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『世界終末戦争』

今年のGWは、おもにバルガス=リョサの『世界終末戦争』(旦啓介訳、上下巻、岩波文庫、2025)を読んで過ごしました。すごくインパクトのあるタイトルですが、SFとかではなく、19世紀末のブラジルで起きた、小さな村とその周囲を舞台とする内戦を描いた作品です。実際にあった事件(カヌードスの乱)をもとにしているのだとか。群像劇として多視点で描かれるのですが、これがなんとも興味深い。
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突如現れた宗教指導者のもとに、村人たちが集まり始め、それが一つのキリスト教系コミュニティを作っていきます。一方、成立して間もない共和制を仕切っていた軍は、国の支配を逃れるかのようなそのコミュニティを王党派とみなし、難癖をつけ、制圧に向けて動き出します。地元の地主たちも基本的にそれに従うものの、彼らの配下にあった私兵(ジャグンソ)や、地域の盗賊たち(カンガセイロ)はコミュニティ側につき、そのため軍は容易には制圧できなくなり、次第に大掛かりな部隊を投入していきます。結果、双方に多数の犠牲者が出ることになってしまいます。

戦争に至る経緯、戦争が始まってからの混乱、戦火の中で右往左往する人々などなど、どの描写もある意味、とても生々しかったりします。共和派の記者が軍に同行するのですが、途中からその人物と、行動をともにする農園の下働きの女性、さらにその女性が一時的に身を寄せた旅芸人らのうちの小人が、話の中心をなしていきます。後半では、生き延びたその記者が後に農園主のところにいって内戦について語るのですが、ここで自由間接話法が用いられ、回想の記述からいきなり臨場感あふれる場面へと転じるあたり、とても映像的な処理になっていたりします。

攻撃を受ける宗教コミュニティの側からすれば、共和国軍の猛攻はまさに最終戦争の様相を呈するものだったでしょう。圧倒的な武力の差にもかかわらず、ベトコンのようなゲリラ戦で持って、共和国軍をしぶとく、複数回退けたジャグンソやカンガセイロの物語なども、今現在続いているウクライナや中東に重なって見えてもきます。

ゆるい関係性のネットワーク

相変わらず、ちびちび読んでいるエピクテトスの『語録』。第四巻の第一章は、自由についての議論でした。

エピクテトスの考える自由とは基本的に、意志に反した「強制・妨げ」のない状態のことを言うとされます。強制されたり妨げられたりするのは、奴隷の状態なのだ、というわけですね。奴隷ではない状態とはつまり、自分のもとにないものに執着をもたないことを言うのだ、と説明されます。自分のもとにない、とは、自分が実際に持っているか持っていないかに関係なく、自分の制御下にないものを言う、と。ちょっと極論的でもありますが、自身の身体、四肢、財産なども、「自分のもとにはない」ものだとされます。

したがって自由にいたる道とは、事物への執着を捨てること、自分のもとにないものへのこだわりを絶とうとすることにほかなりません。僭主によって不本意なことを強要されたとしても、おいそれと従ってはならず、自身の道徳的な志向性(それは神々から与えられた内的なものであり、自分のもとにある唯一無二のものとされています)にのみ忠実であれ、ほかのあらゆる執着(権力への嗜好や財産の希求などなど)から自由であれ、とエピクテトスは説いています。

逆のここから推察されるのは、自分のもとにないものに対しては、とてもゆるい関係性を結ぶのでよしとすべし、という実践的テーゼかもしれません。対象に固着しない、固執しない。それでいてゆるく連帯しつつ、必要があれば対象を活用できるようにする。自分の身体すらをも、そのようなものとして認識する。なんだか、ここで描き出されるゆるい関係性の世界観・世界像は、今風に解釈するところの、ラトゥールなどが提唱してきたアクターネットワーク理論などを、どこか思わせる気がします。そういう観点から見直すと、エピクテトスもまた、従来の人生訓としての読みとはまた違ったふうに見えてきそうで、改めてとても興味深いですね。

やっと観られた『アブラハム渓谷』

フローベールの『ボヴァリー夫人』をポルトガルを舞台に翻案した小説を、マヌエル・デ・オリヴェイラ監督(当時84歳とか)が1993年に映画化した『アブラハム渓谷』。前から観たいと思っていた作品でしたが、ついに目にすることができました!
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もとより、特集上映くらいでしか上映される機会がなかったレアな作品ですが、2025年に4Kリマスターでの上映(ほかにオリヴェイラ作品4本も)がありました。残念ながらそちらには行けなかったのですが、そのうち配信でやるのでは、と期待していました。で、これがu-nextに入ったほか、3月ごろにCSチャンネルの「ザ・シネマ」での放送もありました。

いや〜これ、噂に聞いていた以上に面白かったですね。3時間を超える作品ですが(リマスターされたのは昔の上映版に15分ほど追加された完全版とのこと)、長さをまるで感じさせません。あっという間に思えます。主人公のエマ(ボヴァリー夫人と同じです)を、若い頃とその後で2人の女優が演じているのですが、どちらもその「強烈さ」(若い頃の馬鹿笑いのシーン、長じてからの立ち振舞いの存在感などなど)でもって、観る側をぐいぐい引っ張っていくという風です。

対比を基調とした色彩設定もまたいいですね。多少、老人の美学みたいなところもありますが、ちゃんと主筋に沿って、画面で描かれるものの意味合いを支えている感じが見事です。使われている楽曲もそう。欲情的なシーンで流れるドビュッシー「月の光」から、死の予感に彩られる終盤のベートーベン「月光」へ。ルナティックなエロス、という感じなのでしょうか?

面白いのは、エマが生きるその作品世界内には、ちゃんとフローベールの『ボヴァリー夫人』が存在していて、若い頃のエマがそれを読んでいたり、エマ本人が周囲に「ボヴァリー」呼ばわりされたりしていることです。「君は男なんだよ」なんてとある男性から言われるエマは、「私はボヴァリーでもないし、フローベールでもない」なんて反論しています。メタレベルが地のレベルに貫入しているかのようで、作品構造がわずかばかり複合化している印象です。

加速主義の概説書を読む

個人的にまったくノーマークだった、加速主義についての本を読んでみました。『加速主義――増補新版 ニック・ランドと新反動主義』(木澤佐登志、星海社新書、2025)です。加速主義、これまでは聞きかじった程度で、資本主義を突き詰めていくことでその内破を狙う思想、くらいにしか(んでもって、それは無理でしょ、くらいにしか)思っていませんでしたが、その思想圏の広がりとか着想元とか、いろいろ興味深い記述があって面白かったですね。
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加速主義は基本的に左派系の極端な思想なのかと誤解していましたが、それは一つの分派に過ぎず、新自由主義と結びついた右派系の別の分派もある(というかそっちが主流)というのが、最初に驚いた点でした。というわけで、前半の主役の一人は、ペイパルなどの創設者ピーター・ティールだったりします。保守派一筋という感じのこの人物、意外にも若いころはルネ・ジラールの模倣理論などに心酔していた、なんて話が続いています。

次にページを割いて長々と紹介されるのが、加速主義の代名詞的な存在でもあったニック・ランド。こちらもバタイユ論とかがあったりして、初期のころはフランス系の思想を着想源の一つにしていたようなのですが、その後は白人中心を掲げるオルタナ右翼との関係性を深めていくのだとか。

そもそも加速主義そのものが、ドゥルーズ=ガタリやリオタール、ボードリヤールなどを着想源としているといい、それらを保守的な運動に移し替え、取り込むかたちで展開していったという話なのですが、自由主義を突き詰めていく果てに描き出されるのは、「無人称的な機械状プロセス」「器官なき身体を目指す死の欲動」でしかないといい、どこか荒涼たるディストピアが広がっていく感じにしか思えません(「思弁的実在論」の面々も、そうした動きとシンクロするものとして言及されています)。

そんなわけで、同書ではそらら右派系の運動を本流という感じで描いていくのですが、一方には左派系の加速主義というのもあって、その代表的理論家としてマーク・フィッシャーが挙げられたりしています。とはいえ、ランドらと立ち上げたという学生グループCCRU(サイバネティクス文化研究ユニット)なども、いつしかかつてのヒッピー文化を移し替えたような、激しくもどこか空疎なトリップ体験みたいなビジョンでしかなくなってしまうみたいで、なにやらとても痛々しい印象です。

同書は、ランド的加速主義を「大学院生の病」と総括したベンジャミン・ノイズの言葉を引用し、さらにそれは「内実のない空虚なミーム」にすぎないかもしれないとしています。一方で、その根底には未来が失われている、という共通認識(左派・右派に関係なく)があるわけなのですが、同書はその認識をも超えて、その先を展望しなくてはならないと強く訴えています。加速主義は、普通に考えられているような、資本主義のもろもろの要素を加速させることなのではなく、「資本主義がみずからを維持するためにどうしても妨害せざるを得ない「脱階層化のプロセス」をこそ加速させる」ものだと高らかに述べています。

おお〜、これは慧眼です。一本取られた気分です。フィッシャーが説くのもまさにそうした「水平主義」なのだとか。ヒエラルキーが生じる場面で、つねにヒエラルキーを消去しようと努力すること。加速主義の可能性の中心はそこにある、というわけなのですね。

遠いところに来た感じの哲学的風景

これは刺激的な一冊。マルクス・ガブリエルとグレアム・プリーストが、「全体」(世界)や「無」の存在をめぐり丁々発止のやり取りを展開する『全てと無ーー世界の存在をめぐる哲学』(山口尚訳、ちくま新書、2025)。新書サイズを大きく逸脱する感じの内容量ですね。ちょっと読みにくい部分もありますが、なかなかの読み応えです。
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ガブリエルのテーゼ「世界は存在しない」を受けての批判的検証をプリーストが担い、それにまたガブリエル側が反論する、という感じで展開していきます。ガブリエルのテーゼは、あらゆる事物は特定の「意味の場」に現れる(写像として指される)ことで存在すると言うもので、すると「世界」(つまり全体)と称される全体は、そうした特定の意味の場には現れえないので、存在しえないことになる、というものですね。これに対してプリーストは、各々の対象のメレオロジー和としての全体はありうる、という立場です。

これってすごく大雑把には、形式論理学vs現象学という感じでもあるのですが、内実はそう単純でもないようです。当初はまったく相容れないかのような両者の立場ですが、論考と対談のやり取りが進んでいき、相手が繰り出す例証や比喩の検討などを重ねていくに連れ、それぞれが必ずしも語ってない前提やら議論展開やらが明らかになって行きます。興味深いことに、「無」に関する議論にいたると、まるで両者の立場が一部入れ替わるかのように見えなくもない場面も出てきたりします。

プリーストは、「無」は「ない」ということだけれども、無について語るときには「無」という対象がありうるとします。ないけどある、ということで、そこには矛盾的真理がある、というのですね。対象としての無というのは、無から区別されることで任意の対象は定立されるのだから、その場合の無は、任意の対象の根拠として、それ自体が一つの対象でありうるといいます。それは相対的な無なのだ、と。これに対してガブリエルは、「ない」とされる無を絶対的な無とし、これに対応するような対象は存在しえない、したがって無は意味をもたない、無とは無意味である、と断じます。

さらに、二人が反論しあうそんな議論がいたる先には、すべては空であるというインド哲学、あるいは、あらゆる事物は一種のネットワークを織りなすという華厳哲学などが見えてきたりします(ガブリエルがそう語り、プリーストが同意したりとか)。ある種の神秘主義?でも、これもまた、同書の一つの肝になっています気がします。

二人の議論を挟む形で、関東と巻末にラウレアノ・ラロンの序論と、グレゴリー・モスの総括が掲載されています。これらも実に興味深い論点をさらい直して、二人の立場の違いや一致点を、また別の角度から明確にしてくれています。総じて同書は、現代の哲学が形式論理や現象学的な深化を通じて至った一つの限界点・臨界点を、いろいろな角度から垣間見させてくれています。20世紀後半(80年代とか)からでさえ、ずいぶん遠くにまで来た印象を与える哲学の風景、といったところでしょうか。