2007年06月29日

政治的・非政治的自由

半澤孝麿『ヨーロッパ思想の中の自由』(創文社)の前半(古代・中世)をざっと一通り。「長崎純心レクチャーズ」シリーズの一冊。古代ギリシアにおける「自由」概念が、政治的な事実(「自由人」という場合の)を表すものだったのに対し、キケロあたりから政治主義と非政治主義(意志的な自由)の自由論が分岐しはじめ、両者の流れはアウグスティヌスやトマス・アクィナスなどを経由する形で、いっそうの分離を伴いながら後世へと引き継がれていく、というのがメインストーリー。で、その過程で、キリスト教的な結合原理としてのカリタスや、政治への対抗原理としての友情(友愛)などが織りなされていく様を描き出そうとしている。それらは「非政治的」自由概念とからんで析出されてくるもの。自由概念を一枚岩と考えず、大きな二つの枠に分節していく過程として捉えるというのが、同書のミソとなっているところ。結果的に、一見オーソドックスなテーマながら、丹念かつ大胆な読みが問題の所在に新しい光を投げかけている感じのする好著になっている。後半は近世以降の自由論が扱われる模様だ。率直な感想として、こういうのもいいなあ、と。理解・了解したつもりの問題系も、また別の切り口で眺めると意外に新鮮だったりするということの証しだ。うん、このあたり、自戒もこめて内に留めておこう。

投稿者 Masaki : 21:10

2007年06月26日

中世の天空論

またまた論集にざっと目を通す。『中世における天空の観察、読解、記述』("Observer, lire, écrire au Moyen Age", dir. Bernard Ribémont, Editions Klincksieck, 1991)という、89年のオルレアンでのシンポジウムのアクト。タイトル通り、中世の天文学をめぐる様々な小論が収められている。ドイツの医術文献への占星術の影響、と題したJ. フュルマンの小論は、ビンゲンのヒルデガルトとパラケルススという時代も違う二人を中心にまとめるという荒技(笑)。J.-Y. ギヨーマンのものはボエティウスの「自由四科」で天文学が占める位置づけについての省察。A. リナレスの論考はライムンドゥス・ルルスの「占星術論」の概要をまとたもので、概論的な内容ながら個人的にはとても参考になる。ルルスは錬金術系のものを取り除くと、やはり実に面白い感じだ。E. プールの観測器具をめぐる文献学的考察も面白い。そしてなにより、編者でもあるベルナール・リベモンの概論が優れもの。リベモンは中世の博物学的伝統についての専門家だということで、ここでは古代から中世への天空論のひととおりの流れを概括した上で、博物学的な知の世俗語での普及者たちに注目し、伝統との微細なズレなどを論じている。このところ、こういうシンポジウムの論集がちょっと面白いと思っている。そりゃ確かに収録された論考はピンキリかもしれないけれど、少なくともまったく無駄なものなど一つもない。時折出会う傑出した論考というは、もっと地味な論の数々の土台の上に築かれていく(たとえ間接的にでも)ものだということを、改めて感じたりする。

投稿者 Masaki : 20:00

2007年06月22日

[古楽] キルヒホフの新作

リュート奏者ルッツ・キルヒホフの新作は、バロックリュートによるフランスもの。『神々の言葉(The Language of the Gods)』(deutsche harmonia mundi)。エヌモン・ゴーティエ、逸名作者たち、ロベール・ド・ヴィゼー(組曲嬰ヘ短調)、ジャック・ガロ(組曲嬰ヘ短調)、デュ・ビュ、ロイスナー(組曲ハ短調)、ドニ・ゴーティエ(組曲イ長調)など。ルネサンス期の端正な力強さとは対照的に、どこか形式美のほうへと滑っていく感じのバロック期のフランスもの。パリはその17世紀のリュート音楽の一大中心地だったというが、その様々な諸相を集めたアンソロジー的な一枚。どこか装飾が主旋律を「食らう」感じのするヴィゼー、耽美的な指向を感じさせるガロ、わかりやすさに踏みとどまっている感じのロイスナーなどなど(ロイスナーは若い頃パリで学んでいる)。聴き応えもなかなか。なんだか最近、リュート・レパートリーとしてフランスものを積極的に取り入れるプロ奏者が増えている感じもして、ちょっと嬉しい(笑)。

投稿者 Masaki : 21:42

2007年06月19日

またまたピュシスとテクネー

今年の1月に亡くなったラクー=ラバルトによるルソー論を読む。『歴史の詩学』(藤本一勇訳、藤原書店)。ルソーの想定した「社会的起源」としての自然状態のラディカルさをすくい上げようとするもの。その自然状態からは、自然そのものの欠落と、その「代補」としてのミメーシス論が浮かび上がる。ミメーシスとしてのテクネーは、すなわち一種の「演じる術」であり、その演じる場は根源的な劇場だ。人間の根源的な存在論・技術論には演劇性があるということになるのだけれど、一方でルソーの場合、アリストテレスのミメーシス論にある「思考を可能にする条件」としてのミメーシスという捉え方(『詩学』)が欠けているせいで、演劇性のカタルシスの作用を捉え損ね、そのためにむしろ、カタルシスをめぐる思考を弁証法的に開き直していく……とまあ、そういうのが全体的な屋台骨だ。

ルソーはミメーシスの根源性を救ったという点で、プラトン的なその断罪よりはアリストテレス寄りの問題圏に踏み込んでいる、みたいは話なのだけれど、ミメーシスやテクネーをめぐる西欧の思想的伝統というのはもっといろいろと複雑そうではある。個人的に少し前からイアンブリコス(ご存じ、3〜4世紀の新プラトン主義派の一人)の『プロトレプティコス(哲学の勧め)』(Les Belles Lettresの希仏対訳版)を読んでいて、ちょうどピュシスとテクネーの話が出てくる箇所にぶつかったのだけれど、それによると、ピュシスがもともと偶然などに拠るのではなく、目的をもったもの(コスモスの調和という「善」に支えられている)だという発想がまずあって、そうした善に向かう方途としてテクネーがあるといった話になっている。ここでのテクネー(ま、厳密には模倣ではないけれど)は、自然の代補的な意味で積極的な役割をあてがわれている。うーん、思想の系譜・流れの上流は、まだまだ面白い問題がいくつもくみ取れそうな感じではある。

投稿者 Masaki : 22:48

2007年06月16日

天文学と哲学……

このところ、アフロディシアスのアレクサンドロス『コスモスについて』("Alexander of Aphrodisias on the cosmos", Brill, 2001)を読み始めている。アラビア語、英語の対訳本。なにしろこのテキストは、アラビア語版でしか残っていないらしいので、英訳を参考にこれまた原書講読。個人的には、アヴェロエスの『トピカ小注解』などをこの半年ほどかじり読んで、アラビア語の字面にもだいぶ馴れてきたものの、やはりまだテキスト本体を読んでいるというよりも辞書を読んでいる感じで(苦笑)、相変わらず遅々たる歩み。ま、焦らずゆっくり行こう。まだ最初の4分の1程度のところだけれど、内容的には、アリストテレスの運動論の注解(第一動因などについての)なのだけれど、やはりどこか新プラトン主義的な気配が濃厚。うん、アフロディシアスのアレクサンドロスについては、少しいろいろなテキストに当たってみたいところだ。

と同時に、思うところあって目を通していたのが、基本書の一つジェフリー・ロイド『後期ギリシア科学』(山野耕治ほか訳、法政大学出版局、2000)。とりわけ5章「ヘレニズム時代の天文学」を興味深く読む。当時の天文学が占星術的関心と一体で、しかも「数学に偏向し」、経験的な探求がごく限られたものであったとしても、歳差や「惑星経路」など測定による緻密化が進んでいた点で「天文学者と哲学者が対照的」だったといった指摘がされている。「不規則性が、規則的で均一な運動を用いて説明されなければならない」という当時の考え方は、大きな制約となったらしいけれど、それでも「原因は複数ある」という自然現象の併存的な説明が単なる言い訳に陥っていたエピクロスの立場などよりは、はるかに厳密だったというわけだ。うーん、このあたりの立場の相違が「天文学対哲学」という感じの分離・対立になるというのはちょっと疑問なのだけれど、そのあたりの詳しい状況は知らないので、そういう分離・対立があったのかどうかという目でギリシア文化のアラビア経由での伝達をもう一度見直してみる必要もあるかな、と漠然とながら思ったりもする。

投稿者 Masaki : 20:20

2007年06月12日

内容的アプローチ

前回のメルマガのほうでも取り上げたけれど、ダヴィッド・ピシェ『1230年から60年のパリ自由学芸学部における普遍問題』(David Piché, "Le Problemème des universaux à la faculté des arts de Paris entre 1230 et 1260", Vrin, 2005)は、ポルピュリオスの『イサゴーゲー』注解で「Si homo est finis...」で始まる逸名テキスト(一応著者はロベルトゥス・アングリクスとされているが)を、文献学的な視点、テキストの構成、思想内容から検証し、同時に普遍論争がパリ大学界隈で一応静まったとされる表題の年代の、同時代の著者たちと共通する主要な論点や、ニュアンスの違いを浮かび上がらせた労作。とりわけ面白いのは、3つめの内容的アプローチ。テキストの特定作業などでは、ほとんど状況証拠的にしかならないメソッドなので、評判は悪いけれど、むしろここでは、同時代の各種テキスト(ロバート・キルウォードビー、ニコラ・ド・パリ、ジャン・ル・パージュ)との比較で当時の「パラダイム」(というか、一種の共通理解だけれど)を浮かび上がらせているところが素晴らしい。こういう研究もまだまだ見所がありそうだ。同書はまた、巻末にその懸案のテキスト本文と仏訳が収録されている。これ自体もとても興味深い。短い簡素なテキストなのだけれど、アルベルトゥス・マグヌスのテキストと同様、「普遍」を心的イメージと事物に内在する「共通性」とにはっきり分けていたりするし、また、差異(種差)が個体化をもたらすのではなく、形相こそが個体化をもたらすのだというあたりも、ドゥンス・スコトゥスの個体化論へと通じていく感じ。

投稿者 Masaki : 23:57

2007年06月09日

環境問題への別様のアプローチは?

ハイリゲンダムでのG8サミット。今後43年かけて温暖化ガス排出を半減するという、どこか現実的に思えないような声明は、ドイツのメルケルが言うような成功とも取れないし、一方でグリーンピースのいう失敗とも一概に言えないように思え、なんだかいかにもどっちつかずの印象を覚える……(エコロジー系の活動家の主張がいつもどこかしら論点がズレている感じがすることと合わせて、なにやらとても違和感を感じてしまう)。少し前に、フランスの中世史家ロベール・ドロールと、スイスの近現代史家ワルテールの共著『環境の歴史』(桃木暁子ほか訳、みすず書房)に眼を通してみた。この本、要するに古代から中世・近世・近代と、西欧の歴史が環境への適応の歴史だったということを具体的な事例を挙げながらテーマ別に辿っていくというもの。なるほど、原因はともかく、ある程度周期的な温暖化・寒冷化の繰り返しは実際にあったようで、それは時代ごとの人間の生活の大きな枠組みをなしていたこともわかる。環境問題はずっと、つねにつきまとってきたというわけなのだけれど、とはいえ、現代的な加速化する環境破壊を前にしては、歴史家が示唆できることはどうしても限られてしまう。多くの場合、歴史家は歴史を連続性の相のもとに見ようとするから。で、そこでまさに発想の転換というか、問いの読み替えが必要とされるのかもしれないなあ、と。今の環境問題が、古来の適応問題と異なる一番の点は何だろう、と考えていくと、それはまずもって破壊の加速度だということになりそうだ。すると今度は加速度、あるいは速度と適応の問題が浮上する。

とすると、ここでヴィリリオの問題圏に行き着く。少し前に出た『民衆防衛とエコロジー闘争』(河村一郎ほか訳、月曜社)は、当然いわゆる「エコロジー本」ではないのだけれど(タイトルとはうらはらに)、「速度」という形で権力側の支配が細部にまで及ぶ現状(78年のテキストだが)、民衆の側からの防衛を賞揚するというのが趣旨。なるほど、エコロジー闘争として括られる戦いが、実は権力側の支配への抵抗に行き着くというのは慧眼だ。支配する側は「エコロジカルな破局」の恐怖を市民に植え付け、コントロールしようとし、入植者よろしく、時間や土地を簒奪していくのだという。加速とはまさにそういうことだ。G8の最中、グリーンピースのゴムボートを警備艇が追い抜いて蹴散らしていく映像が流れたが、あれなどはまさにヴィリリオの論考の戯画といえそうだ。そういわれてみれば、エコロジー系の先鋭的な活動団体がどこか違和感を覚えさせるということの正体も、彼らの真の敵が政治権力(広義の)にあるというのに、多くの場合そのことを環境論的なドグマにすり替えてしまうからなのかもしれない、と思えたりもする。また、G8の排出量半減の声明についての違和感も、環境そのものの保全というよりも、市民のよりいっそうの統制を強める意思表明のように聞こえてしまう、ということなのかもしれない……。うーん、政治闘争の側面と、環境の変化(それは自然的・人為的な両方の環境を含めてだが)への適応問題の側面とは、もちろん複雑に絡み合っているのだけれど、そのあたりを読み分ける一種のリテラシーが必要になってきそうな気もする。そのためには案外、これまたエコロジーとは一見無縁のような「恐怖と統治」の精神史に今一度立ち返ってみる必要もあるかもしれないのでは、と。そんな悠長なことは言っていられない、なんていう向きもあるかもしれないけれど、そういう長大な迂回は決して無駄ではないはず。それをいうならG8だって、43年後の話をしているわけだし。

投稿者 Masaki : 22:06

2007年06月07日

[古楽] ヴェネチアの晩課

一日遅れになってしまったが、昨晩はラ・ヴェネシアーナという初来日の声楽アンサンブルによる、「ヴェネツィアの晩課」と題された演奏会に行く。これ、目白バ・ロック音楽祭の一環として催されたもので、ついでにモンテヴェルディ・フェスティバルをも銘打っている。で、これは期待以上の「当たり」だった。基本的にモンテヴェルディの『倫理的・宗教的な森』が生で聴けるということで出かけたのだけれど、今回のは晩課のミサ形式仕立てで、フレスコバルディのトッカータから始まり、レスポンソリウムも交える構成。くだんの『倫理的・宗教的な森』からは6曲ほど。それにしてもこの声楽アンサンブル、わずか7人で圧倒的に濃密な音を創り出していた。この声量、迫力。モンテヴェルディの明朗な雰囲気がいやがうえにも高まる、文句なしのパフォーマンス。支える器楽の面々もなかなか(エンリコ・ガッティのほか、リクレアツィオン・ダルカディアという邦人奏者のグループ)。会場にはNHKのカメラも入っていたので、そのうち放送もありそう。

投稿者 Masaki : 22:01

2007年06月05日

上野でルネサンス

もうすぐ会期終了のダ・ヴィンチ『受胎告知』と、始まったばかりのパルマ展を梯子する。前者は結構な人出で、まあ落ち着いて見るぎりぎりのところ。一枚だけの展示スペースはやや広く取りすぎている感じも(苦笑)。併設の特別展はダ・ヴィンチの手稿の図などを実際に模型にしたものが中心で、それほど目新しい感じはなかった……。うーん、今回の目玉が『受胎告知』だけだというのがちょっと寂しい。それよりもやはりパルマ展だ。ルネサンス期(16世紀)からバロック期(17世紀初頭)にかけてのイタリアはパルマの絵画の数々。コレッジョやパルミジャニーノ、スケドーニなどの絵画がずらずらと並び、見応え十分。まさに眼の贅沢という感じだ。今ならまだ会場もかなり空いている(笑)。コレッジョはなんといっても『階段の聖母』『幼児キリストを礼拝する聖母』あたりが見事。ウフィッツィ美術館の至宝。聖母子図の伝統はやはり強力だなあ、と。バロック期のスケドーニは、陰影の濃いドラマチックで大判の絵画。

ではそのコレッジョ『幼児キリストを礼拝する聖母』を。
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投稿者 Masaki : 22:41

2007年06月04日

[古楽] シュッツの遺作

コレギウム・ヴォカーレ・ゲントの演奏によるシュッツ『辞世の曲(白鳥の歌)(opus ultimum)』(HMC 901895.96)を聞く。指揮はおなじみヘレベッヘ。シュッツのほとんど集大成といってよいような本作は、まさに圧倒的な音の伽藍。なにしろ二つの合唱隊による計八声のモテットだし。全体は詩篇119番(岩波版では118)「おきて」に曲をつけたもの。1660年頃、75歳を超えたシュッツは、おのれの葬送曲として、クリストフ・バーンハートに同119番の抜粋への作曲を依頼したのだという。ところが後にシュッツは、みずからその119番全体に曲を付けることになる。さらに詩篇100番「喜びの歌」およびマニフィカートを加えたものが、いわゆる辞世の曲とされる本作。長らく散逸していて、1970年代に再発見され復元されたのだそうだ。

余談ながら「白鳥の歌」というのは、リグリア王キュクノス(Cygnus)が友パエトーンの死を嘆いて白鳥になり、アポロンがそれに歌声を与えたというギリシア神話がもとになっていて、ここから「白鳥が死に際して歌う」という定型句が出来たのだという。最近復刊された高津春繁『ギリシア・ローマ神話辞典』(岩波書店)を見ると、白鳥を意味するキュクノスにはいろいろな同名異人がいることがわかる……。

さて、このシュッツの「白鳥の歌」、ジャケットを飾る絵はヒエロニムス・ボス(久々だ)。有名な三連の祭壇画『最後の審判』の左部分「楽園」。ウィーンの美術アカデミー所蔵のもの。
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投稿者 Masaki : 12:59

2007年06月02日

オーヴェルニュのギヨーム

ジャン・ド・ジャンダンについての著作がとても刺激的だったジャン=バティスト・ブルネが仏訳し序文と注を付けた、オーヴェルニュのギヨーム(13世紀前半に活躍)『魂について、VII巻1から9』(Guillaume d'Auvergne, "De l'âme (VII, 1-9)", trad. J.-B. Brenet, Vrin, 1998)にざっと目を通す。なんといってもブルネによる序文が面白い。ギヨームは、アヴィセンナを代表格とする逍遙学派を批判していたということで、とくに能動知性が分離してあるという説に異議を唱えるのだという。なるほど魂は本来的に不可分だという立場だ。分離した能動知性を認めない立場だと、知解対象としての形相はどこから来るのかという問題が生じてしまうのだけれど、ギヨームはそこで、ハビトゥスと称する魂のポテンシャル(これをもたらすのは神だとされる)からもたらされる、という議論を展開するのだという。アヴィセンナの場合は上方からの照射(能動知性が「照らす」ということ)だけが問題になるのに対して、ギヨームの場合には下からの照射(ハビトゥスが形象を「照らす」)も考えている、というわけだ。つまり「概念」の形成をめぐる二重照射説だ。この「下からの」というところが、13世紀当時の一種のパラダイムシフトを感じさせる。質料形相論において質料の力が見いだされていくのも13世紀だったし。13世紀に前面に出てくる「下方からの動き」という考え方に、いまひとたび注目していきたいところだ。

投稿者 Masaki : 20:43