リュート奏者ロルフ・リズレヴァント(Rolf Lislevand)と各地の古楽演奏家らによる『ヌオヴェ・ムジケ(nuove musiche)』(ECM)を聴く。インプロヴィゼーション主体の「新しい音楽」の創造ということで、ペレグリーニのパッサカリアやカプスベルガー、ピッチーニなどのトッカータを「再構築」する形で大胆な編曲を加え、さらにオリジナルのパッサカリア(アンダルシア風など)を交えてまったく新しい「古楽的」アルバムに仕立てている。どこか北欧のトラッドフォークなどを思わせるサウンド処理。パーカッションの入れ方や、声の入れ方(アリアンナ・サヴァールだ)がとても現代的。古楽という範疇には括れないものの、ある意味で奔放な、新しいサウンドを聴かせることには成功している、といった感じ。こういう演奏もたまにならいい(こういうのだけになってしまうと、それは問題だけれどね)。
ちょいと面白いものを読んでいるところ。フィリップ・ローズマン『フーコーで理解するスコラ哲学』("Undrestanding Scholastic Thought with Foucault", St.Martin's Press, 1999)というもの。これ、確かアルベルトゥス・マグヌスを研究しているという院生の方のブログに紹介されていたと思うのだけれど、今閉鎖されているようで確認できない。それはともかく、いずれにしてもこの本、タイトルがちょっとキワモノ的な印象である割に、中身はなかなか良くできた概説書だ。これから研究を、というような人には特にお勧めかもしれない。スコラ哲学の基盤をなす歴史的変化を、ミシェル・フーコーのメソッドをヒントに、手際よく多面的にまとめている。20世紀の研究史をおおざっぱに振り返るところから始まって、フーコーの特に初期の著作のエッセンスをまとめ、その応用として、まずはスコラ学が成立した背景として、手書き文字や読書習慣の変化と絡めて論じ、そのあとは古代ギリシアからの「円環と直線」のダイナミズムを簡単に振り返り、その延長線上でトマス・アクィナスの革新性を再論し、さらにスコラ哲学のエピステーメーの変化を概略的に辿っている。フーコーははっきりいってダシでしかないし、議論の中身もどこかで一度や二度は聞く話がほとんどだけれど、スコラ哲学の基礎をまとめて俯瞰しているところがとても好感がもてる。
……話はまったく変わるのだけれど、Herodote.netによると、4月26日はパリのシテ島にあるサント・シャペルが奉納された日なのだとか。これは1248年のことで、1239年にルイ9世が13万リーヴルでいとこのビザンツ皇帝からキリストの聖遺物を買い、それを収める場所として、建築家ピエール・ド・モントルイユ(Pierre de Montreuil:ノートルダム寺院も手がけた)が建造したのがサント・シャペル。建造費自体は4万リーヴルなのだそうで、それに比べると聖遺物がいかに貴重だったかがわかる。パリを聖地の一つにしようという政治的な意図もあったのだという。
いまさらながら、という感じもしなくないのだけれど(苦笑)、ガザーリー(1058 - 1111)の『光の幕舎(Michkât Al-Anwâr)』の仏訳を読む("Le Tabernacle des Lumières". Seuil - Points, 1981)。光の隠喩としての神(コーランのXXIV、35節に出てくる)についての神学的な考察だ。興味深いのは最初の章。「光」という語(nûr)の意味論的考察から始まる冒頭部分で、「現れ、現すもの」としての光と、そこに与る視覚の役割が考察されている。さらに、人間の知性は内なる目に譬えられ、それに5感が「知性のオブザーバー」として参与する、という構図が語られる。このあたり、内部と外部の照応関係と、同時にそれらが相互作用で結ばれているという議論が展開するようで、なかなかに興味深い。直接の関係というわけではないだろうけれど、12世紀のアラビアの神学者たち、あるいは13世紀以降の中世の神学者たちが、一部にせよ光学理論に入れあげているのは、そういった照応関係がベースにあることを、改めて感じさせてくれる。
それに関連して、最近出たマーク・ペンダーグラスト『鏡の歴史』(樋口幸子訳、河出書房新社)。この第三章に、光学理論をめぐる通史のさわり(ギリシア、アラビア、ヨーロッパ中世・近世)をごく簡潔にまとめてあって有益だ。この本、鏡の文化史的考察という意味では、類書のメルシオール=ボネ『鏡の文化史』(竹中のぞみ訳、法政大学出版局)を補完するような内容で、これまた評価したいところ。
あまり意味はないが、久々のWebカムから。3月中旬のリモージュの光。
今週は久々にコルネットもの。ウィリアム・ドンゴワとコンセール・ブリゼによる『コルネットの黄金時代(L'Âge d'or du cornet à bouquin)』(K617 187 3)。cornet à bouquinというと、15世紀から18世紀くらいまで使われたもの。今で言うコルネット(cornet à piston)は19世紀初頭にフランスで出来たものなのだそうで、それとは別もの。上の3枚組のCDでは、1枚目がイタリアのコルネット曲アンソロジー、2枚目がモンテヴェルディ時代のサン・マルコ聖堂の音楽、3枚目がコルネットとドイツ音楽というテーマ別の編集。1枚目は16世紀ごろの曲が中心で(伝承曲やパレストリーナもののアレンジなど)、まさにコルネットの凛々しさが炸裂する見事な一枚。2枚目になると、コルネットはどこか背後に回り、歌やチェンバロなどが前面に出てくる印象。曲想もどこか陰影を讃えたものになっていくが、それはまあ、教会内での使用ということか。3枚目はブクステフーデの曲集。オルガンが前面に出て、コルネットはさらに色あせている感じ。黄金時代というのが、どこか衰退への扉を開けているような気がするのは、コルネットについても言えることなのかもなあ、と。けれども曲の全体は厳かな感じがいや増す。ウィリアム・ドンゴワという人は名手なのだそうで(知らなかったのだけれど……苦笑)、とくに1枚目のパフォーマンスは猛々しい感じでとてもいい。
ラース・スヴェンセン『退屈の小さな哲学』(鳥取絹子訳、集英社新書)を読む。人が下手をすると日常的に直面する、退屈という現象について考察をめぐらしたもの。退屈、なんていうと哲学の対象にならないように思われるかもしれないけれど、実はこれ、実存の片鱗に触れるというとても重要な側面を持っている。なにしろそれは、「意味」が見いだせない状態に陥ることだからだ。神(意味を担保する存在)なき時代の人間は、こうして意味の空虚さに直面せざるをえず、何人もそのことを避けて通れはしない……とまあ、もとよりすっきりとした処方箋が示されるわけではないのだけれど、「退屈」をよりよく直視するための姿勢を養おう、というのが同書の趣旨だ。問題提起の第一部と、退屈の歴史(中世的なacédie(懈怠)概念に少しばかり触れている)の第二部が個人的には面白い。スヴェンセンは70年生まれの若いノルウェーの哲学者。邦訳は仏訳版からの重訳とか。
余談ながら第一部の終わりのところで、現代人の置かれた状況が、ビュリダンのロバのたとえ話に重ねられている。ビュリダンのロバというのは、質・量との同じ二つの干し草をロバから等距離においておくと、そのロバは選択ができずに餓死するだろうというパラドクスのこと。ビュリダンの言葉とされているものの、現存する著作には見られないものだという。なるほど、これもまた、オッカムの剃刀に並ぶ幻の一句というわけか。ビュリダンは一般に心理学的決定論の立場を取っているとされ、その文脈で引かれた例ということになっているらしいのだけれど、ビュリダンの理論(理性がよりよいと認めない限り選択はできない、というもの)を詭弁として斥ける(現実に反するとして)ために、後世にひねり出された一句とも言われる。ビュリダンには『ソフィスマタ』(詭弁)という著書もあり、しかも8章の自己言及命題の論究で挙げられている命題には、ロバに言及したものもあって、そう見ると確かになんだか皮肉な感じがしなくもない(笑)。
「イブン・シーナーの『医学規範』への誘い」という副題のついた『ユーナニ医学入門−−イスラムの伝統医学』(サイード・パリッシュ・サーバッジュー編訳)というのを少し前にゲット。ベースボールマガジン社という出版社から97年に出ていたもので、まったくノーマークだった(笑)。この出版社、スポーツ関係ということなのだろう、武道医学とか、毛色の変わった心身療法的な本をいくつか出しているようだ。で、同書。最初の一章をイントロにあて、残りはイブン・シーナー(アヴィセンナ)の大著『医学規範』のごくさわりの部分を抄訳したもの。タイトルのユーナニというのは、ペルシャ語でギリシャのことだそうだ。現在のイランで、ギリシア医学の多くの書がアラビア語に翻訳されたのは9世紀初頭からといい、さらにペルシャではそれ以前からインド医学の翻訳がなされていて、アリー・アッタバーリーという人がそれらを統合し、ペルシャのアル・ラージー(ラテン名ではラーゼス)がそれを継承したのだという(同書の第一章より)。イブン・シーナー(アヴィセンナ)は後にそれを集成したという次第だ。16世紀にフランスで出たアンブロワズ・パレの整骨書は、『医学規範』の引用なのだという。そのパレの整骨書、日本の整骨技法に影響を与えたともいう(p.21)。うん、このあたり、中世とは別だけれど、なかなか興味深いところだ。抄訳の各章も面白い内容満載(長々と論じられる尿の話、腎臓・膀胱結石の話、薬学としての草木論などなど)だ。
せっかくなので、一般にイブン・シーナーを描いたとされるイラストを挙げておこう。いくつかあるうちの一つ。
都知事はまたアレに……。なんだかなあ、という感じ。同じく、なんからのポピュリズムを吸い上げて当選を果たしそうなのが、フランスのサルコジ。つい先週、ミシェル・オンフレとの対話を、雑誌『フィロゾフィー・マガジン』が企画した際(肝心な部分の抜粋がオンラインで読める)、サルコジは「幼児性愛とか同性愛とかは先天的なもんだ、遺伝的に決定されている」みたいな発言をして大ひんしゅくを買っている。オンフレは早口で語りまくるタイプだったけれど、サルコジはそれに輪を掛けてひたすら喋るタイプのようだ。落ち着かない人なのね。そのあたりの話が、オンフレ氏のブログに記されている。世界と関係のない純粋なイデーというものがあるというのが、どうやら右派の考え方、オントロジーだ、と同氏は述べているけれど、実際、科学的見地というようなものをいっさい無視して、ドグマ的な「憶見」を放言するあたり、サルコジもまさにどっかの知事と似たりよったり。こうして同類がはびこっていくのか……。
また、Herodote.netに少し前に紹介されていたのだけれど、『ル・モンド・ド・ラ・ビーブル』誌が面白い調査をまとめている。選挙キャンペーンの演説でキリスト教的リファレンスが各候補にどれだけあるかというもので、それによると、預言的性格をもった演説をするのがロワイヤル、もっとも世俗的なのがバイルー(カトリック信者であることを公言していたはずだけども)。サルコジは最も聖書への言及が少ないものの、フランス国内のキリスト教の歴史については最も多く言及しているのだそうで。
古楽ネタも「Viator musicae antiquae」からこっちに引越し。
もう一週間も経ってしまったけれど、今年のエイプリルフールネタで個人的に一番受けたのは、なんといってもリュート奏者・中川祥治氏のヴァイスのネタ。「不実な女(l'infidèle)」というタイトルで知られるヴァイスの名曲が、実は異教徒トルコ人のことを意味していることが確証された、という嘘話。もちろん、この説は実際に存在するし、個人的にもそれに賛同している次第。実際にそういう証拠が出たら面白いなあ、と本気で思ってしまう(笑)。ま、なかなかそうはいかないだろうけどね。
で、これに関連して(というわけでもないのだが)、佐野健二氏の演奏による『L'infidèle』(EMC Records 0011)を聴く。ジャーマン・テオルボによる演奏。心なしか少しくぐもった感じの音になっている気がする。自主製作盤ということなので、録音一発という感じなのだろうか。それでもヴァイスの厚みのある音楽が響きわたる。
引越も完了し、ネットも復旧。とはいえ部屋はいまだ乱雑なままだ。いずれにしても、一刻も早く通常の作業に戻れるようにしたいところ。引越作業中はあまり時間が取れなかったものの、VrinのSic et Nonシリーズから、『アヴェロエス「霊魂論大注解」のアラビア語オリジナル版』(Sirat et Geoffroy, "L'Original arabe du Grand Commentaire d'Averroès au 'De Anima' d'Aristote - prémices de l'édition". Vrin, 2005)を一通り。ほとんどアラビア語の演習という感じでちびり読み。とはいえ、これ、散逸してしまったとされるアヴェロエスの『「霊魂論」大注解」のアラビア語版は、実はモデナのエステ図書館の写本に、そのオリジナルの断片が含まれているのだそうだ。ところがその断片、どうやら通例のラテン語版のもとになったものではなく、それより古い版である可能性が高いのだという。同書は、将来的に刊行される予定だというそのモデナの写本(判読作業はまだ数年続くのだとか)の序論的な位置づけで、書誌学的な概観を示したもの。うーん、すでにしてとても面白いのだけれど、その将来の刊行が今から楽しみだ。この学問的に真摯な営為には、惜しみなく拍手を送りたい。
今週は近所へのミニ引越し作業。距離こそミニだが、引越しであることには変わりなく、荷物をまとめるのは結構大変だ。そのためあまり文献などに目を通す時間がない……と言いながらも、さわりだけ読み始めたのが、J.E.ヴァネンマッハー『救済史の解釈学』("Hermeneutik der Heilsgeschichite", Brill, 2005)。副題に「『第七の封印について』と、ヨアキムの著作における七つの封印」とあるように、黙示録解釈の一端としての七つの封印を論じたものらしいヨアキムの著書を、現存する写本から再構成して、その議論の内容を、他のヨアキムの著作と比較し論じた研究書(ちと値が張った……)。『第七の封印について』は、先のリーヴス本では、いちおう真正著作に数えられているけれど(巻末の付録)、ほかならぬリーヴスらによって疑義が示されているらしいけれど、この本は、その真偽はとりあえず括弧でくくって、その内容が中世の伝統にいかに根付いていたかということを掘り起こす試みのようだ。最初の章には七つの封印をめぐる議論の歴史ということで、グレゴリウス一世やらベーダなどの解釈がまとめられ、対比する形でヨアキムの特徴を述べ立てている。2章目からが本格的な内容の議論に入っていくわけだが、なかなか期待できそうな「掴み」だ。巻末にはその再構成したテキストも収録されている。
表紙絵はやはりヨアキムの『形象の書』から「赤い大龍」(draco magnus et rufus)。オックスフォード写本のものということで、やや掠れているところが渋い(笑)。リーヴス本の図版のキャプションによると、龍の6つの頭にはヘロデからサラディンまでの王の名が記され、7つめは名前がなく、アンチキリストを示しているのだという。尾っぽもまた、ゴグ(アンチキリスト)に言及されているのだそうだ。そういえば先に挙げたユイスマンスの『神の植物・神の動物』のカバー裏にこの絵が使われていたっけ。