2005年02月28日

ファルケンハーゲンのソナタ

個人的に習っているのはルネサンス・リュートだが、バロック・リュートもそのうちにと思うのがやはり人情というもの(笑)。当然ヴァイスとか弾けるようになりたいものだが、ファルケンハーゲンなんかも面白そうだ。そんなわkで、アルベルト・クリュニョーラの演奏によるファルケンハーゲンの『リュート・ソロのソナタ 作品集第1巻』(Symphonia)を聴く。ものによっては「こんなに遅くていいの」と思わせるほど全体的にゆっくりめのテンポで、強弱をはっきり付けた演奏。そのせいか、なんだか妙に陰影がくっきりと出たような印象で、バロック絵画的を見ているような味わいの一枚になっている。ライナーはファルケンハーゲンの略歴やこの第1集の聞き所しか書かれておらず、演奏しているクリュニョーラについては詳しいことが不明なのだけれど、ちょっと昔のギターっぽさがある。これもまた一種の回帰的現象なのだろうか。ま、それはともかく。

ライナーによると、ファルケンハーゲンは1697年生まれ(ライプチヒ近郊)のドイツのリューテニストで、ヴァイスにも師事したことあるといい、バッハの「組曲ト短調」(BWV995)をタブラチュラに起こしたりしている。最終的にはバイロイトの宮廷で職を得ることになった。この作品集は13コースリュートの広い低音域を駆使することを前提にしているというけれど、この13コースの楽器は作品集の刊行当時(1740年ごろ)、せいぜい20年程度しか歴史のない比較的若い楽器だったという。あれあれ、そうだっけか?ちょっとこのあたりの記述の信憑性は……17世紀の終わりぐらいには13コースリュートはあったんじゃなかったっけ?うーん、後で検証せねば。

投稿者 Masaki : 14:52

2005年02月23日

メーソンミュージック

久々にモーツァルトもの。と言っても古楽器演奏ものではない。1966年録音のペーター・マーク(モーツァルトのスペシャリストとして有名になった指揮者だ)&ウィーン・フォルクスオーパー合唱団・オーケストラの『メーソンミュージック全曲』(VoxBox2)。時系列にそって曲を並べた2枚組。1枚目の最後に収録されている「フリーメーソンのための葬送音楽」あたりをお目当てに購入したのだけれど、モーツァルト15歳の作品とかいう1枚目の最初『詩篇129番』の、なんとも凛としたその曲想にいきなり打たれる感じ(笑)。詩篇129番は「深き淵より」。詩篇を取り上げた音楽の通観として貴重な寺本まり子『詩篇の音楽』(音楽之友社)(129番は取り上げていないけれど)によると、当時の典礼音楽は特に盛儀晩課としての役割が大きかったのだそうで、しかも徐々に規模が縮小していく傾向にあったのだという。モーツァルトによる完全な形の晩課は1779年と1780年の2曲しかないとのこと。確かに宗教曲自体がそんなに数は多くないからなあ。けれども、このCDの2枚目に収録されたモテット「アヴェ・ヴェルム・コルプス」などの構成美といったら……昔の演奏の味わいはそれはそれでまた格別だ。

投稿者 Masaki : 23:43

2005年02月20日

時代と耳

フランスのメディア学(媒介学)の雑誌『カイエ・ド・メディオロジー』18号が、ようやく音楽を特集した。題して「音楽の産業革命」。文化の伝達に関する学を標榜するわりに、今まで音楽について取り上げてこなかったのは少し妙だったけれど、あるいはこれ、先に触れたバレンボイムの対談本『音楽と社会』でサイードが語っていた状況の反映なのかもしれない。サイードは、西洋における音楽が特殊な教育を必要とするために、「絵画や写真や演劇や舞踏などをよく知っている人たちも、音楽についてはそんなに簡単に語ることはできない」(p.31)として、そうした偏りを「音楽をめぐる一種のアパルトヘイトが存在しており、それは現代に特有のものだ(…)」(p.176)と語っている。これはすこぶる興味深い視点で、本来は『カイエ…』のような雑誌にそういう部分を探ってもらいたかったくらいだが、残念ながら同誌の論考はそういう問題にはあまり立ち入っていない……。

とはいえ、この特集号には一編だけ古楽を扱った論考が掲載されていた。音楽学者ジョエル=マリー・フーケと、バッハ論などもある社会学者アントワーヌ・エニオンによる、「『ステレオ』のバロック」だ。ここで言う「ステレオ」は立体と機器とをかけていて、1974年にリリースされたラモーのオペラ『優雅なインドの国々』の二つの録音をめぐる論考になっている。ジャン=クロード・マルゴワールの録音(CBS)とジャン=フランソワ・パイヤールの録音(Erato)は当時、いわば従来型の「古典派的解釈」と、バロック音楽への「古楽的アプローチの先駆的解釈」との間で、ある種の新旧論争の様相を呈したのだという。曲の扱いも、CBS側が現存する各種の版からセレクトして再構成したのに対し、Eratoは完全版を標榜していた。ジャケットの絵もそれぞれの個性を反映しているし、批評家の好みも真っ二つだったという。ところが、と筆者らは付け加える。当時はそれほどにかけ離れてたとされる録音が、今聴き直してみると、それら同士の違いよりも、昨今の録音とそれらの差異の方が大きく感じられるというのだ。なるほど、筆者らが言うように、音楽の解釈や演奏もまた時代の申し子なのであり、好みの形成が、場所、時代、聞き手の構え方や参照系など、音楽そのもの以外に大きく左右されることは間違いない。そしてそういうものが、「記録された」音楽の背後に隠されてしまうことが問題なのだ。うん、こうしてみると、やはり古楽復興の動きから最近の浸透ぶりまでも、歴史的事象として見直さないといけないなあと改めて思う。そういうう問題も含めて、この日記(ほとんど週記だけれど)も、単なる鑑賞記録から、もう少し「古楽」というものについての考察をめぐらす方向にシフトしていきたい気がしている……。

投稿者 Masaki : 22:58

2005年02月13日

ピアノのバッハ

12日にコルボ指揮の「マタイ」があったようだったのだけれど、これには行けず、代わりってわけでもないのだけれど、今日はバレンボイムによるバッハ「平均律クラヴィーア曲集」1巻の演奏会に。古楽演奏が盛んな昨今、逆にピアノでの曲集まるごと演奏というのは珍しくなってしまった気がするけれど(そのため、チラシの宣伝文句では、バッハのこれは「旧約聖書」に喩えられていた(笑))、ピアノにはやはりピアノの表現力というものがあるのは当然。かつてバッハが「荘厳」「重厚」などと言われていたのには、やはりそうしたピアノでの演奏の影響が大きかったため。だからこそ、復元されたチェンバロで聴くバッハの軽妙さは、古楽が流行りだした当時は斬新だったのだろう。でも今や状況は逆転して後者が当たり前になってしまい、むしろこういうピアノでの剛球が新鮮に響いたりもする、と。個人的にはチェンバロの音の方が好みだけれど、確かにこれほどの音の強さのメリハリを出すのはチェンバロでは難しい。「巨匠」の演奏は、とりわけ聞かせどころで実に濃厚に響いていた。少し前に、エドワード・サイードとの対談本『音楽と社会』(中野真紀子訳、みすず書房)を読んだのだけれど、そこでバレンボイムは、「偉大な芸術作品はみな、二つの顔をもっている」と語っている。「一つはそれが属する時代への顔、もう一つは永遠に向けての顔」。引き合いに出されているのはモーツァルトだけれど、この後者を発見するという気持ちで演奏しなければならないという言は、まさに今回の演奏でも生きていた感じだ。

それにしても前半、曲間で拍手をする客がいたのもちょっとびっくり。しかも感極まって思わず拍手した、というのではなく(最初はそうだったのかもしれないけれど)、確信犯的に繰り返すもんだから、周囲からの叱責もあり、休憩時間には「曲間で拍手しないでください」とのアナウンスが流れた(笑)。聴衆にも集中できなかった人も結構いたはず。よくテレビなどで、演奏家が「好きなところで拍手して構わないんですよ」なんて言ったりするけれど、これほど無責任な発言もない。それが回り回って、こういうちょっと残念なことを招いたりもするのだから……。

投稿者 Masaki : 23:54

2005年02月10日

エクスタシーの歌

久々にヒルデガルトもの。セクエンツィアの演奏による版ではなぜか今まで欠けていた『エクスタシーの歌』(BMG)。94年の録音のこの版は今では定番の観もあるよね。一部フィドルやハープの伴奏が入っているところが面白かったり。全体的にハイ・ヴォイスが独特な旋律に見事に「はまって」いて、しかも残響がこれまたうまく尾を引き、「異世界的な恍惚感というはこういうものかも」という感覚を引き出してくれる。うーん、それにしても『歌集』("Lieder", Otto Muller Verlag)などを見ていると、「Scivias」なんかももとのラテン語で読んでみたくなってしまう。オリジナルテクストはなかなか手に入らないようだけれど……。

ジャケット絵は、これまたヒルデガルトの写本の挿絵から、「真の三位、真の一体」といわれる一枚。
wahre-dreiheit.jpg

投稿者 Masaki : 23:21