2004年12月20日

No.47

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
silva speculationis       思索の森
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
<ヨーロッパ中世探訪のための小窓>
no.47 2004/12/18

------新刊情報--------------------------------
早いもので、もう年末年始直前です。正月はゆっくりと本でも眺めていたいです
ね。というわけで最近の新刊情報から。

○『中世びとの万華鏡−−ヨーロッパ中世の心象世界』
キャロリー・エリクソン著、武内 信一ほか訳、新評論
?3,990、ISBN:4-7948-0647-7

「幻視的想像力(Visionary Imagination)の視点から論じた中世びとの世界」
と紹介文にはあります。例えば中世的世界観へのアプローチはいろいろあります
が、少なくとも一般書としては幻視まで視野に収めた視覚文化論というのは案外
珍しいと想います。どういうアプローチを取っているのか、ちょっと見てみたい
ですね。

○『モン・サン・ミシェルとシャルトル』(叢書・ウニベルシタス 808)
ヘンリー・アダムズ著、野島秀勝訳、法政大学出版局
?7,560、ISBN:4-588-00808-0

これは面白そうです。フランス北部のモン・サン・ミッシェルと、同じく有名な
シャルトルの大聖堂の類比だけでも興味深いのに、さらに中世盛期の思想や文
学、精神風土にまで話が及ぶらしいのです。著者はアメリカ合衆国大統領に連な
る家系から出た歴史家なのだそうで、原書は1904年に私家版として、仲間内に
配られたものなのだとか。それが一世紀の時を経て、こうして日本において邦訳
で読まれるなんて、それだけでもなんだか信じがたいような話です。ぜひ手に
取ってみたいと思います。

さて、奇しくも同じ時期に、アッシジのフランチェスコ関連本が2つ出ていま
す。こうなると、フランシスコ会の歴史をまとめたような本も出てほしいところ
ですね。

○『アッシジのフランチェスコ−−ひとりの人間の生涯』
キアーラ・フルゴーニ著、三森のぞみ訳、白水社
?2,730、ISBN:4-560-02602-5

こちらはイタリアの中世史家による評伝。人間としてのフランチェスコの実像を
描いた作品とのことです。紹介文によると、フランスの大家ジャック・ル・ゴフ
が絶賛しています。

○『アッシジのフランチェスコ(Century Books 人と思想 184)』
川下勝著、清水書院
?893、ISBN:4-389-41184-5

こちらは日本の神学者による評伝。聖人の生涯と思索の軌跡を追った一冊のよう
です。キリスト教とイスラム教の対立という時代背景や、その平和の模索といっ
た思想的な面なども取り上げているようです。上の書籍もそうですが、ここにも
新しいフランチェスコ像が描かれていそうです。


------ミニ書評--------------------------------
○『「ただ一人」生きる思想』
八木雄二著、ちくま新書
?680、ISBN:4-480-06203-3

副題に「ヨーロッパ思想の源流から」とあるように、個の思想の源泉を中世思想
にまで遡って捉え直そうという一冊です。中心となるのは、この著者の直接の研
究対象であるドゥンス・スコトゥスですが、前半は「個」をめぐる思想の流れを
俯瞰し、後半は中世のペルソナ概念を検討してスコトゥスの独自の思想にまで筆
を進めるという、その見事な整理の手腕が冴えわたっている一冊です。

特に興味深いのは、現代社会、それもこの日本において、個の思想を再考するこ
との重要性、そしてそのための手続きとして中世哲学がもつ潜在的な重要性で
す。本書で示唆されるそうした重要性からは、思想的営為の醍醐味そのものすら
読みとれるかもしれません。この極東の地で、時代的にも地理的にもかけ離れた
西欧の中世の思想を捉えようとすることの意義が、あらためて感じられます。そ
うした時代的・地理的な距離感と、まったく異なる文化背景があるからこそ見え
てくるものもあるのだ、というわけです。

例えば三位一体は、同書の話で言うと、三つのペルソナの関係性が、それぞれ実
体として現れるという背理(実体かつ関係というのは論理的にはありえない)を
抱え込んでいるのですが、東洋的知性はそれほど抵抗なく受け入れられるのでは
ないかと著者は指摘しています。そこには主語のあいまいな日本語の論理構造が
絡んでいるのだ、という話は多少議論の分かれるところかもしれませんが、いず
れにしても、文化的な差異は、ある種の理解可能性が開かれてくる契機になるか
もしれないのですね。現代日本において問われている、個をめぐる急務の問題
(同書は、今やヨーロッパ文明の席巻を前に「個の思想を精神のなかに彫塑でき
る思想が必要になっている」と語っています)にどう取り組むかを、スコトゥス
など西欧の源泉の方へと遡って掴み取ってくるというのは、実に有意義で奥深い
営みになるだろうと思われます。


------文献講読シリーズ-----------------------
ダンテ「帝政論」その12

今回は12章の途中までを見ていきます。ここでは自由について論じています。

               # # # # # #
XII. 1. Et humanum genus potissime liberum optime se habet. Hoc erit
manifestum, si principium pateat libertatis.
2. Propter quod sciendum quod principium primum nostre libertatis est
libertas arbitrii, quam multi habent in ore, in intellectu vero pauci. Veniunt
nanque usque ad hoc: ut dicant liberum arbitrium esse liberum de voluntate
iudicium. Et verum dicunt; sed importatum per verba longe est ab eis,
quemadmodum tota die logici nostri faciunt de quibusdam propositionibus,
que ad exemplum logicalibus interseruntur; puta de hac: 'triangulus habet
tres duobus rectis equales'.

12章
1. 人類は最大限の自由を手にする場合に最良となる。自由の原理を明らかにす
るなら、このことは明らかだ。
2. それには、私たちの自由の第一の原則が判断の自由にあることを知らなくて
はならない。口では盛んに言われても、なかなか理解されない自由だ。人は時
に、判断の自由とは判断する意思の自由であると述べたりもする。それは正しい
言い方だが、その言葉が意味するところは彼らの考えよりもはるかに長大だ。論
理学者たちが日がな一日、例えば「三角形の三つの角は、直角二つ分に等しい」
といった任意の命題について考え、論理学的事例に付加しているように。

3. Et ideo dico quod iudicium medium est apprehensionis et appetitus: nam
primo res apprehenditur, deinde apprehensa bona vel mala iudicatur, et
ultimo iudicans prosequitur sive fugit.
4. Si ergo iudicium moveat omnino appetitum et nullo modo preveniatur ab
eo, liberum est; si vero ab appetitu quocunque modo proveniente iudicium
moveatur, liberum esse non potest, quia non a se, sed ab alio captivum
trahitur.
5. Et hinc est quod bruta iudicium liberum habere non possunt, quia eorum
iudicia semper ab appetitu preveniuntur. Et hinc etiam patere potest quod
substantie intellectuales, quarum sunt inmutabiles voluntates, necnon
anime separate bene hinc abeuntes, libertatem arbitrii ob inmutabilitatem
voluntatis non amictunt, sed perfectissime atque potissime hoc retinent.

3. ゆえに、私に言わせれば、判断は理解と欲望の中間をなしているのだ。まず
は事物が理解され、次にその理解が正しいか間違っているかが判断され、最後に
判断にもとづき、受け入れられるか斥けられるかするのである。
4. したがって、判断が欲望をすべて統率し、いかなる形でも欲望による逸脱を
被らないなら、その者は自由である。だが欲望が頭をもたげ、それによって判断
がなんらかの形で乱されるなら、その者は自由であることはできない。なぜなら
みずから動くのではなく、他のものによって捉えられて引きずられるからだ。
5. これゆえに、動物は判断の自由をもつことができないのだ。動物の判断はし
ばしば欲望による逸脱を被るからだ。またそのことから、次のことも明示でき
る。不動の意思をもつ知的実体(天使)、あるいは幸福な形でこの世を去る分離
した魂は、意思が不動であるからといって判断の自由を手放したりはせず、むし
ろ完全かつ最大限、それを保持するのである。

6. Hoc viso, iterum manifestum esse potest quod hec libertas sive
principium hoc totius nostre libertatis est maximum donum humane nature
a Deo collatum—sicut in Paradiso Comedie iam dixi—quia per ipsum hic
felicitamur ut homines, per ipsum alibi felicitamur ut dii.
7. Quod si ita est, quis erit qui humanum genus optime se habere non dicat,
cum potissime hoc principio possit uti?
8. Sed existens sub Monarcha est potissime liberum. Propter quod sciendum
quod illud est liberum quod "sui met et non alterius gratia est", ut
Phylosopho placet in hiis que De simpliciter ente. Nam illud quod est alterius
gratia necessitatur ab illo cuius gratia est, sicut via necessitatur a termino.

6. 以上のことから、次のことも再び明らかにできる。すなわち、この自由、こ
の私たちの自由すべての原理は、神から人間の本性に与えられた最大の贈り物−
−私がかつて『神曲』で述べたように−−なのである。私たちはこの世ではみず
から人間として幸福を覚え、あの世では神として幸福を覚えるからだ。
7. 仮にそうであるならば、そうした原理を最大限活用できる時に人類は最も善
くあるのだということを、誰が否定できろうだろう?
8.ところで、君主の下にあるということは、最大限の自由を意味する。これにつ
いては、哲学者(アリストテレス)が「単純に存在するものについて」で示した
ように、「他のためではなく、おのれのためにのみある」ことが自由なのだとい
うことも知らなくてはならない。他のためにあるものは、その当の目的によって
必要とされるのである。目的地のために道が必要とされるように。
               # # # # # #

ちょっと切り方が悪く、結論部分は次回に持ち越しになってしまいました。ご容
赦ください。まずは注釈的に見ていくと、6節で言及される、自由を神からの贈
り物として示した『神曲』の一節というのは、「天国編」の第5歌、19から22
行目、「創造に際して神がその寛大さからもたらした最大の贈り物、その善性に
最もよく合致し、最も尊重される贈り物は、意思の自由だったのです」とベアト
リーチェが語る部分です。8節のアリストテレスの言及は、『形而上学』1巻2
章、982b 25行の、「だがわれわれが、人間は自由であり、他のためではなく
自分のためにあると言うように、それ(哲学的探求)もまた学知のうちで唯一自
由なのである」という部分を指しています。

ここでも再び欲望が判断の対立概念として出され、さらには自由にも対立するも
のとされています。欲望の制御が中世にあってどれほどの憂慮の対象だったか改
めて想わせてくれますね。こうした禁欲的立場は、キケロによって中世にまで伝
えられたストア派の伝統に負うところが大きいと思われます。その一方で、ダン
テの言う自由(判断の自由)は、自制的・自律的であると同時に、モナド的な考
え方でもあるようです。なんだかこれ、生きた時代が多少前後して重なるドゥン
ス・スコトゥスの自由の考え方に近い気がします。

上の「ミニ書評」で取り上げた『「ただ一人」生きる思想』でも、そうした考え
方が簡潔に紹介されています。なんだかミニ書評の続きのようで恐縮ですが、同
書に即してまとめておくと、スコトゥスにおいては、個人の自律した内面世界を
個人の独自性、すなわちペルソナ(精神の「顔」)と見なしていて、それ以前の
考え方、ミクロコスモスとマクロコスモスが照応するだけの考え方に対して、そ
うした独自性を打ち出した点が革新的とされたりします。このスコトゥス流の自
由の考え方を、ダンテが直接知っていたのかどうかはわかりません。『神曲』に
はトマス・アクィナスは登場しても、スコトゥスは見当たらないようですし。と
はいえ、同時代的な照応というものが仮にあるのだとすれば、スコトゥスとその
すぐ後の世代になるダンテが、通底するところのある思想を抱いていたのだとし
ても、それほど不思議ではないように思えます(それにしても『神曲』におい
て、自由についての訓示を垂れるのがベアトリーチェだというところもとても興
味深いですね。そのあたりの話は脱線になってしまいそうですが、そういう脱線
も悪くないので、追々考えてみることにしましょう)。

さて、年内はここまでです。次回は年明けとなりますが、引き続き12章の残り
部分を読んでいきたいと思います。来年もどうぞよろしくお願いいたします。そ
れでは、よいお年をお迎えください。


*本マガジンは隔週の発行ですが、年末年始はお休みし、次回は年明け01月08
日の予定です。
------------------------------------------------
(C) Medieviste.org(M.Shimazaki)
http://www.medieviste.org/
------------------------------------------------

投稿者 Masaki : 23:13

2004年12月06日

No.46

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
silva speculationis       思索の森
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
<ヨーロッパ中世探訪のための小窓>
no.46 2004/12/04

------イベント訪問記-------------------------
「フィレンツェ−−芸術都市の誕生展」

東京都美術館で開かれているフィレンツェ展を覗いてきました。ルネサンスの発
祥の地というイメージが強いフィレンツェですが、それ以前の中世において、す
でに商業的・工業的に大きな発展を遂げた町でもあります。ちょうど今、下の
「文献講読シリーズ」で読んでいるダンテにもゆかりの町ですね。実際、展示会
場に入ってすぐに眼に飛び込んでくるのは、15世紀初頭に描かれた絵画「『神
曲』の詩人ダンテ」です。さらには14世紀半ばごろにボッカチオが筆写したと
される『神曲』の写本が展示されています。そしてフィオリーノ金貨。14世紀
初頭をピークに空前の経済発展を遂げたというフィレンツェを偲ばせます。

ルネサンス以前から初期にかけての絵画の面白さは本展でも存分に味わえます。
「カッソーネ断片」として展示されている装飾用の板絵(カッソーネは衣装ケー
スのこと)は、建物に対して人物がかなり大きいために、町の騒々しさがいっそ
うヴィヴィッドに強調されるという仕掛けです。匿名による「アンドロメダの救
出」「ユピテルの供儀」といった絵は、おなじみの同一平面に複数の場面を描き
込む手法により、まさに連画を見る思いです。「アディマーリ家のカッソーネ」
も祝宴の場面がパノラマのようで見事です。どれも躍動感溢れる表現形式で、当
時の表現文化の水準が改めて窺えます。絵画・彫刻が主体ではありますが、時お
り写本や印刷本が混じっているのがアクセントを添えています。写本はページを
開いての展示ですが、そうすると他のページが見られないのが残念なところです
ね。15世紀末の初期印刷本として出ていたホメーロスの作品集は、冒頭のピエ
ロ・デ・メディチの見事な肖像画のページが開かれているのですが、できれば複
製か写真でギリシア語のページもサンプルを展示してほしいところです。このほ
か興味深い写本としては、15世紀末の算術教本、同じ時代のウェルギリウスの
写本、輸出入関税台帳、さらにはアヴィケンナの『医学典範』などもありまし
た。

展示は全体として大変見応えのあるものになっています。展示総数は120点ほど
ですが、もっと多くあるような印象を受けます。それはもしかすると、都市、絵
画、彫刻、金工、建築と居住文化、織物、医学・科学というテーマ別の展示
(おっと、音楽がありませんね。音楽は当時の重要な文化的要素ですから、これ
は本来あってしかるべきですが……)で、当時の文化を立体的に浮かび上がらせ
ようとしているからでしょうか。東京での展示は12月19日まで、その後年明け
の1月29日からは京都に移り(京都市美術館)、4月10日までの開催となるよう
です。


------文献講読シリーズ-----------------------
ダンテ「帝政論」その11

今回は11章の残りの部分です。前回のところでダンテは、正義はその反対物が
少ないほど輝きを増すといい、その反対物の最たるものとして欲望(強欲)を挙
げていました。ここでは最大限の正義を体現するのは君主、というテーゼが述べ
られていきます。

               # # # # # #
12. Sed Monarcha non habet quod possit optare: sua nanque iurisdictio
terminatur Occeano solum: quod non contingit principibus aliis, quorum
principatus ad alios terminantur, ut puta regis Castelle ad illum qui regis
Aragonum. Ex quo sequitur quod Monarcha sincerissimum inter mortales
iustitie possit esse subiectum.
13. Preterea, quemadmodum cupiditas habitualem iustitiam quodammodo,
quantumcunque pauca, obnubilat, sic karitas seu recta dilectio illam acuit
atque dilucidat. Cui ergo maxime recta dilectio inesse potest, potissimum
locum in illo potest habere iustitia; huiusmodi est Monarcha: ergo, eo
existente, iustitia potissima est vel esse potest.

12. だが、君主には欲望を抱くような対象がない。その権限の及ぶ範囲が制限さ
れるのは海洋によってのみである。このことは他の諸侯らには当てはまらない。
彼らの領土は他の者の領土によって限定される。例えばカスティリア王の領土が
アラゴン王の領土に接しているように。以上のことから、死すべきもの(人間)
の中にあって、君主は正義に対する最も誠実な臣下でありうるのだ。
13. さらに欲望は、いかなるものであろうと、いかに少なかろうとも、なんらか
の形で通常の正義を曇らせる。カリタス、つまり正しき慈愛が、正義を研ぎ澄ま
させ明晰にするのと同様だ。ゆえに正しい慈愛を最大限もちうる者ならば、正義
が占める場所も最大限になりうる。これぞまさに君主なのである。つまり君主が
いれば、正義は最大限となるか、あるいはなりうるのである。

14. Quod autem recta dilectio faciat quod dictum est, hinc haberi potest:
cupiditas nanque, perseitate hominum spreta, querit alia; karitas vero,
spretis aliis omnibus, querit Deum et hominem, et per consequens bonum
hominis. Cumque inter alia bona hominis potissimum sit in pace vivere—ut
supra dicebatur—et hoc operetur maxime atque potissime iustitia, karitas
maxime iustitiam vigorabit et potior potius.
15. Et quod Monarche maxime hominum recta dilectio inesse debeat, patet
sic: omne diligibile tanto magis diligitur quanto propinquius est diligenti; sed
homines propinquius Monarche sunt quam aliis principibus: ergo ab eo
maxime diliguntur vel diligi debent. Prima manifesta est, si natura
passivorum et activorum consideretur; secunda per hoc apparet: quia
principibus aliis homines non appropinquant nisi in parte, Monarche vero
secundum totum.
16. Et rursus: principibus aliis appropinquant per Monarcham et non e
converso; et sic per prius et immediate Monarche inest cura de omnibus,
aliis autem principibus per Monarcham, eo quod cura ipsorum a cura illa
supprema descendit.

14. 上に述べたような慈愛が何をもたらすかについては、次のことが示せるだろ
う。欲望は人間というもの存在を軽視し、他のものを求める。慈愛は、他のすべ
てを軽視してまで、神と人間とを求め、結果として人間の善を求めるのだ。人間
にとっての善のうち、至上のものは平和に生きること−−上に述べたように−−
であり、それは正義によってこそ最大かつ最良の形で実現する。慈愛は正義を、
その大きさに応じていっそう活気づけるのである。
15. 最大の人格として、君主に慈愛が宿るはずなのは次のことからも明らかだ。
愛されうるすべてのものは、愛するものに近ければ近いほどいっそう大きな慈愛
を得る。人間は他の諸侯よりも君主に近い。よって君主によってこそ、最大の慈
愛が得られるか、もしくは得られるはずである。受動的・能動的な事物の性質を
考えてみれば、大前提は明らかである。小前提は次のことによって明示される。
つまり、人間は他の諸侯には部分的にしか近くないが、君主には全体として接近
するのである。
16. さらにまた、人々が他の諸侯に接近するのは君主を通じてであって、その逆
ではない。君主には第一に、また直接に、あらゆるものへの配慮が宿るのであ
り、他の諸侯の配慮は君主を通じて宿るのだ。彼ら自身の配慮は、その上位の者
の配慮からもたらされるからだ。

17. Preterea, quanto causa est universalior, tanto magis habet rationem
cause, quia inferior non est causa nisi per superiorem, ut patet ex hiis que
De causis; et quanto causa magis est causa, tanto magis effectum diligit,
cum dilectio talis assequatur causam per se.
18. Cum igitur Monarcha sit universalissima causa inter mortales ut
homines bene vivant, quia principes alii per illum, ut dictum est, consequens
est quod bonum hominum ab eo maxime diligatur.
19. Quod autem Monarcha potissime se habeat ad operationem iustitie,
quis dubitat nisi qui vocem hanc non intelligit, cum, si Monarcha est, hostes
habere non possit?
20. Satis igitur declarata subassumpta principalis, quia conclusio certa est:
scilicet quod ad optimam dispositionem mundi necesse est Monarchiam
esse.

17. さらに言えば、原因というものは、それが普遍的であるほどより大きな道理
を得るのである。というのも、低位の原因が存在するのは、上位の原因に媒介さ
れる場合以外にないからだ。これについては『原因について』が述べている通り
である。ある原因が原因として大きいほど、その結果への愛情も大きくなる。そ
うした愛情はおのずと原因を求めるからだ。
18. したがって、君主は人間が善く生きるための、人間における最も普遍的な原
因をなすのである。先に述べたように、他の諸侯は君主によって存在するから
だ。かくして君主は、人間の善に最大限の愛情を抱くのだ。
19. 君主が正義をなすために最大の力をもつことを、こうした言葉を理解しない
者以外、誰が疑いうるだろうか。君主がいれば敵はありえないというのに。
20. 小前提についての明示はこれで十分であろう。というのも、結論は確かだか
らだ。すなわち、世界が最善であるためには、君主制が必要なのである。
               # # # # # #

ここで語られているのはある種の理想論ですが、前回の5節で「正義の反対物が
最小限のみ混合される場合に(……)正義は最も強い力を得るのである」と語っ
ているように、現実世界において正義の反対物を完全に捨象できないことも、ダ
ンテはきっちりと捉えています。理想論はいわばそうした認識の裏返しなので
しょう。現実世界の寸断状況の源を、ダンテは欲によって説明しようとしていま
す。対立概念として出てくる正義、そしてそれを下支えする慈愛によって、まさ
にキリスト教的な統合を君主(皇帝)の出現に求めているのですね。賢人政治を
理想とする伝統は古くからあるものの、末端の混乱を上位者による統治によって
鎮めるという政治的プログラムが練り込まれている点で、それ以前の君主論とは
一線を画している気がします。

単一の君主によって統合され、無益な争いが止揚される世界というのをダンテは
夢想しているわけですが、そのための論説として、まずは一般論が示され、次に
君主の統治がそれに合致することが示されるというパターンが多く眼につきます
ね。今回の17節でも見られるように、一般論・抽象論の形で示される論を、ダ
ンテは盛んに君主の問題へと当てはめていきます。ですがこうした語り口は、現
状認識、あるいは具体例によって微妙に裏切られている感じもします。12節で
言及されるカスティリアとアラゴンは、13世紀にそれぞれ拡張政策を取り(前
者はアル・アンダルス方面へ、後者はピレネー北部や地中海方面へ)実力を付け
ていきますが、それらとて全体的な統合にはとうてい至りません。それらをも凌
駕する帝政とは、一体どのような体制として構想されうるのでしょうか?

いまだ来ない理想の体制を、ダンテが「来るべき体制」として描いているのは確
かでしょうけれど、果たして本当にいつか来ると考えていのか……この問いは
『帝政論』の執筆時期の問題も絡んで微妙です。前にも触れたと思いますが、ダ
ンテが君主像として考えていたのは神聖ローマ皇帝ハインリヒ7世でした。です
がハインリヒ7世は急死し、イタリアの統一は果たせずじまいでした。ハインリ
ヒ7世について復習しておくと、この人物はもともとルクセンブルク伯で、アル
ブレヒト1世の暗殺後に担ぎ出されるようにして王位に就きます。いったんそう
なると、政治手腕を発揮するようになり、領土の拡張などを積極的に進め、
1312年には神聖ローマ皇帝として戴冠されます。ところが翌年、南イタリアの
征服に乗り出す前に、シエナで急死してしまうのでした。『帝政論』の執筆時期
は、かつてはハインリヒ7世が死去する1313年から18年とされていたようです
が、最近では1311年のイタリア遠征に際して執筆されたとも言われています。
前者だとすれば、ダンテにとっての理想はすでにして失われてしまっていたこと
になります。後者だとすれば、やはりこれは希望の書ということになるのですが
……実際のところはどうなのでしょうか?本文自体に、そうした問いについて推
測できる手がかりがあるでしょうか?その辺りも視野におさめつつ、さらに先を
読んでいきたいと思います。

投稿者 Masaki : 23:49