2007年05月31日

実存の闇

久々にデリダものを読む。デリダによる「ミメーシス」論だという話を聞いて『エコノミメーシス』(湯浅博雄ほか訳、未來社)を見たのだけれど、予想とはちょっと違って、これはカントの『純粋理性批判』で展開する美学問題へのデリダ流の注解だった。75年のテキスト。冒頭は、アートがアナロジーを介することによって、ピュシスとテクネーの対立を無効にしてしまうという話。アートがもつ自由が、自然(内的に規定されたもの)によって指図されたもののすぎないものの、その自由は、産出過程としての自然を模倣する。そのため自然に規定されつつ、自然に規定されないふりをすることで、逆説的にアートは自然にアナロジカルに近づいていく、というわけだ。この「ふり」こそがまさにミメーシスで、そこで産出されるもの(作品とか)も、交換不可能(なにしろアートとは絶対的に自由なものなのだから)でありながら、究極の交換をもたらすという逆説に彩られている。美の評価もまた、批判的な言説の前段階の状態へと、あるいは言葉にならない内面へと送り返される。で、それを支えるのは否定神学的にしか接近できないもの、記号から排除されたものだという話に……。アートをめぐるミメーシスが内面(オイコス)のミメーシスであるという謳いと、それを体系として支えているのは徹底的に排除されなくてはならない何らかのものだ、というおなじみの謳い。ある意味悪文でもある「詩的」文章から立ち上がってくるのは、意味の抜け落ちた実存的深淵だ。ピュシスとテクネーの分割といったあたりの巨視的な問題が、いつの間にか主体の問題、実存の闇の問題に接合して置換されていくというあたりに、大陸系の哲学的伝統(?)がもつまさに「実存的な闇」が感じられたりもするのだけれど……(笑)。

ピュシスとテクネー、そしてミメーシスにあやかって、さる土手に植えられた花の写真を掲げておこう。植物、造園技術、そして写真の重層的な関係性……と考えていくと、確かに実存の穴に落っこちないとも限らない(?)
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投稿者 Masaki : 21:46

2007年05月29日

文化イコン?

ちょっと面白い論集。『文化イコンとしてのティマイオス』("Plato's Timaeus as Cultural Icon", Ed. Reydams-Schils, University of Notre Dame Press, 2003)。宇宙開闢論『ティマイオス』について、その古層やら後世への影響やらを検討した13本の論考。個人的に面白かったのは、まずリュック・ブリソンによるカルデア神託と『ティマイオス』についての論文。2世紀にユリアヌスなる人物によって書かれたとされるカルデア神託が、いかに『ティマイオス』の当時の解釈を再利用しているかを論証している。次にデーヴィッド・ルニアによる初期キリスト教思想への『ティマイオス』の影響についての一文。それからスティーヴン・ジャーシュの論文。マルティアヌス・カペラ(「フィロロギアとメルクリウスの結婚」)とアリスティデス・クインティリアヌス(「音楽論」)の霊魂論の照応関係をまとめたもの。ほかにもいろいろ。いずれにしても、古代末期にいたる『ティマイオス』の思想的な広がりをまざまざと感じさせる。でもま、突出したシンボルというよりは、基底的な潮流と見るほうがよいように思われるので、タイトルの文化イコンっていうのはどうかなという気もするのだけれど……(笑)。

久々に都内の風景(あまり意味はないが……)
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投稿者 Masaki : 14:11

2007年05月26日

[古楽] 平和の祈り

ライプツィヒの聖トーマス教会のオルガンを日本人奏者が弾くという、ある意味とても贅沢な一枚が椎名雄一郎氏の『平和の祈り』(ALCD-1092)。曲は聖トーマス教会ゆかりのバッハとメンデルスゾーン。バッハはいくつかのコラール前奏曲およびカンタータからのオルガン編曲もの。メンデルスゾーンはオルガン・ソナタから2番、3番、6番。いや〜どちらもなかなかに面白い曲の数々。特にバッハ自身の手になるカンタータのオルガン編曲ものは、また違った渋い味わい。演奏もどこからしら剛直な力強さを感じさせる。オルガンはバッハ没後250年のバッハイヤー(2000年)に建造されたものだという。タイトルの「平和の祈り」は、東西ドイツ統一前にニコライ教会で行われていた集会で、後に民主化運動の拠点となったのだそうだ。

……そういえば余談だけれど、あまり聴いていなかった仏雑誌『classica』の付録CD(基本的に新人紹介CDだ)を整理していたら、この間のラ・フォル・ジュルネで存在感たっぷりの演奏を聴かせてくれたネマニャ・ラドゥロヴィチの演奏を収録したものがあった(2002年11月号の付録)。基本的に「動」の人なのかと思いきや、タルティーニのソナタ「捨てられたディドーネ」では、いかにも「静」という感じで、実にしっとりと哀調を歌い上げる。うーん、お見事。

投稿者 Masaki : 20:01

2007年05月22日

「明日の世界」

昨年秋にちょっと話題だった映画『トゥモロー・ワールド』(原題は『人類の子どもたち』Children of men)をレンタルDVDで見た。冒頭、中頃、終盤と登場する衝撃的な長回しは確かにもの凄い(特に個人的には、中頃の暴徒らの襲撃を車内から撮ったシーンがむちゃくちゃ凄いと思った)。映画評論家・町山智浩氏のblogに、そのシーンとメイキングのYouTube映像とにリンクが張られている。けれどもそれにもましてこの作品、全体としてはキリスト教的な屋台骨の上に築かれた現代批判、という感じが濃厚だ。そもそものストーリーが、聖家族のエジプト逃避行を思わせる展開。子どもが生まれなくなった近未来にひとりだけ誕生する子どもを、元活動家の巻き込まれ型主人公(クライヴ・オーウェン)が守り、存在しているのかどうか怪しい人権団体に届けようとする。戦場と化したロンドン郊外(ほとんどレバノンかコソボかという感じ)で、連れ去られそうになった母子を主人公が追っていく(上の終盤の長回しだ)のだが、一人称シューティングよろしく、主人公が銃弾をかいくぐっていくところなど、なにやら「超越的意志」に駆られたかのような映像になっていて(それ以前の場面でなにやら運命論的なセリフなどがあって、この場面に反響してくるのだけれど)、「佳境では主人公は死なない」という映画的なお約束が、「神に選ばれた者は死なない」という宗教説話的お約束(中世の神明裁判以来だ)と二重写しになり、やや過剰なまでに露出してくる(その意味では、映像はもの凄いのだけれど、主人公への感情移入という点でのサスペンス感覚は薄まってしまう感じもするのだけれど……)。その直後、戦火が一時的に止むという「奇跡」が訪れるのだが、なるほどこれはカタルシスだけれども、現代世界(の戯画である近未来)での奇跡は賞味期限も短い。そのあたり、宗教的なものに対する作り手側の批判的なスタンスもまた感じられる。そもそも舞台設定となっているのが、貧富の差が広がり、移民が文字通りの檻に入れられて排除されている近未来。これ、現実にありえないとはいえない未来なのが空恐ろしい。で、救世主たる赤ん坊は、そういう下層の民の中に生まれる、と。うーん、まるでユダヤ的ディアスポラ状況が、顚倒し一般化してしまったような世界観だが、あるいはこれ自体が壮絶な皮肉になっているのかもしれない。親ユダヤとされるアメリカのネオリベ・ネオコンが作りだそうとしている世界は、ユダヤ的なものの壮絶な報復、反転したディアスポラなのだ、と……。

最後に出てくるのは……アレクサンドリアの大灯台?前に棺に描かれたその灯台の絵を掲載したけれど、その暗示からしてどこか黄泉の国を思わせるでないの。なるほどこれは一種の開かれた結末なのか……?

投稿者 Masaki : 22:37

2007年05月21日

16世紀文化革命

連休ごろだったと思うけど、NHKで寺山修司の活躍した時代を振り返る、みたいな番組があった。で、その当時の世相ということで安田講堂の事件が出て、若き日の山本義隆氏が檄を飛ばしている映像が使われていた。ああ、この人が後に『磁力と重力の発見』の著者になるのか、みたいな、不思議な感慨を味わう(笑)。数年前に話題となった『磁力と重力の発見』3巻本は、邦語の科学史本としてはまさに金字塔という感じだったけれど、いまひとたび、それを補完するかのような2巻本が出たのはつい先月のこと。で、早速購入してみた『一六世紀文化革命』1および2(みすず書房)。ルネサンス期の文化的な変貌が、大学のアカデミーとは別の領域から勃興したという観点から、当時の諸科学の動向を分野別・網羅的に描き出すという趣向。要所要所で立ち止まりつつ一通り飛ばし読み的に流しただけだけれど、芸術、外科術、解剖学、植物学、鉱業、商業と数学、軍事・機械学、天文・地理、言語などなど、まさに総覧という感じ。個人的には9章のラテン語と俗語の対立の構図あたりの整理に注目したいところ。また、最近もう少し前の時代の、アリストテレス受容の翳り、というあたりがとても気になっているところなのだけれど、直接的には触れられていないもののヒントとなりそうなところはいくつかある。いずれにしてもこれは、中世末期・ルネサンスあたりを探訪するなら、まさに今現在の必携の教科書(すべてはここから始まる、みたいな良い意味で)。

投稿者 Masaki : 23:23

2007年05月18日

中世哲学の「復興」

3月に出たことは知っていたものの、引越準備や何やらで目を通す暇のなかった雑誌『大航海』No.62(新書館)。特集は「中世哲学復興」。あー、ついに来たかという感じ。なにしろ同誌の編集主幹、三浦雅士氏は、とくにこの数年、インタビューなど事あるごとにアリストテレスほかの古代思想、中世思想に言及していたので、こういう特集もあるかなと薄々予感していたので。今回の特集は主なテーマは二つ。ひとつは中世哲学プロパー系というか、要するに普遍論争再考。個人的にも、メルマガのほうで『イサゴーゲー』(エイサゴーゲー)の注釈をちょっと追っているので、詳しい話はメルマガの方で取り上げたいと思うけれど、最近はアベラールの時代の「唯名論」を、ヴォーカリズムという言い方に変えようという動きが世界的にある(その提唱元は日本だったりするのだとか)というあたりが興味深かった。それと、アベラールの考える実在論的な部分(アベラールは「唯名論」の始祖ということになっているが)の整理という点で、清水哲郎氏の論考がちょっと面白く、このあたり、いろいろと確認していきたいところだ。

もう一つのテーマは、パースやハイデガー、ドゥルーズらによる、ドゥンス・スコトゥスへの言及がらみの見直し。現代思想の文脈からの考察が続く。個人的に興味深かったのは、山内志朗氏の論考。ドゥルーズの参照先として、ドゥンス・スコトゥスの「このもの性」から、アヴィセンナの「馬性の格率」に遡り、さらにはアフロディシアスのアレクサンドロスの「普遍偶有性説」(と山内氏は命名している)にまで遡ってみせている。個人的にも、アフロディシアスのアレクサンドロスはとても面白そうだと思っていたところなので、これも参考になりそう。

またなんといっても、上の三浦氏と神崎繋氏との対談がいろいろなヒントに満ちていて刺激的。中でも、『ニコマコス倫理学』の「クレイア」(必要)が、ラテン語訳を経て中世の労働観を通過し、やがてマルクスの労働価値説にまで流れ込んでいったというあたりの話は、ちょっと考えさせられる。さらにはパースがドゥンス・スコトゥスの実在論を新たに展開する論考の翻訳もあって、なかなかお得な読み応えある一冊になっている。……ま、とはいえ上の二つのテーマが主軸なので、「復興」というにはやや狭い感じもしなくもないのだが……(中世の神学的・哲学的問題で、現代世界にまで通じる流れというのは、さらにいろいろありそうに思えるので)。全体としてはかつてあった『哲学』(岩波のではない)や、昔の『現代思想』などのノリが少し感じられて嬉しかったり(笑)。

投稿者 Masaki : 00:01

2007年05月15日

[古楽] 復活祭カンタータ & 祝祭論

久々にガーディナー+モンテヴェルディ合唱団+イングリッシュ・バロック・ソロイスツによるバッハ。『カンタータ第22集』(SDG 128)。復活祭に関係した教会カンタータ(BWV4、31、66、6、134、145)を収録した2枚組。このシリーズは2000年のバッハイヤーに、各地で教会暦に合わせてカンタータ全曲を演奏するという一大プロジェクトでのライブ録音。すでに23集目も出ている。もはやこれも完全に定番シリーズという感じ。収録曲の選択も、悲しみから喜びへという感じのドラマチックな作り。演奏も凛々しさに溢れている。いいっすね、これも。

ま、復活祭つながりということで(今年のはもう一ヶ月以上前だが)、フィリップ・ヴァルテール『中世の祝祭--伝説・神話・起源』(渡邉浩司・渡邉裕美子訳、原書房)をざっと。キリスト教の祝祭がそれ以前の異教の儀礼・神話を巧みに取り込んだものだとう話はよく聞くものの、具体的な話は意外に少ない気がするのだけれど、これはまさにそういう古代神話(ギリシア・ローマ系、ケルト系、ゲルマン系など)との重層性を掘り下げていこうとする興味深い試み。民間説話に儀礼の照応を読み込むなど、民俗学的・人類学的手法を駆使している。たとえば復活祭のウサギは、本来は異界の住人とされる「野人」の転生した姿だといい(サンタクロースもそう)、その卵も神話的な意味を担っている云々。索引から辞書のように引くこともできそうだ。キリスト教に覆われた古層へとアプローチしていくというのも、とても面白そうではあるものの、なかなかに難しい道だろうなあ、と改めて思う。

同書のカバー絵は表も裏もあの「ベリー公のいとも豪華なる時祷書」からのもの。裏の絵を再録しておこう。
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投稿者 Masaki : 00:04

2007年05月10日

商業革命は中世にあり

生産性問題再考への絡みもあって、ちょっとロバート・S・ロペス『中世の商業革命』(宮松浩憲訳、法政大学出版局)を眺めてみる。まだ前半のみ。訳者あとがきによれば、原書は71年のものだとか。都市の商業化という問題を中心にすえて、経済成長理論の立場から論じるというのがロペスの基本的立場なのだそうで、商業を資本主義の外的要因ではなく構成要因と見る立場だというのが興味深いところ。とはいえ同書は概論的で、詳しい理論的分析には立ち入っていないようだけれど、これはあとがきにあるように、「統計資料のない時代」の「経済活動を叙述すること」の困難があるためなのだという。うーむ、それはなかなか難しい問題ではあるなあ、と。

基本的に、経済的発展のベースには余剰生産物とその活用の気運というものがあり、どちらが足りなくても飛翔はできないというのが著者の立場のようだ。ローマが豊かであったにもかかわらず(中国もだが)、真の商業発展がなかったのは「成長よりも安全と安定が支配者階級の最高の理想であった」(p.73)からだという。なるほど、この理想は思想的にも裏付けられるかもしれない。で、変化の動因としては、イスラムの台頭とユダヤ人の活動、さらにはイタリアの都市化などが挙げられている。「あまりに大人数になりすぎて、世襲財産だけで快適に暮らすことができなくなった都市在住の小貴族家系」(p.86)に生じた変化が重要なのだという。資本の共同出資、政治参画などが導かれていくというこのあたり、各論的な論考をちょっと探っていきたい気がする。

上の支配階級の理想に関連して、ちょうど最近、後3世紀のイアンブリコスが逸名著者の経済論を伝えたものだというギリシア語テキストを読んだのだけれど(希伊対訳本『平和と繁栄』(Anonimo di Giamblico, "La pace e il benessere", Biblioteca Universitale Rizzoni, 2003)、伊語訳のマヌエラ・マリの紹介文では、この逸名著者については、前5世紀ごろの古代ギリシアの思想家とかいろいろな見解があるらしい)、これがまた、秩序のもとでの貨幣経済が人を幸福に導くかという内容で、大変面白いものだった。とてもモダンな議論で、同じく収められている解説(ドメニコ・ムスティ)も、英国やフランスの18世紀の功利主義・自由主義などと絡めて論じている。リベラリズム思想も、より考古学(フーコーが言うような)的に遡ってみる必要があるかもしれない、と改めて思ったり。

投稿者 Masaki : 23:12

2007年05月08日

面舵いっぱい

フランスがさらなる自由主義に向けて面舵をいっぱいに切った……。うーん、予想されていたこととはいえ、こうなってみると、人ごとながらなんだか空恐ろしい気もしないでもない。なにしろ今回は急激な路線変更になりそうだから。全体的な生産性を高め、景気をよくし、その波及効果によって失業も減らす、と聞けば、それなりに理屈としては通っているようにも思えたりもするけれど、それはあくまで前提としての理屈での話。よく言われているように、実際には、フロム・スクラッチで制度を作り直せるわけではないので、その途上で既存の制度との間に様々な問題が出てくる。すでにこちらの国でも多少とも経験ずみだけれど、これまで手厚い労働者保護などがなされてきたフランスにあっては、問題の規模、深刻さは、こちらの国の比ではないだろうなあ、と……。すでにサルコジは、キャンペーン終盤で、68年の5月革命の遺産はすべて葬る、みたいなことを述べているし……。

フランスが路線変更に向けて投票を行っていたころ、個人的には工藤庸子『宗教vs.国家』(講談社現代新書)を読んでいた。人権を訴えるポスターにマザー・テレサの写真が使われていることに、フランス人が覚えるという違和感の正体は何か、ということから出発して、フランスのガリカニズム(教会制度をめぐるフランスの独自性だ)からいかに政教分離の思想が湧出していくのか(そして逆説的に両者がいかに結びついているのか)を、おもに近代の小説作品の描写を史料として読みつつ考察していくというもので、小著ながら考えるところの多い一冊だ。「国家の内部に組み込まれていた教会を国家から分離」(p.188)する過程は、かなりの強行だった印象を抱かせるのだけれど、ここで重要なのは「政教分離に伴う課題は、宗教を弾圧することでもなく、国民の教会離れを促進することでもなく、じつはキリスト教信仰に代わるものを共和国が発明することにあった」(p.144)という点。たとえば、いわゆるNPOに相当するフランスのアソシアシオンは、社会的な有用性を担う側面の強かった近代の修道会・信徒会などをベースにして発展してきたものの、これが1901年のアソシアシオン法で国家によって宗教色の排除を課されていく。結果的に、修道会などが担っていた女性の社会参画や教育は、世俗化する形で継承されて今に至っている、という。

共和制の中での教会は優遇などいっさい与えられず、組織としては完全に国家から分離し自立した。ここでの「教会」を「左派が作ったもろもろの制度」に置き換えると、なんだか同じようなことが規模を縮小して繰り返されそうにも見える。右派は自由主義をベースにした代案を示し、左派が作った制度を国家から切り離し、アソシアシオンのような形で(あるいは民間企業の形で)それらが担われていけばそれでよいとする。それで担い切れないような部分が出てきたらどうするか。無理矢理にでも担わせる?それはそれで制度矛盾が出てきそうだけれど……。いずれにせよ、今回の大統領選キャンペーンでも明らかだったように、右派・左派の最大の政策的な違いは、基本的にセーフティネット部分をどう作るかにしかない。でも、そろそろ生産性をめぐる前提の議論あたりから再度見直すようなことをしないと、たとえばこれから深刻化しそうな環境問題なんかには到底対応できない気もするが……。

投稿者 Masaki : 10:04

2007年05月05日

フォーレのひととき

3回目となる東京版「ラ・フォル・ジュルネ」。今年も一日だけ遊びに。「民族のハーモニー」ってタイトルも雑多だが、今回はプログラムもかなり雑多な印象。公式ポスターなんか、「モンティ・パイソンか?」というような切り貼りだし(笑)。まあ、これだけ雑多なプログラムでは、やはりピンポイント的に攻めるしかない(会場で、「今日も8公演はしごだぜ」みたいなことを宣言していたどこぞの若いオタ君がいて印象的だったが、そりゃまあ若いうちですわな)。というわけで、最近ちょこちょこと読んでいるジャンケレヴィッチの『フォーレ--言葉では言い表し得ないもの』(新評論)(まだあまり読み進んではいないのだけれど)を受けて(?)、今回はフォーレの宗教曲が聴ければそれでよしとしよう、と。今回のフォーレはなにしろミシェル・コルボだし。合唱はおなじみローザンヌ声楽アンサンブルで、管弦楽団はシンフォニア・ヴァルソヴィア。午後最初の宗教曲の小品集と夕方の『レクイエム』をそれぞれ聴く。小品では、小ミサとラシーヌ賛歌以外は恥ずかしながら初めて耳にするもの。タントゥム・エルゴなんてとても素晴らしかった。レクイエムは1893年版(第2稿)とのこと。サンクトゥスからピエ・イエズにいたる部分はもとより至福の旋律だけれど、コルボのゆったりとした優美な運びは絶品。ソプラノのアナ・キンタシュもなかなか(ベストな状態ではなかったみたいだが)。

あと、時間つぶしの一環としてチケットを購入していたレ・シエクルという若手演奏家らによるフランス近代ものの小品集(グザヴィエ=ロス指揮)も聴いた。うーん、このプログラム、ビゼー、サン=サーンス、シャブリエ、ショーソンの弦楽曲なのだけれど、総じてホールミュージックみたいで曲そのものが個人的にあまり面白くなかった(苦笑)。けれど、ネマニャ・ラドゥロヴィチというヴァイオリニストはなんかちょっと迫力だった。聞けばセルビア生まれで、このところの注目株なのだとか。なるほどね。このほか、民族音楽系のミュージシャンたちが無料コンサートなんかをやっていたものの、PA通した音に落ち着けず、個人的にはパスしてしまった。

ついでながら、上のジャンケレヴィッチ本の表紙を飾るのはフェルメール『音楽のレッスン』。1662年ごろのもので、英国王室コレクションの1枚になっている。描かれている楽器はヴァージナル(鍵盤に対して直角方向に弦が張られているもの)。

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投稿者 Masaki : 12:55

2007年05月02日

ヨアキム思想と霊性

世間的には連休で、個人的にもここぞとばかりに、池上俊一『ヨーロッパ中世の宗教運動』(名古屋大学出版会)をひととおり読む。うん、これは力作・労作。13世紀(著者はフランボワイヤン期と称している)の多面的な宗教運動の数々をめぐりながら(隠修士、カタリ派、少年十字軍、ベギン会、鞭打ち苦行団、千年王国運動)、その霊性の変化・展開を大きな歴史的動きの中に位置づけようとする壮大な論考。読み応えたっぷり。新しい研究動向や知見もいたるところに盛り込まれていて、それらを拾っていくだけでも刺激的。カタリ派の二元論が外部から持ち込まれたものではなく、一神論内部で自発的に二元論化した、というあたりの議論や、トルバドゥールの抒情詩とのテーマ的な重なり合いなどは、改めてとても興味深く読んだし、鞭打ち苦行団とラウダの運動とが必ずしもイコールではないという話などは、恥ずかしいながらちょっと個人的に誤解していた部分を正してもらったり(苦笑)。

そしてなにより、6章の「千年王国運動」はヨアキム思想とその後の展開に関する、実に有益なまとめとなっていて、とても参考になった。歴史の2分割、3分割、あるいは7区分の6と7の重なりなどなど、漠然とヨアキムのテキストを見ていてはわかりにくい部分が憎いまでに簡潔に整理されている。このあたり、今後テキストなどを見ていく際の有益な手引きとさせていただこう。また、その思想が後代(といっても14、15世紀までだが)においてどう変形され使われていくのかを、具体的な諸派の特徴として鮮やかに描き出しているのもすばらしい。久々の大型の歴史横断的論考。

投稿者 Masaki : 23:20