2007年09月30日

「肉食の思想」

何気なく読んでみたら、意外に刺激的だったのが鯖田豊之『肉食の思想--ヨーロッパ精神の再発見』(中公文庫)。もとは1966年の中公新書。概説書の体裁ながら、これはまさしく歴史人類学。肉食という現象をベースに、それが支えるヨーロッパ的意識(個人や社会の)へとアプローチをしかけていくというもの。著者は西欧中世史を専門とする歴史家だった人物。同書が冒頭で述べているように、いくら日本の生活様式が西欧化しているとはいえ、ヨーロッパの肉食に比べればお遊びのようなものだということは、多少とも旅行でもしてみれば実に如実にわかる。フランスの肉屋なんて羊の脳みそとかあって、結構グロかったりするしね。で、この本、まずはそのヨーロッパの肉食が、そもそも主食と副食を区別しない食事習慣(パンは西欧では主食ではないという話)に根ざすものではないか、西欧で肉食が必ずしも贅沢とならないのは、放牧に適した植物相がふんだんにあるからではないか、といった話を若干の傍証データを引きながら論じ(データは多少古くなっているけれど)、そこから話は「農業」概念の違い、食用の動物殺害を支える人間中心主義の思想、さらにそこから導かれる階級的意識の現れ(それは社会の構成にも敷衍される?)、そして近代化を下支えするものなどへと次々に拡大していく。このあたりの話の流れはちょっと圧巻か。なるほど個別の議論は精査を要するものもあるだろうけれど、この大局的な見取り図はなかなかに刺激的だ。食という一種の下部構造が、社会的意識という上部構造を織りなしていくといったあたりは、確かに具体的なデータでもって論証するのは難しいものの、歴史記述へのオルタナティブなアプローチとしては面白いものになりうるかもしれないなあ、と(もはや死語になった感じもあるメディオロジーにも通じる部分だ)。

投稿者 Masaki : 21:39

2007年09月29日

[古楽] ルニャール

このところ聴き惚れている感じなのが、チンクエチェントによるルニャール『オエニアーデのニンフにもとづくミサ曲(Missa super Oeniades Nymphae)』。ヤコブ・ルニャール(1540前半〜1599)は16世紀のフランドル楽派の一人。ライナーによると、なんでも音楽一家だそうで、ルニャールを含む5人の兄弟はいずれも各地の宮廷(おもにハプスブルク家ゆかりの)に仕えているという。ヤコブはちょうどラッススと同世代で、境遇的にも似通っているという。既知の間柄でもあったらしい。さすがにラッススに比べると知名度は低いものの、ルニャールの曲はなんとなくラッススよりもどこか鷹揚な(華やいだ?)印象を受けたのだけれど、ライナーによるとルニャールのほうがラッススよりも保守的なアプローチを取っているのだそうだ。

表題作はいわゆるパロディ・ミサ。もとの「オエニアーデのニンフ」は人文主義的な詩による世俗曲だろうとのことだけれど、すでに散逸しているのだという。CDには、ほかにもいくつかの小品が収録されていて、どれもなかなかに美しい旋律。演奏のチンクエチェントは男性6人から成る声楽グループだそうで、今後も期待される一団。全員出身国が違うというのが面白いかも(笑)。

ジャケット絵は、なんだか久々のアルチンボルド。なるほどアルチンボルドもルニャールの同世代人。マクシミリアン2世やルドルフ2世に仕えたあたりも共通しているわけか。これは四大元素シリーズから『火』。ウィーン美術史美術館所蔵。
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投稿者 Masaki : 23:54

2007年09月27日

大地のノモス

アガンベンの「例外状態」論あたりのおかげなのだろうけれど、カール・シュミットの再評価が続いている感じ。著作集の一巻目も出たし、『大地のノモス』も近々邦訳が出るという話だし。で、そんなわけで一足早く原典版(C. Schmitt, "Der Nomos der Erde", Dunker & Humblot, 1950-97)のほうを読み始める。研究論文のようなお堅いドイツ語ではない、とても軽快な感じのする文章。とりあえず第一部。基本的な議論は、地理的な空間の制覇と秩序化が、結果としてその空間内部の秩序(たとえば民族=国民の)を、権威の構造を導くというもので、それをノモスという概念でもってまとめ上げている。個人的にも、そのあたりの秩序化の作用というのにはとても興味があるところ。シュミットの論はとても大局的な見方で、なんとなくいかにも大陸的な思考という感じがするのだけれど、それはそれとしてなかなか面白い。空間の秩序立てと、それを司る政体の権威との微細な狭間が、なんだかこういう論からは浮かび上がってきそうな感じ。でもまあ、個人的にはより具体的な細かい話も見たいところ。たとえばキリスト教。中世にはすでにできあがっていた教区の成立事情などの研究も(おそらくそれは、上の狭間に位置するものじゃないかと思うのだけれど)、そういえば個人的な読みたいリストに載っけてあったのだが……。

投稿者 Masaki : 23:49

2007年09月24日

原子論の胚胎?

Amazon.comのリコメンドは、ときおり変なお勧めを表示する。で、つられて購入した一冊がW. R. ニューマン『原子と錬金術』("Atoms and Alchemy - chymistry & the experimental origins of the scientific revolution, University of Chicago Press, 2006)。見たら、17世紀のゼンネルトとボイルを主に扱った論考で、個人的にはいずれについても、さしあたりそれほど関心はないけれど、それでも前史を扱った第一部は結構面白く読めた。中世の錬金術書で偽ゲーベル文書とされる『完徳大全』(Summa perfectionis)が、鉱物生成の議論の絡みで、粒子とそれが満たす空隙という議論を展開しているのだという。で、これがアリストテレス『気象論』の第4書の議論をベースにしたものだという話。問題となるのは『気象論』に出てくるπόρος(間隙)とὄγκος(かたまり=粒子)の話。それらが結合するというくだり(第4書、8章)が、その後の錬金術的な議論をインスパイアしたのでは、ということのようだ。ニューマン(著名な科学史家)は偽ゲーベルの『完徳大全』の校注版とか出しているけれど、結構高価なのでちょっとすぐには入手できないが、なるほどこれはなかなか面白そうではある。ちょうど個人的にこのところ進めているアフロディシアスのアレクサンドロスの注解書読みでも、『自然学注解』をひとまず置いて『気象論注解』の冒頭を眺めていたところなので、この第4書あたりのところがどんなふうになっているか見てみることにしよう。

投稿者 Masaki : 22:58

2007年09月22日

絵と記憶

先日、用事のついでに渋谷東急文化村の「ヴェネツィア絵画のきらめき」展を観た。16世紀のルネサンス絵画と、18世紀のバロック絵画の二本立てという感じの趣向。バロック絵画では、カナレットのヴェネチアの風景画とかに期待していたのだけれど、わずか2点だけ(苦笑)。それより後の時代だというガブリエル・ベッラの絵がずらずら並んでいたのだけれど、描写としてはやはりカナレットやベロットなどの方がうまい感じがする。ルネサンス絵画はティツィアーノやティントレットは宣伝ほど多くなく(「洗礼者ヨハネの首をもつサロメ」、「愛の始まりの寓意」など)、こちらもちょっと(笑)。でもいくつか、家系図や統治者の系図を木に例えた図などもあって、そうした伝統的意匠がなかなかに面白い。こういうものを見せられると、絵画の構成・技術・インパクトなどに注目するせいでつい後ろに斥けられてしまう、絵画もまた記憶のための補助手段だという当たり前の話が、唐突に前面に舞い戻ってくる。ま、そのあたりの意識の往還を味わうのが、ルネサンス絵画の楽しみだったりするわけだけれど。

ちょうど、リナ・ボルツォーニ『記憶の部屋--印刷時代の文学的・図像学的モデル』(足達薫、伊藤博明訳、ありな書房)に目を通し始めたところ。いきなり、アカデミア・ヴェネツィアーナの話から始まっている(第1章)。第2章は系統樹の話。幾何学と形象との間でのぶれは、古代以来の伝統をも背負い込んでいる?なるほど、16世紀の前史としての中世か。というわけでこの書、中世を考えるためのヒント本としてスキャンしようかと。

同書の口絵の最初を飾る、ティツィアーノ『叡智の擬人像』を。
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投稿者 Masaki : 22:34

2007年09月19日

[古楽] ナルバエス

習い事として7年目のルネサンスリュート。春くらいからはナルバエス「皇帝の歌」(ジョスカンの"Mille regrets")、夏前からはムダーラの「ファンタシア」など、このところスペインのビウエラ曲(本来は)を練習中。とはいえあまり上達はしていないが(苦笑)、やっぱり大陸ものはむちゃくちゃ良いなあと改めて思ったり……。で、そんな中、ナルバエスをギターで(ま、チェンバロ曲をピアノで弾くのと同じように、ビウエラ曲をギターで弾くのももちろんありなのだが)弾いている新譜を見つける。パブロ・マルケスによる『皇太子の音楽(Musica del Delphin)』(EMC NEW SERIES)。1538年に刊行された「ビウエラ演奏のための皇太子(デルフィン)の六巻の数字譜本(Los seys libros del Delphin de musica de cifra para taner vihuela)」から、「皇帝の歌」をも含む17曲を選んで収録している。表題のデルフィンは、ナルバエスが宮廷で仕えていたフェリペ皇太子(フェリペ2世)のことだろう。演奏はというと、大陸的な哀調はずいぶん抑え気味だし、ところどころギターっぽさもあるものの、全体的にはビウエラの雰囲気を創り上げていて割と好感。それにしても「皇帝の歌」のこのアップテンポはちょっと……(笑)(でも、いつぞやのホプキンソン・スミスの演奏なども結構速いテンポだったように記憶しているし、まあ、そういうのもありなのだろう)。でもこれを聴いて、やはり改めて、ナルバエスやムダーラはしばらく個人的にちゃんと取り組みたいと思った(下手でも!)。そのうちビウエラも入手したいよなあ。

投稿者 Masaki : 19:56

2007年09月18日

ゼーモン・デーヴィス

えらく久々に、ナタリー・ゼーモン・デーヴィスを読む。『贈与の文化史--16世紀フランスにおける』(宮下志朗訳、みすず書房)。モースなどの贈与についての論が、市場経済の前段階的な位置づけであるのに対して、ゼーモン・デーヴィスは、むしろそれが市場経済と併存する様に注目し、そうした贈与が担う社会的意味を説き明かそうとする。で、そのために選ばれた舞台が、ゼーモン・デーヴィスお得意の16世紀フランスというわけだ。昔、『初期近代フランスの社会と文化』の仏訳本とか読んだけれど、この民衆史的なアプローチ、縦横に繰り出される事例の数々は今も変わらない。「贈与と神々」と題された7章がハイライトで、カトリックとプロテスタントの対立を、贈与をめぐる立場の争いと見るのは秀逸。で、これを読んで思うのは、宗教システムが贈与に立脚することの意味合いは、もっと思想史的な面で深いところに探ってもよさそうに見えること。互酬とはちがう絶対的な贈与を、人がどうもてあますのか、なんていう視点から神学論とか見たら、また違って見えそうな気がする、と。

投稿者 Masaki : 12:19

2007年09月15日

『一般性の技法』から

アラン・ド・リベラの『一般性の技法--抽象化の理論』(A.de Libera, "L'art des généralité - théorie de l'abstraction", Aubier, 1999)をこのところ読み出した。以前の『普遍論争』("La querelle des universaux", Seuil, 1996)をある意味補完する内容で、今回は古代末期から中世までの捨象(抽象化)をめぐる理論を検討するというもの。アフロディシアスのアレクサンドロスから始まって、ボエティウス、アベラール、アヴィセンナをめぐっていく模様。まだ最初の章のアレクサンドロスのところしか読んでいないが、なかなかにして刺激的な内容。主にアレクサンドロスの"Questiones"のいくつかの断章をもとに、唯名論の先駆的な思想を読み取れないかと、やや哲学史的にも大胆な仮説を検討していく。議論の大きな比重を占めているのは、Questionesの断章1.11。概略だけメモしておくと、類が消去されればその類を構成している種も消去されるかどうかという問題を問うと、後世において普遍と言われるものが、個物に先行するのか(新プラトン主義的に)それとも後から来るのか(逍遙学派的に)という立場がわかれ、また、そもそも類をどのようなものとして扱うのかという問題が導かれてくる。複数の個物にまたがる共通性とするのか、それとも普遍概念とするのか、両者は重なるものなのかどうか云々。ド・リベラは、アレクサンドロスがそうした共通性と普遍概念を分けて考えていたという説(近年の研究としてはピネスという研究者が提唱する説だということだが、ド・リベラによると、ポルピュリオスによるアレクサンドロス批判の中にもそうした考えの一端が読み取れるのだという)を取り、Questionesのほかの部分を傍証として、唯名論的な系譜の発端をそこに見ようと奮闘している。この議論展開そのものはちょっと面白いので、さしあたり押さえておくことにしよう。でもま、"Questiones"そのもののアトリビュートが真正ではないかもしれないという話もあるわけで、このあたりは微妙なところかも。あと、ド・リベラも参照している、シャープルズによる"Questiones"の英訳("Questiones 1.1-2.15", trad. R.W. Sharples, Cornel University Press, 1992)は、割とはっきりくっきりととした訳なのだけれど、時折、ちょっと原文と突き合わせて見たいよなあ、と思えたりもする。

投稿者 Masaki : 23:28

2007年09月11日

第4回十字軍と現代

9.11の季節がまためぐってきた。アメリカを中心とする自由世界が大きくコースを逸れた転換点として記憶されるべきあのテロだけれど、いまから振り返っても、その後の展開はまさに驚くほどの急展開だったように思う……。その余波はまだまだ続いて止まない(日本でも特措法をどうするかという話が再び大きく取り上げられているが)。

歴史というか、その記述の大きな部分を占める戦は、為政者たちの様々な思惑で当初の目的とは全然異なる方向へと逸脱していくことがある……というか、そういう逸脱はむしろ折り込み済みで、下手をするとやはり戦そのもの、暴力そのものに内在する無軌道性のなせる業なのかもしれない、というようなことを思う。いい例がこの9.11以降の「対テロ戦争」だし、別の例がたとえば第4回十字軍などだ。夏休み読書の一環として読んでいたジョナサン・フィリップス『第四の十字軍--コンスタンティノポリス略奪の真実』(野中邦子ほか訳、中央公論新社)は、聖地を目指して組織されたはずの4回目の十字軍が、いかに為政者たちの思惑に引きずられ、また数々のボタンの掛け違えをへて、こともあろうに同じキリスト教徒の町コンスタンティノポリスを攻撃して終結してしまうかを、実に詳細に描いた読み応え十分の歴史ルポ。著者はロンドン大学で中世史の教鞭を執る上級講師だそうで、一方でメディアにも露出している人気の若手歴史家とか。この邦訳は中公インサイド・ヒストリーズという翻訳シリーズの一つということだ。それにしてもこの第4回十字軍の逸脱、そもそもは、十字軍側が地中海を渡るための援助をヴェネチアに求めた際、その使節たちが軍の総勢数の試算を完全に誤り、かなりのざる勘定で契約を結んでしまうのが発端。十分な数が集まらなくては、ヴェネチア側に対する借金を負うことになってしまう。で、実際にそういう事態になり、すると今度は商業拠点の確保を図りたいヴェネチア側が、契約を盾にとって、債務返済の手助けと称し、ダルマティア地方ザラの攻略を持ちかける。さらに、ビザンティンを追われた皇帝の息子で、帝位継承権を主張するアレクシオス皇子なる人物がからみ、事態はさらに思わぬ方向へと横滑りしていく……。金銭、商業、権利、覇権と、絡んでくる政治的要素は今も昔も変わらない。逸脱をとめる機会はどこかになかったのか、と問うてみると、それはそのまま現代世界の状況にも重なってくる。事態が大きく展開してからは様々な駆け引きでがんじがらめになって身動きが取れなくなる。歯止めは後にしたがって難しくなっていく……。で、そうした教訓がいくらあっても活かされないところに、なにやらもっと不明瞭で陰湿な、人間の実存に関わる「原動力」が感じられたりもするわけだが……。

同書の表紙を飾るドラクロワの『十字軍のコンスタンティノポリスへの入城』を。

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投稿者 Masaki : 23:01

2007年09月09日

[古楽] またもプロムス……&スカルラッティ

プロムスも現地8日でラストナイトとなったようだけれど、なにしろBBCの放送を遡って聴けることを知ったため、以来ちょっと聴きまくり(笑)。古楽関連では、8月23日の、オーケストラ・オブ・エイジ・オブ・エンライトンメントとフライブルク・バロック・オーケストラの競演もなかなか面白い企画(プロムス52)。紹介ページはこちら。レイチェル・ポッジャーとゴットフリート・フォン・デル・ゴルツがそれぞれ指揮およびバイオリンで競演している。ヘンデルの「二つのバイオリン、管弦楽、通奏低音のための協奏曲ト長調」、パーセルの舞曲のアレンジ、再びヘンデルの小品、後半はテレマンの「二つのバイオリン、管弦楽、通奏低音のための組曲ト短調」、そして締めは二大オーケストラによるヘンデル「王宮の花火の音楽」で華やかなフィナーレ。ヘンデルの直球的なわかりやすい旋律と、パーセルやテレマンの快活に踊る音たちとの対比が妙に面白い趣向。休憩を挟んで2時間40分(休憩中は別番組が挿入される)だけれど、お祭りの華やいだ気分を満喫できる。

もう一つ、最近断片的によくかけているのが、渡邉順生演奏の『クリフトフォリ・ピアノで弾くスカルラッティ・ソナタ集』(ALM records、ALCD-1096)。今年はドメニコ・スカルラッティの没後250年だということで、7月23日の命日を中心に1ヶ月ほど、東京のイタリア文化会館などでスカルラッティ音楽祭が開かれたりしたようだけれど、ちょっと予定が合わなくて聴きにいけなかった。で、せめてもの埋め合わせに、このソナタ集を購入したわけだけれど、これ、1726年製作のクリストフォリ(ピアノのハンマーを初めて考案した人物)のピアノのレプリカで録音したというめずらしいもの。スカルラッティのソナタというとチェンバロものが普通だと思うけれど、たしかにこれ、チェンバロよりも音量的に豊かな感じはする。曲自体はどれも華やいだ雰囲気漂うものなので、そのあたりがいっそう引き立つ感じか。なんかこれも、残暑の暑気払いにはなかなかよい一枚かも(笑)。

投稿者 Masaki : 20:35

2007年09月07日

[古楽] BCJ at プロムス

昨晩は台風通過で、まるでパヴァロッティの死を悼むかのような(というわけでもないだろうが)大荒れの東京。一夜明けての今日、午後になったらなんだかえらく穏やかだ……。さてさて本題は英国の夏好例のお祭り、プロムス。今年は鈴木雅明率いるバッハ・コレギウム・ジャパン(BCJ)も参加という話だったのだけれど、8月上旬の放送のストリーミングはBBCの公式サイトからは一週間で引っ込められてしまい、後から知って口惜しい思いをしていた。ところが、なんとこれ、ramファイルはちゃんと残っていることが判明。プロムスでの番号さえわかれば今のところまだ聞けるではないか!BCJは34番。ということで、リアルプレーヤーがインストールしてある環境で、ブラウザでhttp://www.bbc.co.uk/proms/2007/rams/prom34.ramを直接たたけばよい。プレーヤーのエラーが出ても、気にせずエラーメッセージを閉じて再生ボタンを押せば……ちゃーんと聴けてしまう。これはめちゃ嬉しい。BCJはしばらくご無沙汰だが、この録音を聴くと、かつてのBCJ節みたいなものはすっかり円熟味に変わっていて、なんだか「音のある静謐さ」の次元にまで差し掛かっているような案配。こういう矛盾形容を誘うものこそ、演奏のある種の理想型かもしれないなあ、と。曲目はバッハのカンタータ「わが魂なるイエスよ」(BWV78)、「心せよ、汝の敬神偽りならざるか」(BWV179)、「われは彼の名を告げん」(BWV200)、そして「ミサ曲ト長調」(BWV236)。どれも珠玉の演奏。いや〜、そのうちまたぜひ生演奏で聴きたい。

投稿者 Masaki : 14:48

2007年09月06日

初期注解者たちは面白い

この夏はアフロディシアスのアレクサンドロスの『霊魂論補遺(Mantissa)』と、テミスティオスの『霊魂論パラフレーズ』の核心部分を読んできたが、今度はこれに続き、やはりアレクサンドロスの『形而上学注解』(これもGallicaで落としてきたもの)の重要箇所に取りかかっている(第3巻)。「一」を中心として「多」が織りなされていくという議論などは、確かに存在と本質の区分(アヴィセンナなど)といった論を先取りしたもののように読める。「一」というのはこの場合、どうやら同一の類に属する複数の事物の共通本性らしく、しかもそれによってそもそも「類」が成立する、という話になっているようだ。うーん、この存在論と論理学とのかなり絶妙な「間」がなんとも悩ましい(笑)。ま、もうちょっと読み進めてみよう、と。

そしてにしてもこのところ、初期注解者たちの重要性を指摘する文言にやたら目がいく。ガーシュ&ホエネン編纂の『中世のプラトン的伝統』("The Platonic Tradition in the Middle Ages", ed. S. Gersh & M.Hoenen, Walter de Gruyter, 2002)なんていう論集に、この1ヶ月ほどずらずらっと目を通してみたのだけれど、たとえば「アクィナスとプラトン主義者たち」という論考(W.J. Hankey, 'Aquinas and the Platonists')とか見ると、アレクサンドロスやテミスティオスのほか、ピロポノスやアンモニウスなどもトマスのソースとしてそこそこ重要であるみたいな指摘が目に付く。アレクサンドロスについても、アヴェロエスの解釈への反論としてトマスが援用していることなども指摘されている(p.293)。1260年にメルベケによってラテン語に訳された『感覚について』だそうだ。著作全体で94回の言及があるんだとか(ん?それって比較的多いと言いたんだよね、きっと)。やはりそのあたり、時間をかけても吟味していきたい気がする。

ちなみにこの論集、基本的にプラトン思想が中世にどう伝わっていたかを、ソースの問題を中心に議論する論考を集めてたもので、それぞれ読み応えがある。とくに中世初期に関しては、やはり『ティマイオス』の周辺の重要性が際立つ……以前取り上げた『文化イコンとしてのティマイオス』よりも、こちらの論集のほうがはるかにカバーする範囲も広く、読み応えあり(お値段も……苦笑)。

投稿者 Masaki : 13:32

2007年09月04日

久々にスコトゥス

ジルソンのスコトゥス論に啓発される感じで、改めてドゥンス・スコトゥスの重要なテキストを読み直しているところ。羅独対訳本で出ている『認識と偶有をめぐるパリ講義』(Johannes Duns Scotus, "Pariser Vorlesungen über Wissen und Kontingenz", Verlag Herder, 2005)。"Reportatio Parisiensis"から、問題 I 38-44という偶有や神の全能性などについて論じた重要箇所の抜粋だ。なるほど、先のジルソンのまとめがなかなか端的であることがよくわかる。ジルソンのスコトゥス論は、『差異と反復』のドゥルーズに影響したとかなんとか言われるけれど(その『差異と反復』は邦訳が近々文庫化されるという話)、そのあたりの具体的な話はよく知らないが、ジルソンの本文だけでもいろいろと興味深い点が多い。これとスコトゥスの大元のテキストを合わせて読んでいくというのはなかなか楽しい。一見やさしげに見えるラテン語だけれど、論理学と存在論と神学的なコンテキストが錯綜するあたり、迷宮の端緒に足を踏み入れるような、ちょっと高揚する感覚を味わえる(と思う)。全般に言えることだけれど中世の神学・哲学のテキストも、文体論的な観点を交えると、なんだか面白い問題が描けそうにも思えてくるのだけれど……。

投稿者 Masaki : 20:14