2004年08月30日

ビウエラ講習会

昨年に続き、今年もビウエラ講習会を覗いてみる(昨日)。今回は音楽学者の小川伊作氏によるレクチャーが2本。一つは16世紀の印刷譜によるレパートリーの分類。これによって総数約900曲のうち3分の1が宗教曲だという話。うーん、他の楽器のレパートリーとの比較がないため、これだけで多いか少ないかが分からないのだけれど(笑)、小川氏はこれをスペインの宗教統一(正確には15世紀末のカスティリアとアラゴンのカトリック両王のころ)との関連で、ビウエラが教会に認知(リュートは排除)された可能性があるのでは、という話だった。オルガンミサがあるように、ビウエラミサがあったかも、ということで、イエズス会経由で楽器が日本に伝わった可能性も高いのだという。そういえば、最近読んだ概説書『音楽史第3巻:後期中世、アルス・ノヴァ、ルネサンス』(Eduardo Grau, "Historia de la Musica tomo III 1300/1550", Riccordi Americana, 1978)(ちなみにこれ、平坦なスペイン語で書かれていて、語学教材としてもなかなか(笑))にビウエラの章があって、ルネサンス期のスペインの宮廷でとりわけ重んじられたと記されている。

もう一つのレクチャーはそれら宗教曲レパートリーの一つ、ナルバエスの『栄光の聖母(O gloriosa Domina)」の楽曲分析。ドミニコ会の聖歌(「おらしょ」の形で隠れキリシタンにも伝わっているという)の旋律が、ナルバエスによってどうアレンジされているかを見ていくという興味深いもので(音楽大学とかでならよくやるものだろうけれど)、その過程でナルバエスがどんな革新的なことをやっているかとかが明らかになるという仕掛けだ。中世以来の古い形式(2度上昇と2度下降の組み合わせなど)と、近代的な機能和声(4度上昇、5度下降など)の併存や、ドリア旋法の崩しなどなど。スペイン黄金時代の豊かな文化的風土の中でこそ実現しえた革新性、という話でまとめられていた。このナルバエス『栄光の聖母』を含むCDを、師匠・水戸茂雄氏が近々リリースするということなので、大いに期待したい。

投稿者 Masaki : 12:16

2004年08月28日

カンタータの森

このところ忙しくてCD鑑賞の余裕もなかったのだけれど、ようやく一息。そんんわけで、少し前に購入してあったCDブック、磯山雅『バッハ・カンタータの森を歩む・1』(東京書籍)を眺めつつCDを聴く。マリアの3祝日用に書かれたカンタータの鑑賞を深めるためのをいわば紙上レクチャーという感じで、なかなかの好企画。こういうのって意外に類書がない気がする。ちょっと残念なのは付属CDは紹介されていた全曲ではなかったこと。演奏はバッハ・コンチェルティーノ大阪というアンサンブルで、アメリカの音楽学者が提唱するソリスト編成方式(各パート1人)を取り入れているのだという。この方式、前に『ヨハネ受難曲』なんかで試みてられていたけれど、なるほどカンタータには特にもフィットするかも。収録曲は有名どころの147番のほか、82番、125番。この後者二つは、ともに第1曲の曲想と歌詞の落差が興味深い(喜びに満ちあふれるという歌詞に、嘆きの表現が与えられている)。解説では、それがカンタータを魂のドラマとして構成し直し、ふくらみをもたせるための戦略で、現世の悲哀を回顧するものとして解釈されるのだという。バッハが凄いのは、やっぱりその劇的なものへの指向性にあるというわけか。

82番と125番は「マリアの清めの祝日」(2月2日)のためのカンタータ。関連する絵画として、レンブラントの弟子アールト・デ・ヘルデル(Aert de Gelder)の『神殿奉献』。シメオン老人による賛美の場面を描いている。
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投稿者 Masaki : 23:08

2004年08月16日

シャルパンティエの宗教曲

旧盆のこの時期というのは、本来は死者のことを思い、翻って生者が生活を自己反省する、というが本来のあり方なのだろうが、この慌ただしい世の流れにあって、そういう機会は本当に希薄化していることをあたらめて思う……。うーん、いかんなあ。なんてことを思ったのは、シャルパンティエを聞いたからか?『最後の審判』(Pan Classics 10 175)。シャルパンティエの宗教曲を集めた一枚で、まさにこれは内省の音楽。演奏はアンサンブル・ウィリアム・バード、グラハム・オレイリー指揮。シャルパンティエの宗教曲は華麗なだけでなく、どこか深みに潜っていく感じがあってとても優れていると思うのだが、このライナーにも、個人の「内面の舞台化」というイエズス会的な概念が、17世紀の美学の中核をなしているという話が載っている。なるほどシャルパンティエは、イエズス会のコレージュの教会で音楽監督を務めたりもしているんだねえ。表題作の「Extremum Dei judicium」の劇的な華麗さ、多彩さが印象的。

カバーに使われているのはベルガモの聖マリア・マッジョーレ聖堂にある象眼細工で、16世紀前半に活躍した画家ロレンツォ・ロットによる「サムソンの両親の犠牲」。ロットはかなり多作だったようだが、ここではやはりベルガモにある「玉座のマリアと聖人たち」を。ちょうど15日は聖母マリアの被昇天の祝日。フランスでは、ローマ法王がルルドを訪問したニュースが大きく取り上げられている。

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投稿者 Masaki : 11:52

2004年08月09日

セイシャス再び

ちょっと前に触れたカルロス・セイシャスの曲を別の録音を聴いてみる。『ハープシコード・コンチェルト、シンフォニア、ソナタ』(7243 5 45114 2 4)がそれ。演奏はノルウェー・バロック・オーケストラ。チェンバロと指揮はシェティル・ハウグサン(Ketilってノルウェー語だとシェティルになるのかしら?未確認)。題名通り、コンチェルト、シンフォニア、チェンバロ・ソナタで構成した一枚。全体的に軽妙で粋な感じの演奏が続く。とりわけ最初のコンチェルトは妙に耳に馴染む感じ。使用しているチェンバロは修復された1758年製のもの(リスボンの音楽博物館所蔵)だそうだ。速いパッセージでの高音の連なりとかが、こういう暑い時にはわずかながら爽涼感を与えてくれる気がする……。夏にチェンバロを聴くのっていいかもね。

投稿者 Masaki : 12:23

2004年08月04日

巨匠……

仏音楽雑誌『Classica』6月号のアルノンクールのインタビュー。これを見る限り、どうもアルノンクールは、ある種の古楽レパートリー開拓者だった過去を否定しようとしている感じがしなくもない。バルトリが出したサリエリの新録についても、盤自体の出来はよいといいながら、「全方位的で過剰な『再発見』の典型例だ」と手厳しい。ライバルのモーツァルトや弟子のシューベルトを知っているのに、なぜあえてサリエリを演奏するのかとか、バッハのカンタータが傑作だからといって、その同時代の(他の作曲家の)カンタータすべてを演奏すべきなのかとか……。近現代へのシフトにともない、なんだか定番レパートリーに特化してきている感じだ。これが「巨匠」になっていったことの代償あのかしら。けれどもその定番レパートリーはどうなんだろうかなあ。話題盤だったSACDハイブリッドの新録、モーツァルト『レクイエム』は(SACDで聴いているわけではないせいか?)個人的にはなんだか今ひとつ物足りない。溜めを打っているわけでもないだろうに、どこか冗長な感じを受ける……。

先月半ばに亡くなったカルロス・クライバーはレパートリーを限定していたことで有名だけど、年配の人にとっては本当に一時代を画した人だったのだそうで。これまた話題盤のベートーヴェン『交響曲第6番(田園)』も、83年当時にこういう演奏をするってのはたぶんなかったのだろうけれど、古楽系のテンポの速い演奏が普通になった今では、これまたなんだかとても「普通」に聴ける。けれども妙な溜めも無駄な冗長性もない感じで、とても溌剌としたキビキビした演奏が心地よさを与えてくれる。

投稿者 Masaki : 13:06