「環世界センス」なるもの

自然を名づける―なぜ生物分類では直感と科学が衝突するのかこれまた夏読書本ということで、キャロル・キサク・ヨーン『自然を名づける―なぜ生物分類では直感と科学が衝突するのか』(野中香方子、三中信宏訳、NTT出版)を読む。リンネ以後に生物の分類学がたどった道を後付けながら、それがいかに一般人の「分類」感覚から離れていったかを示す、科学ジャーナリズムの良書。生物の分類が体系化されるのはリンネを待たなくてはならないとされるけれど、それでもなおリンネまでは、ある意味主観的な「目に見える形質」が分類のベースとされていた。著者はそれを支えているのが、人間が先天的にもつ知覚能力によって知覚され秩序づけられた世界観であり、同書ではそれを「環世界センス」と称している。リンネ以降、科学としての分類学はさながらそうした環世界センスからの学知の離脱を押し進めてきたのだという。まずはダーウィン以後の進化分類学、次いで数量分類学、分子分類学ときて、進化の議論を先鋭化した分岐学がとどめをさす。かくして「魚類」なるものは学問的な区分からは消滅してしまったのだ、と……。

およそ学問的営為は、所与のデータから問題の最適解を見つけることをよしとする。だからそれはときに一般通念的な概念からひどく隔たってしまうこともある。たとえば語源一つとってみても、学問的な裏付けのない民間語源などがあり、それがときに一人歩きしたりもする。一方で、最適解もまた変化しうる。所与のデータが変われば、あるいは最適解を見つけるアルゴリズムが異なれば、当然変わっていくだろう。なにも理数系だけの話ではない。たとえば文献学的な世界などでも、当然そういうことが起こりうる。同書でメインストリームとして描かれる生物の分類は、そうした最適解をめぐる論争史という様相を呈するわけだけれど、同書で描かれる学術的な分類というものは、つきつめればデータとメソッドを組み込んだ網の目、外部の実体からはおよそ独立した網の目を、(連続体的に成立しているかもしれない)その外部の実体にかけることを信条とする営為であるかのようだ。そのデータおよびそのメソッドにおける最適解であることが、その解の正当性をなす。こうしてみると、なるほどそれはきわめて唯名論的だ(ふと、もしかしてこういう視座をつきつめれば、やがて個体すらなんらかの恣意的な切り出しの結果だということになり、個体すら認めないということになっていったりしないのだろうか……なんてことを夢想したりもする。超唯名論の成立?安っぽいSFみたいだけれど(笑))。著者によれば、「魚類」を葬るような議論はあくまで学問的な世界での先鋭化の話。生物の分類学が粉砕してきたその「環世界センス」は、生物としての生存に欠かせない装置であって、確かに学問的な分類の現場からは姿を消したとされるものの、それなしにはとうてい日常生活を営むことはできないとされる。そんなわけで、逆にその環世界センスそのものがとても興味深いものに思えてくる。で、環世界センスそのものに肉迫する同書の五章〜七章は、なかなか示唆的であるとともにどこかものたりなさも感じられる。このあたり、より哲学的(分析哲学系?)なアプローチが求められる気がする。それはもしかして実在論寄りの(極端な唯名論・概念論ではないという意味での)議論を導いたりしないだろうか、という期待もないわけではない。