2007年07月29日

[古楽] ヘルムート・ヴァルヒャ

5、6年前に文庫で買って、最初のほうをちょろっと読んでそのままになっていた山之口洋『オルガニスト』(新潮文庫)を、つい最近読了(苦笑)。全編にわたってバッハが鳴り響いているような感じの小説だ。おしまいのほうはなんだかSFチックになってしまうけれど、やはり天才的な演奏家の卵を回想していく前半に引き込まれる。オルガンの内部構造の解説や曲についての蘊蓄の数々など、なかなか手の込んだ作品ではある。

……で、こんなのを読むと、やっぱりオルガン曲を聴きたくなるのが人情。ちょうど、最近アルヒーフから出たヘルムート・ヴァルヒャによる『フーガの技法』が手元に。56年の初期のステレオ録音のものを、ヴァルヒャ生誕100年の今年に合わせて復刻したものという。歴史的名盤といわれるだけのことはあって、ほとんど夾雑物のない、純粋なバッハの音楽というイメージの一枚だ。上の小説も、ヴァルヒャあたりは当然念頭にあるだろうし。なるほど、優れたオルガン演奏というものが、なにかこう人間業ではないようにすら思える(小さな人間がオルガンの巨大な筐体を操るというのが、そもそも「人間的でない」のだが)という意味でも、オルガンにはどこかフィクショナルなイメージを喚起する力があるように思える。あるときは天上的、あるときは超人的、あるいときは機械的、というふうに。ちなみに演奏に使われているオルガンは、オランダ・アルクマールの聖ローレンス教会のものとか。

ちなみに上の『オルガニスト』で重要な役割を当てられている「プレリュードとフーガ、ハ短調」(BWV546)は、Naxosライブラリならたとえばハンス・ファギウスの演奏(バッハ・オルガン音楽全集9)などがある。また、印象的に取り上げられている「四つのデュエット」(BWV802-805)は、コロリオフのピアノ演奏などがある。うーん、確かにこれ、オルガンでやったら確かに面白いだろうなあ、と思ってしまう(笑)。

投稿者 Masaki : 22:44

2007年07月26日

知性は偏向する……

ここでもたびたび名前を挙げている12世紀のラビ、マイモニデス。その主著『迷える者への案内の書』を、サロモン・ムンクの仏訳("Le Guide des égarés, Verdier, 1979)で最初から時折眺めているのだけれど、人間知性の限界という章(第1部26章)には、アフロディシアスのアレクサンドロスが人間の不和の原因について述べたものという議論が紹介されている。それによると、アレクサンドロスは、ある種の話題について人の見解が食い違うのは、(1)野心や競争心(認識を曇らせる)、(2)認識対象の問題(細かすぎる、深みがありすぎるなど)、(3)認識する側の問題などがあるからだとしているという。これにマイモニデスは、新たに4つめとして「慣習や教育」を加えている。ベドウィンの例を出して、彼らは野営生活にあまりに慣れてしまったがゆえに、宮殿に定住することに喜びを感じられなくなっているのだと述べ、さらに人は慣れ親しんだ見解しかよしとしないのだ、とも述べている。いやー、耳の痛い話ではある。けれどもマイモニデスの素晴らしいところは、そういった限界は限界として直視した上で、さらに先に進もうとするところ。マイモニデスがこの書物でやろうとしていることは、要するに聖書やトーラーに描かれる神の属性のような部分を、そのままわかりやすさにかこつけって勝手に読み誤読する俗人たちに、そうした属性の問題を指摘していって、超越論的・否定神学的な道に導こうということなのだけれど、なにかその気負いのようなものが迫ってくる感じの文章だ(翻訳だから、その辺はさっぴいて考えないといけないだろうけど)。

それにしても気になるのは、やはり上のアレクサンドロスの引用の出典だったりする(同書には該当箇所に注はなし)。なんかこういう指向性って、まさに上の4番目に該当しそうだが(苦笑)。

[追記:27日]
このアーティクルについて、なんと『ヘルモゲネスを探して』のサイトに情報が!(ありがとうございます。Capopenisolaというのに笑った)。上のアーティクル、26章と書いたのはとんだ勘違いで正確には31章。なるほど出典は"On the cosmos"だったわけか。該当箇所をこちらでも確認。こちらのアラビア語読みがたどたどしいせいで、まださしかかっていないはるか先の箇所だった。それにしてもさすがは大兄、的確なご指摘、そして参考文献もふくめありがたく拝受。

投稿者 Masaki : 22:13

2007年07月23日

ダンテ・クラブ

別に夏休みモードというわけでもないのだけれど(実は結構忙しくなってしまっていたりする)、ここのところ読んいたマシュー・パールの小説『ダンテ・クラブ』(鈴木恵訳、新潮文庫、上下)を読了。19世紀に実在したアメリカの文学者たちが、ダンテの『神曲』地獄編を模した連続殺人事件の探偵役になるという、なかなか味のある趣向のミステリー小説。彼らは『神曲』の翻訳クラブを作っていて、当時のプロテスタント系教会がダンテをどう見ていたかとか、アメリカの文学界がどう保守的だったかとか、南北戦争後の北部地域での黒人警官の描写とか、かなり詳細に調べて描かれている模様で、そういう部分だけでもなかなかに興味深い。それにしても、ミステリー小説だから仕方ないとはいえ、『神曲』の地獄編ばかりをクローズアップするのはちょっとなあ。煉獄編、天国編のほうが作品的・思想的な比重は相当に高いのに……。でもま、小説そのものは、意外なところから引っ張ってきた犯人像や、あからさまなミスリーディング、襲われる探偵役など、なんだかハリウッド映画的なサービス満載で、まあそれはそれで楽しめる。

そういえば探偵役の一人、詩人のロングフェローの屋敷には、ジョットが描いたダンテの肖像があることになっている。ジョットによるダンテの肖像といえば、有名なのは、フィレンツェはバルジェロ宮の礼拝堂にあるフレスコ画。ジョットが作者かどうかは異説もあるようだけれど……。

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投稿者 Masaki : 22:21

2007年07月21日

[古楽] スティレ・アンティコ

英国の若手声楽家グループだというスティレ・アンティコの『終課のための音楽(Music for Compline)』(harmonia mundi)を聴く。内容は16世紀英国の作曲家ら(シェパード、バード、タリス、ホワイト、アストン)による、一日の終りの礼拝で用いられたアンティフォナやレスポンソリウムなどを集めたもの。そんなわけで、若干曲想が同じようなものばかりなので、ややアルバムとしては単調な印象を与えてもいる。けれども、それを補って余りあるのが、このアンサンブルの力量。声の張りやその持続感の素晴らしいこと。重層感あふれる、なかなかに見事なパフォーマンス。ライナーでの紹介では、レパートリーはチュダー王朝時代の英国ものから、フランドル、スペインもの、さらには初期バロックまでカバーしているというから、これからの録音とかも楽しみな感じ。

投稿者 Masaki : 23:46

2007年07月20日

アレクサンドロスの「霊魂論II」

少し前から、アフロディシウスのアレクサンドロスの『霊魂論II(霊魂論補遺)』を読んでいる。イタリアはオルソ社から出ている希伊対訳本("De Anima II (Mantissa)", trad. Paolo Accattino, Edizioni dell'Orso, 2005")。まだ全体の3分の1程度で魂全般の話から視覚論に入ったところなのだけれど、なるほど話に聞く通り、これは実に面白い。テキスト自体は一種の断章の寄せ集めなのだそうだけれど、断章とはいってもそれぞれが長く、意外にかなり細やかな議論が展開している。

そういえばこれもちょっと前に読んだのだけれど、『ケンブリッジ・アラビア哲学必携』("The Cambridge Companion to Arabic Philosophy", Cambridge University Press, 2005)所収の、ロバート・ウィスノヴスキーによる「アヴィセンナとアヴィセンナ的伝統」という章に、アリストテレスの「エンテレケイア」(今ならば「現実化」というふうに解釈されるが)を、初期の注解者たちだったアレクサンドロスやテミスティオスが「テレイオテース」(完成態)の意味に解したのが、その後長い伝統としてアラブ世界にまで受け継がれ、アヴィセンナの解釈にまで流れ込んでいるという話が載っている。それによると、アンモニオス(プロティノスの師匠)派の解釈にいたって、魂は身体の形相因のみならず、作用因、目的因としてまで解釈されるようになるといい、そのそもそもの背景には、アレクサンドロスがエンテレケイアの意味をテレイオテースでもって注釈したことが挙げられるのだという(さらにアラブ世界に入ると、魂の分離、知性の超越などが導かれるという)。で、そのことを念頭にこの『霊魂論II』を読むと、いきなりちょっとつまづく感じに(苦笑)。なるほど、確かにアレクサンドロスはエンテレケイアを形相としての完成体(かたちを伴った実体)の意味に取っているようではあるのだけれど、やはりその場合の完成体は、可能態が現実態になったものという意味であるのは明らかで、テレイオテースは単語として何度か出てくるけれど、全体としてそちらの意味に強く傾いている感じではないように思えるのだが……。うーん、テミスティオスはこのあたりどうなのか。ちょっと確認しないと。

投稿者 Masaki : 00:01

2007年07月16日

生物と無生物のあいだ

10時15分ごろ、東京でも微妙な横揺れが感じられた。波長が長めの横揺れという感じで、なんだかめまいでも起こしたかのように部屋が動いた。まさか震源が再び新潟だとは思わなかった……。

昨日は福岡伸一『生物と無生物のあいだ』(講談社現代新書)を読了。なんだか「あいだ」続きという感じだが(木村敏ではないけれど(笑))、これはこのところよく売れている本らしい。理系分野の研究者による一般向け啓蒙書は面白いものが多い。生物学分野はなおさら。昔も多田富雄『免疫の意味論』(青土社、1993)なんて名著があったっけなあ、と。で、今回のこれもまた、ロックフェラー大学の野口英世像から話が始まり、野口英世もはまったという病原体特定プロセスの陥穽、ウィルス発見の話、DNAにまつわる発見の虚実、秩序と流れの話、細胞膜の不思議などなど、著者の個人的な体験やら歴史から消えかかっている人々の肖像やらを交えて飽きさせることなく進んでいく。全体を貫くのは「生命とは要素が集合してできた構成物ではなく、要素の流れがもたらすところの効果なのである」といったスタンス。それにしても、こういう本を眺めると、現代の科学者も、特に生命科学などの場合、持ち出してくる道具立て(理論や体系、観察方法、機材など)こそ根本的に違いはするものの、生命現象のおおもとをなんとか記述しようとする取り組みそのものの基本姿勢だけは、中世の神学の時代からそれほど変わっていないのかもしれないなんて思ったりもする……。そんな意味でも楽しい読書体験。

そういえば、途中、著者が勤務していたハーバード大医学部近くのイザベラ・スチュワート・ガーディナー美術館から、フェルメールの絵画『合奏』が盗まれた話に触れられている。『合奏』はフェルメールの絵画で唯一、今なお行方知れずのままなのだという。下に掲げておこう。

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投稿者 Masaki : 23:12

2007年07月15日

中世と近世のあいだ

ちょっと値の張るものの、壮観な執筆陣で読ませる『中世と近世のあいだ--14世紀におけるスコラ学と神秘思想』(上智大学中世思想研究所編、知泉書館)。早速購入しざっと目を通す。以前は創文社から出ていたシリーズの続きだと思われる。今回は中世から近世への橋渡しとなる14世紀の思想の諸相をまとめた一冊。まず第一部「宗教・神秘思想」では、取り上げられる思想家として、ダンテ、ルルス、フライベルクのディートリヒ、マイスター・エックハルトなどの馴染みの名に加えて、ハインリヒ・ゾイゼ、ザクセンのルドルフス、リュースブルクといった馴染みの薄い思想家の話が続く。第二部「スコラ学・自然学思想」では、とりわけオッカムとの論争を展開する14世紀のスコトゥス派についての論(渋谷克美氏)や、オッカムの後継者とされてきたアダム・デ・ヴィデハムの概説(稲垣良典氏)が面白い。オッカムの形象不要論をまとめた論もあって、これも整理としては興味深いが、こう見てくると、オッカムの「革新性」を描き出すことももちろん重要ながら、なにゆえにオッカムがそうした形象(スペキエス)を不要と考えるようになったというプロセスのほうがえらく気になってくる。このあたりは、オッカムの生涯や作品といったスタンダードな評伝的アプローチでもかけないと明らかにならないものかもしれないなあ、と。

とはいえ、オッカムを取り巻いていた大まかな枠組みの変化についてのヒントは、所収論文の一つ、山下正男「十四世紀の論理学」あたりにあるのかもしれない。中世の論理学の特徴を明らかにするために、現代の論理学との比較にまで言及したこの論考では、アリストテレスが論理学は普遍のみを扱うと考えていたのに対して、中世論理学は三段論法に個を混入する(全称命題を単称命題の連言とする)という革新をなしているのだという。しかし問題だったのは、現代の論理学なら個体変項(XとかYとか)を用いるところに、あくまで名辞を用い続けたことにあり、それが中世論理学の失敗を導いたのだという。三段論法に個を入れ、その個を名辞で表すがゆえに、その個の解釈をめぐって普遍の問題が生じ、ひいては普遍論争が引き起こされる。オッカムの代示理論などはそのあたりをめぐる苦肉の策だったのかもしれない……。

ほかにも、三浦伸夫「十四世紀の運動論」はオックスフォード大学の自然学研究の特徴を描いている。すると気になってくるのは、同時代のもう一つの自然学研究の中心、パリ大学の動きだ。このあたりは文献を探してみたいと思う。さらに、久松英二「十四世紀ビザンツの哲学的・神学的状況」と、J. フィルハウス「十四・十五世紀西欧の学問へのビザンツの影響」は、それぞれ、あまり馴染みのないヘシュカズム思想のまとめと、14〜15世紀のギリシア語学習・ギリシア語文献整備のまとめで、どちらもとても参考になった。とくに、両者のいずれにも登場するカラブリアのバルラアム(ペトラルカにギリシア語の初歩を手ほどきした人物。唯名論的不可知論を唱え、ヘシュカズムの体系化につくしたパラマスとの論争に巻き込まれて、後にカトリックに改宗)はちょっと面白そうではある。

投稿者 Masaki : 22:53

2007年07月13日

[古楽] ハッセの「蛇」

ハッセ『荒野に燃え立つ蛇(Serpentes ignei in deserto)』(Ambronay)を聞く。演奏はジェローム・コレアス指揮のレ・パラダンという古楽団体と、ヴァレリー・ガベイユ(ソプラノ)ほか。ヨハン・アドルフ・ハッセ(1699〜1783)はN.ボルポラとA.スカルラッティに師事し、まずはイタリアで認められ、それからドレスデンの宮廷歌劇の監督になった人物。この『荒野に燃え立つ蛇』は、イタリアでの名声が広まった1735年ごろ、ないし39年ごろの作とされているようだ。ソプラノ、メゾソプラノ、アルト、カウンターテナーという歌手の布陣で、高音域の華やかなパフォーマンス。曲想も明るく明朗で、粒の揃ったアリアの数々は、聞き覚えのあるような旋律が次々に繰り出される。全体的に快活な印象だ。テキストは『民数記』にもとづくもので、エジプト脱出途中にモーセに不満を漏らした民が、神の放った炎の蛇で命を落とし、後に悔悛した民が神の命令でブロンズの蛇を竿につけさせた(それを見ると、蛇に噛まれても命を落とさない)というエピソードは、ライナーによると反宗教改革期に悔悛とキリストの暗示ということで、数々のオラトリオに採択されたのだという。で、そのテーマは図像にも盛んに取り込まれていたのだそうで、代表作はジャンベッタ・ティエポロのフレスコ画『蛇の災禍』(1735)だという。

というわけで、現在はアカデミア・ギャラリー所蔵のその絵の一部を。
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投稿者 Masaki : 23:40

2007年07月10日

スコトゥス、ライプニッツ

少し前に取り上げた『大航海』No.62で、「このもの性」の系譜をスコトゥスからアヴィセンナ、アフロディシウスのアレクサンドロスにまで遡ってみせた山内志朗氏の小論は実に意義深いものだったけれど、水声通信No.17(特集:蘇るライプニッツ)所収の座談会でも、ライプニッツの実在論ということで気炎を上げている。みずからの学問的な歩みを振り返りながらの発言で、アラビア語習得のために『普遍論争』の続編を棚上げにしてまで丸10年をかけた、というくだりが素晴らしすぎる(やや自嘲的に、アヴィセンナの『形而上学』の英訳がもっと早くからあれば、アラビア語に浸からなくてよかったのに、みたいなことを述べていらっしゃるが、それはご愛敬というもの)。中世の思想へとダイヴするなら、やはりアラビア語も読めるに越したことはないわけで。

ちょうど蔵出しで、山内氏の「ドゥルーズの中のドゥンス・スコトゥス」が載った『現代思想』1996年1月号(緊急特集--ジル・ドゥルーズ)を読み返す。「存在の一義性」の再評価・再解釈に際して、ドゥルーズはジルソンの解釈を通じてスコトゥスに接近していたのではないか、という話。うーん、やはり恐るべしはエティエンヌ・ジルソン……か。ついでに山内志朗『天使の記号学』(岩波書店、2001)も引っ張り出して部分的に読み直す。そこで語られていた、存在論が「本質」の展開(生成)プロセスの切断面として捉えられるという話が、上の座談会の発言にも息づいていることを確認。なるほど、ライプニッツもスコトゥスの系譜の上にあるわけか。

投稿者 Masaki : 23:51

2007年07月07日

蔵出し

転居してからというもの、トランクルームに預けていた荷物を少しづつ搬送し整理してきて、ようやくそのトランクルームを解約できるところまできた。まあ、大半は書籍(というか紙というか)なのだけれど、学生時代からたまっていたものを、売り、捨て、温存に分類する作業。実に久しぶりで、ある意味とても楽しい作業だった。今となっては不要なものもいろいろ(昔の映画関係本とかマンガ、コンピュータプログラミング本など)。懐かしい書籍もいろいろ(丸山桂三郎などの記号論関連本など)。積ん読のままだったものなどもいろいろ(頭の数ページしか読んでいない仏語の小説とか)。今にして思うと、重要なものって大してないかも(苦笑)。

とはいえ、懐かしいものが出てくると、ついつい取りのけて部分的に読んでしまう。先頃亡くなられた今村仁司『暴力のオントロギー』『労働のオントロギー』『排除の構造』などとか、『現代思想』1985年4月号の後期レヴィ=ストロース特集とか(クレティアン・ド・トロワからワーグナーまで、と題されたパルシファル論などは今読んでも面白い)、すっかり忘れていたジュリア・クリステヴァの『愛の歴史』(Histores d'amour", Denoël, 1983)とか(「スターバト・マーテル」というタイトルのマリア信仰を扱った論考や、トルバドゥールの歌に関する論考があった。昔は見過ごしていた)。ロラン・バルトの『旧修辞学』(沢崎浩平訳、みすず書房)も(これなどは、数あるバルト本の中でも数少ない、後々まで読みうるものの一つだと思う。2005年に再版されているんだね)。もっと最近のでは、平野啓一郎のデビュー作『日蝕』が掲載された文藝春秋とかも出てきた。ずいぶん前かと思いきや、1999年だったのか。これ、今ちらちら読み直しても実によく調べて書かれている。いや〜、たまに蔵出しするのは結構刺激的だったりする。そのことを改めて実感。

投稿者 Masaki : 23:42

2007年07月04日

文庫版が別タイトル

最近のミス。池上俊一『イタリア・ルネサンス再考』(講談社学芸文庫)というのをオンライン書店で購入したのだが……これって同じ著者の『万能人とメディチ家の世紀』(講談社選書メチエ)と同じもの。うーん、文庫化に際してタイトルを変えるというのはややこしいのでやめてほしいんだけどなあ。まあ、実際の書店で手にとればわかるとはいえ、オンライン購入ではこういうミスもありうるので……。同じように、甚野尚志『中世ヨーロッパの社会観』(講談社学芸文庫)は、同著者の『隠喩のなかの中世--西欧中世における隠喩表徴の研究』(弘文堂)。こちらは蜜蜂、建造物、人体、チェス盤などの比喩に託された中世の社会観、階級思想を説き明かすもので、とりわけ三章めの国家と人体の比喩を丁寧に追った論考が個人的にはとても参考になった。とりわけ、12世紀と13世紀(以降)では、同じような比喩を用いていても決定的に思想の枠組みが違っていた、というあたり。あとは終章に記された中世の地図の変遷などなど。

投稿者 Masaki : 00:08

2007年07月02日

[古楽] リュート三昧……には遠いが

昨日1日はリュートの師匠による毎年恒例の講習会へ。今年は2年ぶりの受講。念願のバロックリュートを人前デビューさせるのが目的(といっても、バロックはまだ2年足らずなので、弾きこなすにはほど遠く、道は長いが……)。受講曲は「Ouvrez-moy la porte, petite Nannon」という作者不明の小品。クーラント系。タイトルにいうナノンというは何だろう?古仏語辞書には見あたらず、固有名詞なのかなと。これ、先のキルヒホフのCDに同名の曲が収録されているが、タブラチュラが違う感じ。ま、こちらが使っているのはTREE Editionの初級者向け"32 Easy pieces for Baroque Lute"からの譜なので、弾きやすいアレンジとかなのかもしれないけれど。今回の講習会、受講申し込みが直前の滑り込みだったので、ちょっと練習時間足りず、やや難ありだったけれど、とりあえずバロックリュートをさらすという当初の目標は果たせたのでよしとしよう(笑)。

最近購入したバロックリュート用のミラクルケース(超軽量だ)との記念写真を挙げておこうっと。左がそのケース。

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で、明けて今日はイベント翌日恒例のCD聞き。少し前に購入したマチュー・ワズワース演奏の『マスターズ・オブ・ザ・リュート(Masters of the lute)』を聴く……が、個人的に事前の期待がちょっと大きすぎたのか、演奏は端正なものの、どこか訴えてくるものがあまりない。ちょっと残念か。収録曲はダウランド、カプスベルガー、ピッチーニ、ド・ヴィゼーほか。上の講習会で別の方が弾いてらしたフランシス・カッティング版「グリーンスリーヴス」が収録されているのがちょっと耳新しい感じ。あと、ピッチーニあたりが個人的には好みか。

投稿者 Masaki : 23:45