啓蒙的なスタンスそのものがどこか骨抜きにされて取り込まれ利用されていく様子が窺えたりもする。そのあたりをも捉えたところが、この映画のある種の成果なのかもしれない。やや穿った見方かもしれないけれど、市民メディアについても、そうしたアンチテーゼ的なメディアの成立そのものに、テーゼとしてのマスメディアがしっかりと根を張っているのではないか、という問題を考えさせられる。依存関係を含めて、すべてが主流メディアの力学の掌の上にあるとしたら、運動の熱自体が削がれたりしないのか、と。まるで自由という概念すら、必ずや(あるいは、そもそも)束縛とセットでしかありえないかのように。それはなんだか悪夢のようなビジョンだ。

映画は「議論の高まりを期待する」みたいな製作者側のメッセージで閉じられるのだけれど、やや皮肉な見方をすると、なんだかこの映画がおそらく副次的に投げかけてしまっているのは、オルタナティブが「オルタナティブ以上のものでない、オルタナティブ以上にはなりえない」ことを自覚したとしたら、あるいはオルタナティブメディアがかえって主流のメディアを強化するように作用してしまうとしたら(その可能性だってないわけではないわけで)、そのとき果たして、そうした運動はどうなるのか、どのように存続できるのか、自由という概念はどうなるのか、それ以外の有効な概念はありえないのか、といったペシミスティックな問いかけかもしれない。

ちなみに、チョムスキーと、映画にも登場するエドワード・ハーマンの共著『マニュファクチャリング・コンセント』の邦訳(中野真紀子訳、トランスビュー)が2巻本で間もなく刊行予定とのこと。この著作のほうも、メディアやプロパガンダの問題へのアプローチの実例として面白そうだ。

投稿者 Masaki : 23:21

2007年01月17日

文庫でプロティノス

どのみち行けなかっただろうけれど、年明けにリュック・ブリッソンなるフランスの学者によるプロティノスに関するセミナーが慶応であったらしい。この人物、どうやら大御所らしく(著作とか読んだことがないもんで……)、フラマリオンのポケット本(GFシリーズ)の新仏訳『エンネアデス』9巻本の翻訳・総指揮を執っている。プラトンなども論じているようだし、そのうち何か読んでみたいところ。それはさておき、これまた見過ごしていたのだけれど、岩波文庫で『善なるもの一なるもの』(田中美知太郎訳)が昨秋復刊になっていた。『エンネアデス』から、表題作(6-9)と「三つの原理的なものについて」(5-2)を訳出したもので、文庫版の初版は1961年。戦前からの古典研究を継承しているだけあって、見事な訳業には舌を巻く思い。一般読者向け、として包括的に記されている解説がまた的確で、解説というもののある種の理想形のようにも思われるほど。『エンネアデス』の構成(ポルピュリオスによる)から、ポルピュリオスなどの伝えるプロティノスのエピソード、政治史がらみの時代的な背景、大きな視点からの思想的な影響関係、思想の革新性などが要領よくまとめられている。いや〜岩波の復刊ものはなかなかいいっすね。今後にも期待。

投稿者 Masaki : 23:40

2007年01月11日

Pas très catholique ?

ワルシャワの大司教に使命された聖職者(スタニスラフ・ウィーグルス)が、かつて共産党の秘密警察のスパイだったという過去を取り沙汰されて辞任することになった話(7日)は、その後、今度はクラクフ(ポーランド南部)にまで飛び火し、同地の聖堂参事会員がやはり同じ廉で辞任している(9日)。ポーランドのようなカトリック大国(国民の9割とかいう)においても、高位聖職者の過去という問題は、もはや避けて通れなくなった、とか、法王庁の威信にも大きな打撃、などと報じられているけれど、なんだかこの一件は、悔悛の概念とか、法王などの無謬性の建前など、教会の根幹に関わる概念そのものを大きく揺さぶっている感じだ。現法王はトラブル続きだが、それにしてもカトリックの威信に微妙な影が差している感じは否めない。

ちょうど時を同じくして、フランスではカトリック信者が国民の51パーセントにまで落ち込んだという報道がなされた(10日付けルモンド)。94年の調査では67パーセントだったというから、12年ほどで17パーセントの急落ということになる。まあ、調査方法(項目)が若干変わったというような言い訳もなされているけれど(笑)。この傾向はおそらくこれからも続いていくように思えるし、「信仰」もまたなんらかの岐路に立たされていることは間違いなさそうだ。ちなみに、このアーティクルの表題、「Pas très catholique」は、信用できん、疑わしいなどの意味の話し言葉。このタイトルの映画もあったっけね。

投稿者 Masaki : 16:19

2007年01月08日

貨幣と芸術

これまたちょっと積ん読だったマーク・シェル『芸術と貨幣』(小澤博訳、みすず書房)に眼を通す。神を中心とする宗教の制度(ないし神学)と貨幣を中心とする資本経済の体制との相同性は、いろいろなところで言われているけれど、両者がもろにぶつかり合う局面に切り込んでいく論考というのはあまりない。で、この書は、少なくとも広義の芸術表象(文化表象といってもいいけれど)が、実はそういう局面をなしているかもしれないということを、様々な事例をもとに明らかにしている。その点でとても稀なもの。全体は大きく二部に分かれるが、特に前半の、初期キリスト教の表象と貨幣の表象の重なり・せめぎ合いの部分が個人的にはとても面白い。

たとえば、先の論集『剣と愛と』のエルチェの聖母被昇天劇の論考に紹介されていたのだけれど、その劇のクライマックスでは、黄金の雨(紙吹雪)が聖母に降り注ぐという。これをアルケオロジー的に遡るなら、黄金の雨となってダナエを身ごもらせるゼウスということになる。シェルの本によれば、これが地口(or→aura→oreille)を介して、神の精子が耳からマリアに入ったという伝説ができあがる(p.31)。そしてこの神の精子という発想は、絵画の表象の中で金貨へとすり替わっていく。ここにはさらに、硬貨とキリストという類比性が絡んでくるのだという(p.36)。ホスティアのパンの代わりとしての硬貨、聖包皮という聖遺物の増殖と硬貨の増殖との類比。後光から絵画の金の縁取りへの横滑りなど、シェルが挙げていく事例の数々からは、キリスト教の様々な表象が貨幣の表象に取り込まれ、一種浸食されていく様子が浮かび上がる。同書で幾度か言及される、マルク・ブロックの貨幣史あたりにも目を通してみたいところ。

同書の表紙を飾るのは、16世紀初頭に活躍したフランドル画家、クィンティン・マセイス(同書の表記ではメツェイス)の有名な「両替商とその妻」(ルーヴル美術館所蔵)。これは風刺画なのだそうで、シェルによれば、宗教的領域と世俗的領域の区分(「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返せ」)に異議を唱えているのだという(p.152)。天秤のモチーフが、描かれた天秤だけでなく、男女の釣り合い、天秤と本など、天秤の三角形で構成されていて、しかもその妻の視線は貨幣ののった天秤と神聖な本との間で揺れ動いている……(p.153)というわけで、図像学的にも実に豊かな一枚。

Massys1.jpg

投稿者 Masaki : 23:40

2007年01月05日

パースの宇宙論

昨年秋に出ていて注目していた伊藤邦武『パースの宇宙論』(岩波書店)をやっと通読する。パースの宇宙論の全体像を、そのテーマを扱った論文から再構成するという労作・力作。『連続性の哲学』がそうだったように、パースはとても晦渋だったけれど、同書は実にみごとに切りさばいてまとめ上げている感じだ。印象としては、なるほどパースの宇宙開闢論は、新プラトン主義の伝統のうちに息づいていた内容を、より近代的な数学理論と結びつけたものなんだなあ、と。偶然が法則性へと移行するプロセスの理論的考察こそきわめて近代的ながら、柱となる部分は、まさに中世以来の伝統の延長線上に位置している。最後の4章では、パースが普遍論争の議論を、ある意味蒸し返したことが示されていて興味深い。で、パースはスコトゥス流の「実在論」の立場に立ち、「縮減」概念(クザーヌスが「神の自己自身への引きこもり」と称したものだという)を通じた、イデア世界から現実世界の誕生を考えていたのだという(p.209)。西欧の知の歴史、というか、むしろそれを織りなす個々人の思想が、いかに息の長い体系の伝達の上にあるのかを、あらためて考えさせられる。

投稿者 Masaki : 23:23

2007年01月02日

シモンドンの小編

謹賀新年。今年の年越し本(笑)は、ジルベール・シモンドンの講義再録本、『動物と人間についての二つの講義』("Deux leçons sur l'animal et l'homme", Ellipses, 2004)。シモンドンは最近、以前は分冊で出ていた博士論文が合本で出たり、別の大分な講義録も出版されていたりして、再び注目されるところ。で、これは100ページに満たない小著で、動物と人間の間に断絶を見るという西欧の哲学的スタンスを、古代ギリシアから近世まで、駆け足で、とはいえ手際よくまとめてみせている。動物と人間の本格的な区分を最初に導いたのはソクラテスで、それをプラトンが精緻化するも、アリストテレスがそれを機能論を持ち出すことで連続性として捉え直したのだ、というのが前半のハイライト。その対立軸は後に、それぞれアウグスティヌスとトマス、あるいはデカルト(とその継承者たち)とボシュエ、ラ・フォンテーヌなどによって継承されていく、というのが後半。アリストテレスやラ・フォンテーヌに大きな部分を割いているところがなかなかに印象的だ。連続性と差異のダイナミズムを捉えようとするシモンドン流の個体化理論の残照がそこかしこに感じられる。なかなかの味わい。

投稿者 Masaki : 22:50