2006年04月27日

ホピィ再来日

昨日は再び来日したホプキンソン・スミスのリサイタル。今回はリュートではなく、ビウエラだ。なんだかこのところ、ビウエラの株が上がってきている感じがする。前回の来日でダウランドを聴いた時にも感じたけれど、ホプキンソン・スミスのパフォーマンスにはどこか大陸的な感性が色濃く出ている気がする。そして今回、ビウエラ演奏はまさにそれにマッチし、持ち味を生かしたなんとも渋いものになっていた。ビウエラ演奏は時に、楽器が若いのかあまり響きがよくないこともあるけれど、今回のスミスが使った楽器は豊かにこなれている感じ。指板上を移動する際の擦れる音が、なんだか楽器そのものの呼吸のように響いたり(笑)。ルイス・ミラン、ダ・ミラノ、ナルバエス、ムダーラなど、それぞれの作曲家の特徴を際だたせる演奏がとても興味深い(ダ・ミラノなどの対位法の妙は、個人的にもとても参考になる)。アンコールはアテニャンとダウランド。

そんなわけで演奏会そのものは見事だったのだけれど、演奏終了後、主催者(元NHKの朝バロの人)が出てきて長々と自主企画の宣伝をしたのはちょっとゲンナリ。聴衆の余韻を壊すのはやめてほしい。そういうのは開演前にすればよいこと。どうして古楽関係者にはこういうちょっと「イタい」人が多いかねえ。

気分を取り直して、ちょっとビウエラ・ダ・マーノの図像を。これは有名なやつ。ボローニャで活躍したマルカントニオ・ライモンディの16世紀初頭の版画。「ビウエラ・ダ・マーノを弾くジョヴァンニ・フィロテオ・アキリーニ」というタイトルがついているそうだ。師匠だったフランチェスコ・フランチアの絵画(失われている)がオリジナルなのだという。
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投稿者 Masaki : 13:32

2006年04月22日

コンヴィチュニー!

昨日は二期会によるモーツァルト『皇帝ティトの慈悲』公演に。いや〜忙しいこの時期、無理押して行ってよかった。モーツァルト・イヤーならではの企画はそれだけでも拍手ものだけれど(『ティト』は他に比べてあまり上演されないもんね)、なんといってもこの公演の一番の主役は演出。コンヴィチュニー最高!序曲から仕掛けをぶっ放し、騒乱のクライマックス(?)からカーテンコールにいたるまで、「演劇的」なおもしろさに満ちた舞台は痛快。笑いどころ満載だ。『ティト』の話って、こんなに笑えるものじゃないだろうにねえ。歌はまあ、人によってイタ語がなんだかカナ音読みっぽかったりとか(やっぱりとくに堅口蓋破擦音とか弱いよなあ)いろいろ課題もあった感じだけれど、もう今回は演出に引っ張られてノッて演じている感じが。観ているほうもだけれど、演じているほうも楽しいだろうなあ。こういう演劇的要素を盛り込んで盛り上げるっていうのは、一つの方向性なんだろうなあと。ならば国内でも、野田秀樹とか、また演出に呼んできてほしいところ。

そういえば、史実としての皇帝ティトゥスは、皇帝になる以前は(ユダヤ人の反乱を制圧し、エルサレムを占拠したりしている)ずいぶんど残虐・無慈悲な人物だったそうな。その後ヴェスビオ火山の噴火とか疫病とかの対応で、2年ちょっとの在位だったにもかかわらず、死後にその寛大さが評価されていったのだそうで、いわば「神話化」のプロセスがそこに働いていたのは確実。コロセウムの完成もこの人の代。そのあたりを前提として見ると、コンヴィチュニーの舞台は、史実的な背景要素をデフォルメしつつ随所に取り込んでいたことがわかる。うーん、なるほどね。

ティトゥスの横顔の挿絵を、参考までに。
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投稿者 Masaki : 07:15

2006年04月14日

[書籍] ドン・ジョバンニ

モーツァルトのオペラ『ドン・ジョバンニ』をめぐるキルケゴールの論を抜粋した『ドン・ジョバンニ−−音楽的エロスについて』(浅井真男訳、白水Uブックス)を読む。『あれか、これか』という1843年の評論(?)から、第一第二章を再録したものだという。白水社の全集からの抜粋で、少し訳文の「こなれなさ」が時代を感じさせたり(邦訳の全集の『あれか、これか』は1963年刊)。なかなかタイムリーなモーツァルト・イヤーの企画本という感じ。内容は19世紀的な印象批評の極北という感じ。その底に流れるのは、理性的なものと感性的なものとのせめぎ合い。音楽が「感性的なもの」の側に立ち、「思想的なもの」に対立、あまつさえそれを追い払うものだとし、『ドン・ジョバンニ』が秀逸なのは、そうした感性的なものを、音楽も主人公もともに体現しているからだ、というスタンスで話が展開する。対象をめぐる思索の中に深く深く潜っていくところが実に印象的だ。うーん、個人的には中世からあるというドン・ファンの伝説の系譜をちゃんと知りたいと思うのだけれどね。岡田暁夫氏による解説によると、キルケゴールが聴いたであろう『ドン・ジョバンニ』は、最後の六重唱がカットされ、闇と光の二元論的・悲劇的な面を強調した上演だったろうという。糾弾される対象としてのドン・ジョヴァンニ像が優性だった当時、感覚的・エロス的なドン・ジョバンニを肯定的に描き出したというのはとても画期的なことだったのだそうだ。

投稿者 Masaki : 23:31

2006年04月09日

デュオ

その名も『デュオ』(HMI 987063)というアルバムを聴く。リュート奏者ルカ・ピアンカとガンバ奏者ヴィットリオ・ギエルミによる競演。なんだか怜悧なたたずまいの演奏で、なかなかに渋い。合奏ものとして実に決まっている感じがし、アルバム全体が両者の「対位法」(ってこれは比喩だけれど)を奏でているようで……(ガンバのメロディとリュートの通奏低音の組み合わせもそうなのだけれど、それぞれのソロがまた合奏から飛び出したかのような勢い)全体としてよくまとまった一枚(だと思う)。曲はバロック衰退期となる18世紀のドイツもの。ヨハン・シェンク、C.P.E.バッハ、カール・フリードリヒ・アベルなど。ヘンデルの『アルチーナ』の有名なアリア、グルック『オルフェオとエウリディーチェ』のアリアなどのリュートソロ、モーツァルト『魔笛』のアリアのガンバソロなども入っていて(これらのアレンジ譜、なんだかサービストラックのようだけれど(笑))、それらもまた楽しめる。

投稿者 Masaki : 23:23

2006年04月02日

ビーバーの復活ミサ

アンドリュー・マンゼ指揮、イングリッシュ・コンサート演奏によるビーバー『キリスト復活ミサ』(HMU 907397)を聴く。いやーこれは実に華やいだ演奏だなあ、と。春のこの時期にはとてもよいかもね(?)。トランペットの高らかな響きがとても味わい深く、器楽曲(ソナタ部分)を交えたミサ曲の全体のトーンをさらに押し上げている感じさえする。ライナーによれば、この曲は1674年のイースターにザルツブルク聖堂で演奏されるために書かれたものではないかとのこと。トランペットは大司教の高貴さを表すエンブレムだったのだそうで、ミサのために聖堂に入場する際など、トランペットの合奏曲が流れたのだそうな。

投稿者 Masaki : 23:03