クラテュロス(後半メモ)

Cratylus. Parmenides. Greater Hippias. Lesser Hippias (Loeb Classical Library)少し遅くなってしまったが、クラテュロスの後半についてのメモ。それまで長く続いてきたヘルモゲネスとの対話の後で、ソクラテスは今度はクラテュロスと向き合う。ものごとの名前が慣習にもとづくとするヘルモゲネスに対して、クラテュロスは名前はなんらかの自然本性に結びついていると考えている。ソクラテスも前者に向き合う際には、後者のような議論を展開しているように見え、最終的にはギリシア語の音の一つ一つ(音素)が、基本単位として、なんらかの抽象的な意味をミメーシス的に担う、という話にもなる。「ρ(ロー)」が速い動きを表すとか、「ι(イオタ)」が細やかさを表すとか……。ところがクラテュロスに対すると、今度はすでに何度か示されているような言葉の不純さの議論(「当代語はいずれも外国語などに影響されて不完全な状態になっている」という指摘など)をもとに、クラテュロスの言う、言葉が本性を表すというテーゼに反論していく。絵画がミメーシスとして、余計なものをつけたり削除したりするのと同様に、言葉も本性を正確には模写しないこと、数には似た名前がつけられないこと、また学びの観点からすれば、名前から本性を知ろうとするよりも、事物そのものから知ろうとするほうがよいことなどが、主な論点として示される。こうして対話はいつもながらの唐突さで終了する。

この後半部分についての論考は邦語のものも多少あるようで、ネット上で探しても何編か見つかる。たとえば、クラテュロスについてのモノグラフとして、田中あや『「名前の正しさ」と名指しの本性的正しさ ――プラトン『クラテュロス』研究――』(慶応義塾大学、博論、2016)(PDFはこちらという博論が公開されている。内容を細かく分けて検討した労作のようだけれど、長大なのでまだきっちり読めておらず、今は取り上げないでおく。ここではさしあたり、中澤務「プラトンの『クラテュロス』における「名前の正しさ」」(『哲学』第44巻、1994, pp.166-175)を見ておこう。この論文は、ソクラテスが相手にしているヘルモゲネスとクラテュロスには、ともに名前のかたちと事物との関係を名前の正しさだと見なして、名前の使用について誤った考えをもっているという共通点があるといい、ソクラテスが批判するのはまさにその「名前の使用についての誤り」なのだと喝破する。クラテュロスとの対話部分に関しては、とりわけクラテュロスの唱える「虚偽不可能論」が問題だとされる。ソクラテスが名前を音素にまで分解するのは、クラテュロスの説の本質を明らかにするためであり、その本質とは、名前に含まれる情報こそが唯一重要で、それは間違い得ないとされるということだ。けれどもソクラテスは、名前に含まれる情報以外にも事物との関係性(結びつき)がありうるとして、これを批判している。その別様の関係性とは、まさに名前の使用における実際的な結びつきであり、名前はものの理解(事物の本質についての学び)を経なければ、コミュニケーションへと開かれていかない。ソクラテスはそう考えている、というのが主要論点。個人的には、このクラテュロスに対するソクラテスの論究が、コミュニケーションそのものの問いを俎上に乗せているとまでは(一見するかぎり)実感が沸いてこないようにも思えるのだが……。このあたり、解釈の余地が広くあることは確かだろう。