2008年08月08日

ハルモニア・ムンディ

ハルモニア・ムンディと言っても今回は古楽レーベルではない(笑)。久々に音楽学系の論集を読む。『ハルモニア・ムンディ--古代から中世の世俗音楽と天球の音楽』("Harmonia mundi - Musica mondana e musica celeste fra Antiquità e Medioevo", a cura di Marta Cristiani e al., Sismel - Edizioni del Galluzzo, 2007)。伊語と仏語の論文集で、タイトル通り、古代(とくに古代末期)の思弁的な音楽論から中世の実践的な音楽論までをカバーしている。でも、研究対象の文献とかは意外に狭く、冒頭をかざる編者の一人マルタ・クリスティアーニの包括的な論考が大枠を語っている感じ。全体として扱われているのは、古代末期ならアウグスティヌス、マクロビウス、さらにそれとの絡みで「ティマイオス」、カルキディウス、ボエティウス、中世ならマルティアヌス・カベラ、サン=ヴィクトルのフーゴー、さらにビンゲンのヒルデガルト、グイド・ダレッツォなどなど、おなじみの名前が並んでいる。うーん、個人的には新しい文献の掘り起こしとか、そういう方面の進展を期待していたのだけれど、そういうのはあまりなくてちょっと残念。音楽学も最前線はあまり伝わってこないだけに、一応貴重な論集という気はするのだけれど……。思弁的な天球の音楽、あるいはアニマ・ムンディなどの考え方がアリストテレス思想をベースに否定されていく13世紀以降、いよいよもって「現世」化していく音楽理論の軌跡を追うみたいな、なんかそういうのとかないっすかね?

話は変わるけれど、京都大学学術出版会が出している西洋古典叢書で少し前に出た、アリストクセノスとプトレマイオスのハルモニア論が読める『古代音楽論集』(山本建郎訳)を購入してみた。こういうのが邦訳で読めるのはとっても嬉しい。まだパラパラと眺めているだけだけれど、とっても面白そう。

投稿者 Masaki : 20:53

2008年07月11日

挿絵と本文の齟齬

再び『マルコ・ポーロと世界の発見』から。『東方見聞録』は当時の写本に漏れず、翻訳や筆写を繰り返すうちに、かなりもとのテキストから逸脱したものが出てきているのだという。フランチェスコ・ピピノなる聖職者によるラテン語訳からして、かなりの歪曲がなされているらしく、さらにそのゲール語訳(なんてのまであるんですねえ)などはトンデモ訳になっているらしい(笑)(同、p.182)。また、挿絵もそうした逸脱を助長しているのだそうで、大カーンがマルコに贈った「黄金牌符」なるものは、実際は金色の銘板なのに、現物を知らなかった挿絵画家は金色の大きな卓を描いているというし、本文にはない東洋の怪異な人々の図(当時の東洋関連の著作にあったようなもの)を描いたりもしている(p.184)。うーん、この挿絵と本文の齟齬というのはとても面白い問題ではないかなと、改めて思う。そのうち時代的に追ってみたいところ。

余談1:そういう問題系を探っていくと、おそらく現代の視聴覚文化でのテキストと画像ないし映像との関係などにも考察を広げることができたりするはず。たとえば去年くらいの映画『ベオウルフ』とかね(いや〜、なかなかぶっ飛んだ映画だったけれど)。もとはイギリスの叙事詩だけれど、それにしてもこの映像化された怪物グレンデルってどうなんだろか、と(原作本は岩波文庫版が入手しやすいし読みやすい)思ったりするのだけれど、いずれにしてもファンタジー的な造形の根は、結構古い時代にまで遡れそうな気がする。

余談2:前に言った話の繰り返しだけれど、西欧人が考えるファンタジーのダークな部分って、われわれが抱くファンタジー感よりもはるかにどす黒く、また「怖い」。スペイン映画の『パンズ・ラビリンス』(少し前にビデオで観たのだけれど、フランコ政権の恐怖と、少女の幻想が交差するなかなかの秀作だ)なんかでも、禁を破るシーンで怪物が追ってくるあたり、結構鬼気迫るものがあったりする。ちょうどついさっきまで『ゲド戦記』のジブリアニメを放映していたけれど、これなどまさにファンタジーの温度差みたいなものをよく体現している気がする。まずもってドラゴンの吐く息はむちゃ臭い、というのがやはり基本でしょう(笑)。

投稿者 Masaki : 23:41

2008年07月09日

「世界の発見」?

ジョン・ラーナー『マルコ・ポーロと世界の発見』(野崎嘉信ほか訳、法政大学出版局)を途中まで。『東方見聞録』(il milione)について、その記述内容や成立にまつわる従来の諸説を批判しつつ、それを当時の画期的な地理書だったとして再評価しようとする本。この諸説の批判部分がとても面白い。マルコの共同執筆者となるルスティケッロにはアーサー王伝説の散文物語の著書もあるため、ともすれば『東方見聞録』もそうした物語形式の枠のもとで成立したフィクションのような扱いを受けることもある、というわけだけれど、現存する写本の数々を比較しても、そうした冒険譚的な要素、荒唐無稽な部分というのはおどろくほど少ないといい、おそらくはマルコが持ち帰った資料をベースに、フランコ・イタリアン(フランス語訛りのイタリア語)で原著書(失われているというが)が書かれ、それは旅行記ですらなく、通商の記録でもなく、むしろまだTO図のような限定的な世界観から抜け出ていない当時の人々に、新たな世界像を示すための「地理書」として企図された可能性が高い、というのがメインストリーム。そして重要な点として、マルコが東方に向けるまなざしには、そうした人々を異質性のもとに他者として捉えるような(オリエンタリズムですな)偏向はほぼ見られない、と著者は主張する。

うん、確かに『東方見聞録』は、とても淡々と記述が進んでいくような印象がある(東洋文庫版(愛宕松男訳、平凡社)を引っ張りだして見てみたら、イタリアの集成本の英訳がベースになっている)。何かこの、そうした印象から出発して、様々な側面から検証し直し、議論として練り上げたのが同書、という感じではある。後半は『東方見聞録』の受容の問題を取り上げるようなので、そちらも楽しみ。

同書のカバー絵は法政大学が所蔵しているファクシミリ版からの一ページ。ネットでは、別のページだけれど、Wikimedia Commonsにある。下にも再録しておこう。

il_milione1.jpg

投稿者 Masaki : 23:46