2005年01月26日

No.49

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silva speculationis       思索の森
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<ヨーロッパ中世探訪のための小窓>
no.49 2005/01/22

------新刊情報--------------------------------
寒い季節ですが、毛布にくるまったりしながら書籍を読むというのはこの時期の
ささやかな楽しみですね。中世関連の新刊が若干出ています。

○『聖王ルイの世紀』(文庫クセジュ 882)
アラン・サン=ドニ著、福本直之訳、白水社
¥999、ISBN:4-560-50882-8

聖王ルイことルイ9世は名君と言われています。13世紀の中ごろがちょうどその
治世にあたり、経済的にも思想的にも絢爛な文化が花開いていく時代でもありま
した。この治世について、都市、経済、文化など広く眺望する一冊のようです。
意外にもあまり取り上げられない時代ですから、よい手引き書になるでしょう
ね。

○『罪と恐れ−−西欧における罪責意識の歴史/十三世紀から十八世紀』
ジャン・ドリュモー著、佐野泰雄ほか訳、新評論
¥13650、ISBN:4-7948-0646-9

フランスの著名な歴史家ドリュモーの大著の一つがついに邦訳で。値段も張りま
すが、訳業としても労作でしょう。ドリュモーの著書はどれもそうですが、膨大
な史料を駆使しつつ、長いスパンでの心性史を執拗に追っていくところに圧倒さ
れます。本書も壮大なスケールの論考になっていますね。まさにドラマチックと
呼ぶに相応しい一冊です。

○『中世のアウトサイダー』
フランツ・イルジーグラー、アルノルト・ラゾッタ著、藤代幸一訳、白水社
¥3570、ISBN:4-560-02603-3

92年に『中世のアウトサイダーたち』として刊行された書籍の新装版。社会の
いわば周縁部に暮らす人々を活写した一冊ですが、タイトルは「中世の」となっ
ているものの、史料の制約のためか、実際には中世末期からルネサンス期にかけ
てのドイツ(特にケルン)が中心です。これはこれでなかなか興味深い内容では
あるのですが、個人的には15世紀より以前のそうした人々の状況に関心があり
ますね。もちろん、そうなると史料の制約が問題として立ちふさがってくるわけ
ですが……。

○『ガルガンチュアとパンタグリュエル 1』(ちくま文庫)
ラブレー著、宮下志朗訳、筑摩書房
¥1365、ISBN:4-480-42055-X

ご存じラブレーによる抱腹絶倒の物語。渡辺一夫訳などが入手できなくなって久
しいのですが、著名なフランス文学者の宮下志朗氏により、ついに待望の新訳が
出たのですね。4巻本になる模様で、これはその第1巻。今後の続刊も楽しみで
す。ラブレーの著作は意外にも今日的な問題を多く含んでいて、新たな再評価の
きざしといいますか、多少とも注目し直されてきているようですから、ある意味
タイムリーな刊行かもしれません。

------お知らせ--------------------------------
早いもので、本メルマガも次号で創刊から2年、50号となります。これを記念し
(笑)、新たに中世ラテン語の文法トピックスをまとめていく連載を始めてみた
いと思います。もちろん、当方はほとんど趣味的にやっているだけですので、詳
細な解説などはできません。ですが幸い、フランスで刊行されている学習書
("Apprendre le latin medieval", Picard, 1996-99)も手元にありますので、
同書の解説を要約したり抄訳したりするなど活用し、中世ラテン語の特徴のよう
なものを大まかに描いていけたらと思います。2週に1回づつですし、毎回大し
た分量にはならないと思いますので、あるいは日本一緩慢な文法解説シリーズみ
たいになるかもしれませんが、気軽におつき合いください。次号よりスタートし
ます。


------文献講読シリーズ-----------------------
ダンテ「帝政論」その14

今回は13章の残りを見ていきましょう。前回の部分では「行為をなす者はおの
れの類似性を広めようとするものだ」ということを論じていました。これを受け
て、ここでは行為の影響力について検討しています。

               # # # # #
4. Et hinc destrui potest error illorum qui bona loquendo et mala operando
credunt alios vita et moribus informare, non advertentes quod plus
persuaserunt manus Iacob quam verba, licet ille falsum, illa verum
persuaderent. Unde Phylosophus ad Nicomacum: "De hiis enim" inquit "que
in passionibus et actionibus, sermones minus sunt credibiles operibus".
5. Hine etiam dicebatur de celo peccatori David: "Quare tu enarras iustitias
meas?", quasi diceret: 'Frustra loqueris, cum tu sis alius ab eo quod
loqueris'. Ex quibus colligitur quod optime dispositum esse oportet optime
alios disponere volentem.

4. ここから次のように考える人々の誤りを粉砕できるのである。彼らは「正し
い言動があれば悪しき行為をしても、他人に生活や慣習を教え込める」と考え、
ヤコブの手の方が言葉よりも説得力を持ったことにすら注意を払わないのだ。た
とえ前者は誤りで、後者が真実だったとしても、だ。それゆえアリストテレスは
『ニコマコス倫理学』においてこう述べている。「受動・能動のいずれの場合
も、言葉は行為よりも信頼性に乏しい」。
5. ゆえに、罪人ダビデも天からこう告げられるのだ。「なにゆえにお前はわが
正義を語るのか?」。これはこう言っているかのようだ。「お前の言葉は無意味
だ。なぜならお前は自分の発言に従っていないのだから」。ここから、他人を最
大限秩序づけようと思うなら、おのれが最大限秩序のもとになくてはならないこ
とが導かれる。

6. Sed Monarcha solus est ille qui potest optime esse dispositus ad
regendum. Quod sic declaratur: unaqueque res eo facilius et perfectius ad
habitum et ad operationem disponitur, quo minus in ea est de contrarietate
ad talem dispositionem; unde facilius et perfectius veniunt ad habitum
phylosophice veritatis qui nichil unquam audiverunt, quam qui audiverunt
per tempora et falsis oppinionibus imbuti sunt. Propter quod bene Galienus
inquit "tales duplici tempore indigere ad scientiam acquirendam".

6. だが、統治に最も適した者は、君主をおいて他にない。このことは次のよう
に示される。どのような事物も所在と行為のために秩序づけられるが、そのよう
な秩序への障害が少ないほど、いっそう容易かつ完璧に秩序づけられる。そのた
め、時折意見を聞いて、誤った意見を吹き込まれた者よりも、まったく話を聞い
たことがない者の方が、よりいっそう容易かつ完璧に哲学的真理に与れるのであ
る。それゆえ、ガレノスはこう述べている。「そのような者が学識を得るには、
二倍の時間を要する」。

7. Cum ergo Monarcha nullam cupiditatis occasionem habere possit vel
saltem minimam inter mortales, ut superius est ostensum, quod ceteris
principibus non contingit, et cupiditas ipsa sola sit corruptiva iudicii et
iustitie prepeditiva, consequens est quod ipse vel omnino vel maxime bene
dispositus ad regendum esse potest, quia inter ceteros iudicium et iustitiam
potissime habere potest: que duo principalissime legis latori et legis
executori conveniunt, testante rege illo sanctissimo cum convenientia regi
et filio regis postulabat a Deo: "Deus" inquiebat "iudicium tuum regi da et
iustitiam tuam filio regis".
8. Bene igitur dictum est cum dicitur in subassumpta quod Monarcha solus
est ille, qui potest esse optime dispositus ad regendum: ergo Monarcha
solus optime alios disponere potest. Ex quo sequitur quod ad optimam
mundi dispositionem Monarchia sit necessaria.

7. ところで君主はいかなる欲望を抱くこともないか、少なくとも人間の中でそ
うしたことが最も少ない。上述したように、他の諸侯とは同列にはないからだ。
また、そうした欲望こそが唯一判断を誤らせ、正義を妨げるものである。した
がってそういう者こそ、あらゆる点で、または最も多くの点で、統治に適する者
となりうるのである。なぜならその者は、他の者の中で最大限の判断と正義を手
にできるからである。その二つ(判断と正義)は、なによりも法の制定者、およ
び法の執行者に相応しいものである。至聖の王が、王とその子の適性について神
に問うた際に、こう証言しているように、である。「神よ、あなたの判断を王に
与え、あなたの正義を王の子に与えたまえ」。
8. このように、小前提において「統治に最も適した者となりうるのは、君主を
おいてほかにない」と述べるのは正しい。したがって、君主は他人を最大限秩序
づけることのできる唯一の者なのである。それゆえ、世界が最大限善くあるため
には、君主制が必要であることが導かれる。
               # # # # #

まずは注記からです。4節のヤコブの話は、『創世記』48章でヤコブがエフライ
ムとマナセの頭に置く手を交差させたことを言っているのでしょう。『ニコマコ
ス倫理学』への言及は10章1(1172a34)です。5節のダビデへの言及は『詩
篇』49(「神を忘れる者」)の16によるものです。6節のガレノスは2世紀の医
者者として有名なあのガレノスのようですが、仏訳本の注釈にある『病気の認識
について(De cognoscendis morbis)』というテキストがないので確認できて
いません。7節の王とその子についての引用は、『詩篇』71(「秩序としての
義」)の1からです。

ダンテの思い描く君主は無私無欲に、ただひたすら秩序を制定し維持する者であ
り、その支配下に置かれる民は、そうした秩序の中で自由を謳歌していく存在で
す。民の自由というのが、秩序の制約以外なんら拘束されることなく振る舞え
る、ということであるとするなら、それは欲望のせめぎ合いということに帰着し
ていきそうです。あらゆる欲望がせめぎ合う中にあって、唯一欲望と無縁な者、
唯一の例外者が頂点に立ち、その欲望のいわば交通整理を行う、というのがここ
での図式でしょうか。この、単一の空疎な点が全体を秩序立てるという構図はな
かなかに示唆的です。これって、政治をめぐる現代思想(ジョルジョ・アガンベ
ンとか)でも盛んに取り上げられる論点ですね。

さらに脱線しておくと、帝国をめぐる議論は現代でもいろいろとありますが、中
でも近年、良きに付け悪しきに付け、現実の情勢との関連もあって話題になった
ものに、アントニオ・ネグリの<帝国>概念がありました。このカッコが付いて
いるところがミソで、歴史上の帝国でも、いわゆるアメリカ帝国でもないことを
表しています。『<帝国>をめぐる五つの講義』(小野耕一、吉澤明訳、青土
社)を見ると、やはりこれは具体的な国家などには収まらない(普遍の相、ある
いは原型としての)究極の統治形態として考えられていることがわかります。
で、その被統治者はマルチチュードと呼ばれるのですね。もともと群れを表す言
葉ですが、これもどうやらゆるいネットワークで組織化された自由人たちを言う
ようです。<帝国>とマルチチュードの緊張を孕んだ関係、というのがその主題
になっていくわけですが、後者が権力(主権)にとって限界をなすのだといった
議論を見ると、これらがどこかダンテの君主論を脱理想化して、さらにすこぶる
精緻にしていくもののようにも見えてきます。逆にいえば、ダンテの君主論を、
そうした議論のはるかな先取りとして読み込んでいくこともできそうな気がしま
す。そういう風に捉え直すなら、<帝国>の現実的発現形に対する批判など、現
代的な問題への手がかりも、あるいはそのあたりから見つかっていくかもしれな
い……などと考えてしまいます。

次回は14章を見ていきます。なぜ複数の者ではなく一者が統治する方がよいの
か、という問いを検討した箇所です。どうぞお楽しみに。

投稿者 Masaki : 14:47

2005年01月12日

No.48

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silva speculationis       思索の森
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<ヨーロッパ中世探訪のための小窓>
no.48 2005/01/08

松の内も過ぎましたが、皆様よいお正月をお過ごしでしたでしょうか。本メルマ
ガは今年も中世と現代とについてまったりと考えていきたいと思っておりますの
で、どうぞよろしくお願いいたします。

------クロスオーバー-------------------------
必要は発明の母、利用の母、そして……

スマトラ沖地震と津波はこれまでにない大きな被害をもたらしています。津波に
関する警報体制がなかったことが問題を大きくする要因だったということで、そ
うしたシステムの設置について各国の協力体制が動き出すようですね。必要は発
明の母ですが、今回はその必要が認識されるために大きな犠牲を払わざるをえな
かったのが、なんとも痛ましいことです。とはいえ考えてみると、人為的な発明
というものはそもそも、なんらかの不都合や事故、失敗、不測の事態によって組
織されていくようにも見えます。そうした事態に対応するために、広い意味で技
術は作られていく……。もちろん、だからといっていつも大きな犠牲を伴う形で
しか物事が進んでいかない、というのでは困るのですが……。

当たり前といえば当たり前ですが、いったん考案された新技術が普及するに際に
も、やはりそれなりの必要(需要)がなくてはなりません。例えば羅針盤。ア
ミール・D・アクゼルの『羅針盤の謎』(鈴木主税訳、アーティストハウス)で
は、世界三大発明の一つといわれる羅針盤は、もとは中国で生まれた磁気コンパ
スが西欧に伝わってから発展したもの、との説を取っています。中国の航海術
は、ヨーロッパもかつてそうだったように、沿岸の地形と、夜間の星の位置、昼
間の太陽の位置を観察して行うというもので、磁気コンパスはそれほど必要にな
らなかったのですね。磁石は磁気コンパスというよりも占いに活用されるにとど
まります。また、今回の地震が起きたインド洋は、もともとモンスーンの風向き
で方向がわかるため、船乗りがコンパスを使う必要も生じなかったといいます。
磁気コンパスの利用拡大には、地中海の交易拡大の欲求と、港湾都市の覇権争い
といった動因が必要だったのです。

紙や印刷の普及にも同じような力学が働いていそうです。こちらはヨーロッパよ
りも東洋でいち早く普及するのですが、箕輪成男『紙と羊皮紙・写本の社会史』
(出版ニュース社)がそういう力学を指摘しています。製紙法は二世紀の中国で
生まれ、750年ごろにアラブ世界に、950年頃にスペインに伝わり、12世紀以
降、次第にヨーロッパ各地で使われるようになります。ところが、ヨーロッパは
なかなか自前で紙を作ろうとはしないのですね。紙は輸入だけなのです。活版印
刷が登場する前のヨーロッパの状況では、写本が少部数作られるだけで、羊皮紙
があればそれで十分間に合っていたのだといいます。そして状況が変わるのも、
活版印刷が発明されたからではなくて、書物を読む人の数が増え、従来の少部数
の写本では間に合わなくなってくるからだ、と著者は喝破します。製紙法と活版
印刷は、人々の需要に応えて普及したのだということです。需要こそが技術の発
明を、そして普及を促すのだ、とうわけです。

とはいえ、発明の普及を真に突き動かすのは、やはりなんらかのインパクトを
もった不測の事態なのではないかという気がします。そうした側面はあまり正面
きって論じられおらず、文献的に立証しなければならない点ですが、磁気コンパ
スの普及の動因にはおそらく数多くの海難事故があったことでしょうし、紙や活
版印刷の普及にも、おそらくは貴重な文献の消失・散逸などが多数付随していた
だろうと想像できます。発明は決定的に問題への後追いでしかないのかもしれま
せん。それでも、悲劇が繰り返されるのを防ぐという意味で有効ではあるのです
が……。その一方で、現代社会で求められているのはむしろ「予防」というキー
ワードです。これは「予防のための戦争」といった形で安易にイデオロギー化さ
れてしまう危険もあるわけですが、今回の地震の被害などを見るにつけても、グ
ローバル化する社会・経済においては、技術の開発と普及が果たして問題への後
追いのままでよいのかという問題が突きつけられているようにも思われます。当
然それは、人為的発明に後追いである以外の可能性があるのか、あるとすればど
のような形でありえるのかといった、ある種の哲学的な問いにも繋がっていきま
す。とするならば、そういう問題を考えるヒントを探すためにも、歴史的事象は
ますます大きな探求の場になっていきそうです。


------文献講読シリーズ-----------------------
ダンテ「帝政論」その13

前回の12章8節まででは、「おのれのためにだけある」という意味での自由こそ
が、人間の本来の姿なのだと論じていました。今回はその続きです。次いで13
章にも少し入りますが、統治に最も適する者とはどのような者かが考察されてい
きます。

               # # # # # #
9. Genus humanum solum imperante Monarcha sui et non alterius gratia
est: tunc enim solum politie diriguntur oblique—democratie scilicet,
oligarchie atque tyrampnides—que in servitutem cogunt genus humanum,
ut patet discurrenti per omnes, et politizant reges, aristocratici quos
optimates vocant, et populi libertatis zelatores; quia cum Monarcha
maxime diligat homines, ut iam tactum est, vult omnes homines bonos fieri:
quod esse non potest apud oblique politizantes.
10. Unde Phylosophus in suis Politicis ait quod in politia obliqua bonus homo
est malus civis, in recta vero bonus homo et civis bonus convertuntur. Et
huiusmodi politie recte libertatem intendunt, scilicet ut homines propter se
sint.

9. 人類は君主の統治下にある場合にのみ、他者のためではなく、おのれのため
に存在するようになる。だが実際には、その際に不正な政体−−民主制、寡頭
制、専制など−−ばかりが整えられ、いずれの検討からも明らかなように、人類
は隷属を強いられてしまう。そしてその政体を治めるのは、王や貴族など「特権
階級」と称される人々の場合もあれば、あるいは民衆の自由を擁護する者の場合
もある。というのは、すでに述べたように、君主が人々を最大限に愛する場合、
その者は人々すべてが幸福であってほしいと願うものだからだ。だがそれは、不
正な政体において不可能なのである。
10. ゆえに哲学者(アリストテレス)は、自著『政治学』において、不正な政体
における善き者とは悪しき市民のことであり、真に正しき政体においては、善き
者は善き市民になると述べているのだ。そのような正しき政体は自由を志す。人
間がおのれのために存在するように、だ。

11. Non enim cives propter consules nec gens propter regem, sed e
converso consules propter cives et rex propter gentem; quia
quemadmodum non politia ad leges, quinymo leges ad politiam ponuntur,
sic secundum legem viventes non ad legislatorem ordinantur, sed magis ille
ad hos, ut etiam Phylosopho placet in hiis que de presenti materia nobis ab
eo relicta sunt.
12. Hinc etiam patet quod, quamvis consul sive rex respectu vie sint domini
aliorum, respectu autem termini aliorum ministri sunt, et maxime
Monarcha, qui minister omnium proculdubio habendus est. Hinc etiam iam
innotescere potest quod Monarcha necessitatur a fine sibi prefixo in legibus
ponendis.
13. Ergo genus humanum sub Monarcha existens optime se habet; ex quo
sequitur quod ad bene esse mundi Monarchiam necesse est esse.

11. 市民は執政官のために存在するのではないし、人々は王のために存在するの
でもない。そうではなく、逆に執政官が市民のために存在し、王が人々のために
存在するのである。いかなる形であれ政体が法に即して確立されるのではなく、
むしろ法が政体に即して確立されるのと同様に、法に則って暮らす人々が立法者
に対して秩序づけられるのではなく、立法者の方が人々に対して秩序づけられる
のである。ちょうど哲学者が、目下の問題について、私たちに残した著書で示し
ているように。
12. 以上のことから明らかなように、執政官や王は方法の観点からは他の人々を
支配するが、目的の観点からすれば他の人々に仕えるのである。そして最高位の
君主は、明らかにあらゆる者の従者でなくてはならないのだ。それゆえ、君主は
立法者としてみずから定める目的により必要とされることが認められるのであ
る。
13. したがって、君主の下で暮らす人類は、最良の生活を手にするのである。ゆ
えに、世界が善くあるためには君主制が必要であることが導かれる。

XIII. 1. Adhuc, ille qui potest esse optime dispositus ad regendum, optime
alios disponere potest: nam in omni actione principaliter intenditur ab
agente, sive necessitate nature sive volontarie agat, propriam
similitudinem explicare.
2. Unde fit quod omne agens, in quantum huiusmodi, delectatur; quia, cum
omne quod est appetat suum esse, ac in agendo agentis esse quodammodo
amplietur, sequitur de necessitate delectatio, quia delectatio rei desiderate
semper annexa est.
3. Nichil igitur agit nisi tale existens quale patiens fieri debet; propter quod
Phylosophus in hiis que De simpliciter ente: "Omne" inquit "quod reducitur
de potentia in actum, reducitur per tale existens actu"; quod si aliter aliquid
agere conetur, frustra conatur.

13章
1. さらに、統治に最も適する者は、他の人々を最もよく秩序づけることができ
る人物である。というのも、あらゆる行為において、行為者の主要な意図は、そ
れが自然の摂理によるものであれ意思によるものであれ、おのれの類似性を広め
ることにあるからだ。
2. ゆえに、あらゆる行為者はなにがしかの喜びを抱くのだ。存在するすべての
ものはみずからの存在を求め、行為を行う際には、その行為によって、なんらか
の形で存在が拡大するようにするのであり、そこから必然的に喜びが生ずるから
である。というのも喜びは、求める対象に必ずや付随しているからだ。
3. したがって、行為者は辛抱強くあらねばならず、そのような形で存在する以
外、いかなるものも行為をなしえない。これについて哲学者は、「単に存在する
ものについて」においてこう述べている。「可能態から現実態へと移るすべての
ものは、そのように現実態として存在するものによって移るのである」。なぜな
ら、仮に別の形での行為を試みようとも、それは無駄な試みだからだ。
               # # # # # #

10節で言及されている『政治学』の該当箇所は、仏訳本の注釈によれば3巻
1276 b30となっています。船を救うのが船乗り全員の務めであるのと同様に、
政体を守るのは市民の務めであるとした部分に続く箇所、「ゆえに政体は市民に
とって必然的に優れたものとなるのである」という一節です(ちょっと微妙にず
れている感じもしますが)。11節での言及は同書の4巻1289a13〜15の「市民
のために法を置くべきであり、法のために市民を置くべきではないからだ」とい
う箇所です。13章の3節に出てくるのは、やはりアリストテレスの『形而上学』
9巻8章、1049b24の「存在するものは常に、現実態として存在するものによっ
て、存在するものの可能態から現実態へと至るのだからだ」という箇所です。

ここではpolitia obliquaを不正な政体と訳出しましたが、代議制的なものがそう
いう政体として挙げられているのが面白いですね。ダンテはあくまで賢人による
一極支配を唱えています。民の幸福という意味での真の民意を反映するには、そ
ういう民の幸福にひたすら尽くす単一の賢者による統治が必要だという趣旨から
すれば、より個別的な思惑を抱く代表者たちの協議に基づく体制や、民の幸福を
顧みない独裁体制はとうてい正しい政体とは言えないことになります。この「賢
人による」というところが、いわばダンテの論の要の部分ですね。とはいえ、民
の幸福を重んじる賢者という存在は、あくまで論理的に導かれる理想として描か
れているにすぎないように見えます。実際には欲望がその理想を阻む障壁となっ
ている、と前回のところでダンテは論じていました。

フランスの高名な中世思想史家エチエンヌ・ジルソンの『ダンテとベアトリー
チェ』("Dante et Beatrice", Vrin, 1974)は、ダンテの『帝政論』を、思索
の確かさと表現の簡潔さの点で、中世において他に類するもののない、個人のオ
リジナルな哲学的思想の成果であると高く評価しています。ジルソンによれば、
若い頃のダンテは、死せるベアトリーチェを讃えるに相応しい言葉を探して哲学
を学び始め、あたかも哲学が第二のベアトリーチェであるかのようにのめり込ん
でいき、その探求の一端がこの『帝政論』に結実しているのだといいます。ジル
ソンは『帝政論』全体を、教会と国家との関係をめぐる哲学・神学的論考として
捉えています。私たちが読んでいる第1巻は君主制の擁護論に始終しています
が、これまで読んだ部分からだけでも、理想としての君主は、いわば神にも近し
い人物ということになりそうです。そうなると当然、教会との関係も重要なファ
クターになってきます。少しそのあたりのダンテの考え方も視野に収めておきた
い気がします。この第1巻も残すところあと数章ですが、次回以降、2〜3巻で展
開されるそのあたりの内容も簡潔にまとめておこうかと思います。とりあえず、
次回は13章の残りを読んでいきましょう。お楽しみに。

投稿者 Masaki : 13:41