2007年03月30日

麦酒の味

『大聖堂』では、庶民らや聖職者らがエールを飲む場面が盛んに出てくる。財政が逼迫してきた修道院が、振舞酒として「水で薄めたエール」を配ったりする(うー、まずそうかも)。エールといえば、基本的に生酵母による短時間発酵のビール。ちょっと触発されてキリンが最近宣伝しているグランド・エールを飲んでみたけれど、これはまあ、現代風に洗練されすぎていて美味しい(変な言い方だけど)。当時のはどんなだったのかなあ、などということを、一部で話題だった漫画『もやしもん』などを読みながら(発酵がらみということで)想像してみたり……。

これに関連して、堀越孝一『パンとぶどう酒の中世』(ちくま学芸文庫)には、セルヴォワーズというのが言及される。この本、15世紀の「パリ一市民の日記」という逸名著者の日記を読みつつ、当時の世相を説き明かすという趣向のエッセイで、その解釈の手触りのようなものをそのまま臨場感たっぷりに描いている好著だ。とくに、当時の尺度・度量衡へのこだわりが、全編を貫くドローンのように鳴り響くあたり、実にすばらしい(笑)。ま、それはともかく、問題のセルヴォワーズというのは、「麦を煮て水を加えたもの」(エロイーズによる記述)なのだそうで、これを発酵させて飲料が出来るというわけだ。ビール用のホップが栽培されるようになるのは13世紀からなのだそうで、ベルギーあたりのランビック・ビールの場合は、ホップを必要悪のように見なして劣化させようとしているのだという。同書の著者はそこにフランス的心性を見たりしている(p.244)。15世紀半ばのインフレでワインが高騰し、大衆はセルヴォワーズやらビエル(ビール、両者の違いは不明とのことだが……)などなどを飲むしかなかった、という部分がなんとも泣ける。なるほど、ヴィヨンの詩にも皮肉として出てくるわけね。

投稿者 Masaki : 13:32

2007年03月27日

フォレット『大聖堂』

『ダ・ヴィンチ・コード』の余波らしく、昨年秋くらいまで書店で平積みだったケン・フォレットの『大聖堂』(矢野浩三郎訳、SB文庫)。原題は"The Pillars of the Earth"。90年代に一度新潮文庫で出ていたもの。いろいろと話は聞いていたのだれど、このたびようやく読み通す(いまさらなのだけど……笑)。きびきびと小気味よく展開するストーリーに、一気読みできてしまう。うーん、昨今のエンターテインメント小説ってこんな感じなのね。時は12世紀の南イングランド。ここに、若き修道院長と職を求めて彷徨っていた腕のいい建築職人が出会い、大聖堂の建造が始まる。ところがその建造には修道院長らの政敵たちもまた群がり、様々な策謀をめぐらしていく。職人の息子やら弟子、地元の前領主の娘らと今の悪徳領主などが入り乱れ、さて建立の行方はいかに……。とまあ、そういう波瀾万丈の35年間を描いた大河小説だ。登場人物は篤信から軽信まで様々。「地獄に堕ちるぞ」と怒りにまかせて叫ぶ聖職者、それをせせら笑いながら、後になって地獄行きかとびびりまくっている地元の有力者、取引すれば赦免してやると話を持ちかける司教などなど、また、後半の主人公になる弟子などは、ちょっとアナクロニズムを感じさせるほどの無神論者だったり、登場人物はどれも人間くさく描かれる。

で、なによりも当時の建築技術のディテールなどが素晴らしいし、当時隆盛を極めていく商業活動(先物取引の萌芽)、マリア信仰、サンティアゴ・デ・コンポステラ巡礼、トレドなどのイスラム文化圏、フランス発のリブ・ヴォールトといった新建築様式&技法(シュジェールも登場)、カンタベリー大司教トマス・ベケットの暗殺事件などが、実に巧みにちりばめられていて、見事な技を見る思い。

投稿者 Masaki : 00:47

2007年03月20日

ジャン・ド・ジャンダン

J.-B.ブルネ『主体の移転−−ジャン・ド・ジャンダンによるアヴェロエスのノエシス論』(J.-B. Brenet, "Transferts du sujet -- La noétique d'Averroès selon Jean de Jandun", Vrin, 2003)の最初の章を見終わったところ。これはまた素晴らしい論考。もとは博士論文だというが、14世紀初頭にアヴェロエス主義の継承者となったジャン・ド・ジャンダンが、いかにアヴェロエス思想およびアリストテレス思想を「歪曲」「変形」していくかを追った労作。ブラバントのシゲルス以後、とくに14世紀に入ってからのアヴェロエス思想の受容についてちょっと関心を寄せているところだっただけに、とても興味深く読んでいる。まだ全体の4分の1程度しか目を通していないのだけれど、そうした分析から翻ってアヴェロエスの核心的な思想体系までもが整理されていて参考になる。思想を継承するということが、どれほどの操作と変形をもたらすかということを具体的に示してみせているのが素晴らしい(とくにアヴェロエスの質料的知性と、アヴェロエス主義者らの可能的知性の差異などの問題)。

ジャン・ド・ジャンダンは1310年からパリ大学で教鞭を執った人物。アヴェロエスを介する形でアリストテレス思想を擁護したものの、異端の扱いを受けて1328年に亡くなっている。上の本によれば、ビュリダンなどもアリストテレス思想の継承者ではあるものの、そちらがアフロディシウスのアレクサンドロスを拠り所にしているのに対し、ジャン・ド・ジャンダンのほうはアヴェロエスを全面的に援用しているところが決定的に違うのだという。

ちなみにこのブルネという著者は、同じVrinのSic et Non叢書から、オーヴェルニュのギヨームの霊魂論の仏訳(VII、1-9のみの抄訳)を出している。で、さらについでながら、このところオーヴェルニュのギヨームといえば、注目はなんといっても、おなじみ「ヘルモゲネスを探して」のサイトで連載されている、アマート・マスノーヴォによる論考の紹介だ。これがまた、実に面白い内容。マスノーヴォは(個人的にはまったく知らなかったのだけれど)新トマス主義に位置づけられる哲学者とのこと。

投稿者 Masaki : 23:22

2007年03月16日

インペトゥス理論

エドワード・グラント『中世における科学の基礎づけ』(小林剛訳、知泉書館)をちらちらと眺める。これ、原書も手元にあったのだけれど("the foundation of modern science in the middle ages", Cambridge、1996)、改めて日本語で読むとまた格別だ。この序文で、グラントはみずからの立場が翻ったことを語っている。科学革命は実は14世紀に準備されていたとするピエール・デュエムの(ある意味、いかにもフランス的という感じの)科学史観は、その後にコイレやクーンのパラダイム論で完全に打ちのめされたかに見えたものの(グラントはかつてそういうスタンスに賛同していた)、中世の評価はもっと広範に取るべきだと思い直し、ギリシア-アラビア科学の翻訳が大きなトリガーをなしていたことは確かなのではないかと考え、科学革命をどう基礎づけたかを探らなくてはならないと見るようになった、という次第。で、本文ではアリストテレス思想の流れを中心に、いろいろなテーマを俯瞰している。

個人的には、いわゆるインペトゥス理論というのがちょっと気にかかっている。これは14世紀にジャン・ビュリダンがまとめた一種の「エネルギー論」のようなもの。なんらかの力の痕跡が物質に刻印されているとする考え方で、これで飛翔物や自由落下などを説明しよとするものだ。ちょうど少し前に、アンドリュー・シューディンガー編『中世哲学を読む』("Readings in Medieval Philosophy", Oxford University Press, 1996)という英訳アンソロジーから、ビュリダンのインペトゥス理論がらみの論考を読んだので、そのインペトゥス理論の来歴についてちょっと知りたいと思っていた。グラント本によれば、古代末期のフィロポレス(アリストテレスを批判した)から、イスラム世界の「マイル(傾向性)」理論(アヴィセンナなど)を経て、フランキスクス・デ・マルキア、ジャン・ビュリダンへと続くのだという。これは17世紀にまで受け継がれ、ガリレオによっても再発見されていくのだという(シンプリキオス経由のヒッパルコスの考え)。連続の相で見るならば、なるほど長く遡及することができるわけか。

投稿者 Masaki : 23:19

2007年03月11日

春先の東北

ちょっと会津旅行のついでに盛岡に寄る。久々に新幹線の車内誌をめくってみると、西行(ご存じ12世紀の日本の歌人・僧侶)の小特集を組んでいて、これがなかなかに面白かった。特に時の権力者たちとの政治的な立ち振る舞いに多くの文章を費やしていて、同じ12世紀の西欧の聖職者たち=知識階級にも通じるものを強く感じさせる。西行の詩作や陸奥行脚も、ある意味トルヴェールなどの行脚に近いものがあるように思えるし、どこかいろいろな部分でパラレルな現象が感じられる。でもま、文学史的な言及はともかく、思想的な側面があまり取り上げられていなかったのだけれど、そのあたりはどんな感じなんだろうか、とふと思ったりもする。

時代的にそれにやや関連するが、最近ちょっと眼を通していたのが、小峯和明『中世日本の予言書−−<未来記>を読む』(岩波新書、2007)。ヨーロッパでは12世紀以降ヨアキムなどの預言が流布していくわけだけれども、それとある意味でパラレルな(?)現象が日本にもあった、というところがとても興味深い。この本の中ではノストラダムスなどが言及されていたりするけれど、むしろ西欧でも司牧の説教や民間説話などがそれに近いものじゃないかなあと。いずれにしても、実際の政治的な事件や世相を取り込んでは近未来的なヴィジョンを織りなしていく想像力の脈々たる流れには、なんだか圧倒される思いがする。

……で、東京に戻ったら、だいぶ前に注文していたヨアキム本が船便で届いていた。ナイスタイミング!

写真は会津の宿からの風景。
aizu0703.jpg

投稿者 Masaki : 21:36

2007年03月05日

「中世ラテン語」本

大学書林から出た國原吉之助『新版 中世ラテン語入門』を取り寄せてみた。75年初版のものの新版で、例文や巻末の文選に新たに和訳を付したものだという。先の高津春繁『ギリシア語文法』(岩波書店)といい、このところの復刊の動きには目を見張るものがある。すばらしいですねえ。中世ラテン語の解説書は、少なくとも邦語では類書がほとんどないだけに、これは貴重な一冊かも。それにしても、この巻末の文選のチョイスが素晴らしい。最初の説話編は「黄金伝説」や「ゲスタ・ロマノールム」と順当だけれど、歴史・史料編はトゥールのグレゴリウスによる「フランク史」、ディアコヌスの「ランゴバルド史」などなど重要文献の抜粋がならび、随筆・書簡編では、ベネディクトゥス「修道院規則」、ソールスベリーのジョン「ポリクラティクス」、アンドレアス・カペラヌス「愛について」、トマス・アクィナス「神学小論集」など。見事なラインアップ。

投稿者 Masaki : 23:34

2007年03月01日

ドリーシュ

ハンス・ドリーシュ『生気論の歴史と理論』(米本昌平訳、書籍工房早山)を通読。実はこれ、個人的に編集サイドを通じて仏語の問い合わせを受けた「お手伝い本」。そんなわけで、第一部の歴史編は昨年原書のコピーを読ませていただいたのだけれど、やはりというべきか、本当に面白いのは実は第二部の理論編だった(やや晦渋ではあるのだけれど、第二部の後半をなす「個体性の問題」がわかりやすい)。歴史編でもアリストテレスが批判的に取り上げられて、それから近代以降へと邁進するのだけれど、理論編もおなじように、アリストテレス思想の「組み替え」がキーをなしている。とくに重要なタームとなるのが「エンテレキー」。可能な変化の進行を留保したり解除したりするもの、ということで、訳者の解説はこれを情報論的な力学と見ている。アリストテレスの「ἐντελέχεια」は本来、形相と質料とが結びついた「発現態」「完成状態」を意味する用語。『霊魂論(魂について)』の有名な箇所(412b4〜6)で魂の最初の定義として言及されている(「あらゆる魂に共通するものを挙げるとしたら、それは自然の秩序だった身体の第一の発現態ということだろう」)。けれども後世には、むしろ「完成」という作用の面が強調され(中世盛期にすでにそういう感じになっていくようだ)、「形相の働き」という意味合いが強くなるようだ(このあたり、またもアヴェロエス思想の継承者らの議論が絡んで面白い問題なのだけれど、今はさしあたり置いておこう)。で、ドリーシュのエンテレキー概念も、秩序付けの内的な力学という意味を携え、どうやらその系列にしっかりと連なっている。というか、連続性の相で見るなら、秩序一元論といった全体性の思想などもふくめ、ドリーシュの議論はまさに中世の思想的な流れを汲んでいる感じだ。もちろんその議論には、近代以降の大きな変換もまた取り込まれているわけだけれど。

それにしても先のパースといい、20世紀初頭にいたるまで、度重なる変形を被りつつも古代から中世へと受け継がてきた思想潮流は、やはりそれなりに思想的な命脈を保っていたことがうかがい知れる。そしてまた、21世紀の新たな思想的流れが、今度はそのパースやドリーシュの読み替え・変形でもって進んでいくとしたら、とても刺激的なことなんではないかな、と。

投稿者 Masaki : 22:51