2007年10月29日

[メモ]中世イスラム哲学史

クリスティーナ・ダンコーナ編の2巻本『中世イスラム哲学史』("Storia della filosofia nell'Islam medievale", 1 & 2, Picolla Bibliotheca Einaudi, 2005)。まずは1巻目からいくつか論考を読んでみた。どれも力作ぞろいで、アラビア思想圏の豊かさをパノラマ的に見る思いがする。最初は編者ダンコーナ氏の「古代末期の哲学と『ファルサファ』の形成」。プロティノス以後の新プラトン主義思想がアラブ世界でどう受け入れられていくかを総論的に辿ったもの。特にコスモロジー関係の受容についてまとめられている。個人的には、注解者の一人フィロポノスの重要性というのが目を惹いた。で、ファルサファ(アラビア語で「哲学」)の伝来は、地理的にはアレクサンドリアからアンティオキア、さらにハラン(トルコ南東部)を経てバグダッドに至ったということけれど(アル・ファラービーの言)、このあたり、実はかなり複雑な伝播経路だったのではという話。続くパオロ・ベッティオロの論考はいきなりの各論で「シリア教会の学派と知的雰囲気」。そのほかにも各論がいくつか続き、再びダンコーナ「アル・キンディとその遺産」は、神学と哲学の分離など、その合理的議論にその後のアラビア哲学のモデルが見いだされるという話。ここでもまた、フィロポノスの議論が下支えになっているという話が興味深い。クレオフェア・フェラーリ「バグダッドのアリストテレス学派」ではむしろ、アフロディシアスのアレクサンドロスやテミスティオスの注解書が翻訳されて読まれていたことが強調されている。学問の基礎を論理学とみるか文法論とみるかという対立などもあったといい、これまた面白い。さらにフェラーリ&ボナデオ「アル・ファラービー」では、アラブ世界・イスラム世界への初の体系的学知の導入者という側面が強調されている(論理学を基礎と見る立場だ)。

2巻目はアヴィセンナとアヴェロエスが扱われている模様。こちらもそのうちメモしよう。

投稿者 Masaki : 17:58

2007年10月27日

フェルメール……

突然の台風接近の中、六本木の国立新美術館に「フェルメール『牛乳を注ぐ女』とオランダ風俗絵画展」を見にいく。フェルメールを冠した展示会だけれど、フェルメール作品は表題の一枚だけ。後は17世紀から19世紀のオランダ風俗絵画で、なんだかこの、フェルメールを前面に出すというところがちょっとあざとい感じ。ま、確かに風俗画だけではインパクトには欠けるのだけれど……(絵画から寓意的な側面が消えていく過程をたどる、みたいな感じで見れば結構面白そうなのだけれど)。目玉の『牛乳を注ぐ女』は展示としてはほぼ中間ぐらいのところにある。話には聞いていたけれど、ずいぶんと小さい印象だ。朽木ゆり子『フェルメール全点踏破の旅』(集英社親書ビジュアル版、2006)などを見ると、小道具の意味するところなど、この絵に寓意を読み取るかどうかというのは大きな問題らしいけれど、個人的にはその「透視法に違反したテーブル」が印象的だ。これ、単にテーブルを壁から斜めに置いているだけのように見えてしまうところがとても面白い。不自然に高い窓の位置も、納屋や小間使いの部屋なら十分ありうるかもとの印象を抱かせてしまうほどに、絵画的な効果と写実の狭間が絶妙な形で示されているような……。バロック的感性ってあるいはこういうものと響き合うのかも。それは音楽もパラレルかも……と。そういえば会場には古楽器も展示されていたのだけれど、フェルメールの絵画を思わせる部屋の模型に置かれていたため、キタローネなどははるか向こうの壁ぎわにあってよく見えない。手前にあったリュートは1609年のベネチアのものだということだが、ロゼッタがとてもデカく、リンドベルイあたりが弾きそうな、ルネサンス調弦にも出来るバロックリュート(?)という感じだった。

投稿者 Masaki : 21:00

2007年10月25日

グンディサリヌス

再び論集『境界の知』からメモ。アレクサンダー・フィドラ「ドミニクス・グンディサリヌスとアラブの学問論」(Alexander Fidora, 'Dominicus Gundisalinus und die arabische Wissenschaftstheorie' in "Wissen über Grenzen", Walter de Gruyter, 2006, pp467-482)を読む。グンディサリヌスはトレドの翻訳サークルで活躍したとされる代表的人物の一人。セゴビアの大司教ということだが、翻訳者であるとともに哲学的論考なども著していたという次第だが、なるほどその名前の表記をめぐっては、翻訳者と諸論考の著者とは別人ではないかという説もあるのだという。タラベラの大司教が著者のほうで、クエジャールの大司教が翻訳者なのではないか、という話。グンディサリヌスってスペイン語風ならゴンザレスなわけで……。いずれにしてもこの論文は、その哲学者のほう(あるいは側面?)を従来の低い評価から救い出そうというちょっと野心的なものになっている感じ。グンディサリヌスはラテン・キリスト教会の伝統とアラビア哲学の受容との狭間にあって、ボエティウスの推論重視の立場から偽アル・キンディなどの「感覚」にもどづく学問のあり方を批判したり、『形而上学』に一定の方法論的意義を認めたりと、まさに12世紀のアリストテレス再受容の始点をなした人物ではないか、という話。うーん、個人的にはこのあたりもとても刺激的な話ではあるなあ、と。

投稿者 Masaki : 23:01

2007年10月23日

中世のコスモス

少し前の高山宏氏の書評ブログで、山本義隆氏の『十六世紀文化革命』の書評が載った。同ブログではそれ以前にも同書に何度か触れていて、同書に寄せる高山氏の実に微妙かつ両義的な感情を物語っている感じだ。なにしろ氏は、一応労作を評価するという立場を取りながらも、「参考文献にあれもないしこれもない」と、いくつか書名をあげ(つらっ)て見せるのだから(笑)。何度か繰り返し出てきたのが、エレーヌ・テュゼの『コスモスと想像力』(Hélène Tuzet, "Le Cosmos et l'imaagination", José Corti, 1965-88)。ちょっと気になったので取り寄せてみたのだけれど、なるほどこれは基本図書・総覧の部類に入るものかも。主にルネサンス以降の科学革命において、コスモスをめぐる見方がどう変転していったかを軽妙な語り口でまとめている。まあ、これが参考文献に入ったとしても、山本氏の本の方向性が変わったであろうというものでもないだろうけれど(総覧的な本を書くのに、総覧的な本が筆を誘導するというのはちょっと考えにくいんじゃないかと)、それにしても、本筋じゃないとはいえ、古代や中世の前史の扱いは意外に貧弱な印象も。

で、中世を中心としたこれに類するものとして、ちょうど読んでいるのがレミ・ブラーグの『世界の知恵』(Rémi Brague, "La Sagesse du monde", Fayard, 1999-2006)をつらつら読んでいるところ。語り口に妙に似通った部分があるけれど、テュゼ本が空間表象の幻想に重きを置いているとするなら、こちらは倫理の源泉としてのコスモロジー(中世においては、天空は人が目指すべき場所でもあったわけで)に大きな比重が置かれている。総覧的な記述だけれど、妙に鮮やかなディテールが散りばめられていたり。総覧・総論はこうして、詳論・各論へと誘っていくわけだ。

投稿者 Masaki : 00:34

2007年10月21日

[古楽] リュートのもろもろ

このところ、リュート用のタブラチュア作成ソフトをいじって遊んでいる。DjangoというWindows用のツール。以前バージョン7くらいのころに一度デモ版をダウンロードしたのだけれど、現在はバージョン9.03になってさらに便利になっている。デモ版はセーブができないので、結局購入。80ドルとそこそこ高いけれど、結構便利なのでまあよしとしよう。タブラチュアを入力して5線譜での表示ができるし、同時に両者を編集できる。できたファイルはmidiにも変換できる。ソフトの安定性はやや不安が残る感じだけれど、とりあえず使える。ただし印刷用に同じサイトからフォントをダウンロードしてインストールする必要があった。ちなみにうちのWindowsはXPで、iMac G5上のVirtual PC上で動いている。それなりに重いけれど、このツールは結構軽快。

先週はリュートの師匠による毎年恒例のリサイタルがあった。前半はルネサンスのダウランド、後半はバロックのヴァイス。うん、ダウランドは綺麗な曲、難しい曲のオンパレードだが、誰の演奏を聴いてもどこか人工的な感じが残る気がする……個人的に。なにかこう、内発的なものが今ひとつ見えてこないというか。その点、ヴァイスなどはもっとストレートに情感に迫るものがあるなあ、と。今回のプログラムは組曲ト短調で、渋い曲の数々。手慣れた奥行きのある演奏という感じ。やはり恒例といえば、ロバート・バルトのヴァイスの連作も、もう第8集目(『リュートソナタ、Volume 8』(Naxos))。結構前に出ていたようだったけれど、最近になって入手(タワーレコード:Weiss: Lute Sonatas Vol.8: No.36; No.19; No.34 / Robert Barto)。Naxosライブラリにもあるけれど、やはり手元に置いておきたいなあと。第8集はソナタ36番、19番と渋い曲が続き、それから有名な34番が来るという構成。前作などに比べて、軽やかさが増した印象(?)。

画像はDjangoの起動時に一瞬表示される絵。18世紀の画家ジャン=アントワーヌ・ヴァトーによる『メズタン』。メズタンというのはイタリアの古典喜劇に出てくるキャラ、メッツェティーノ(Mezzetino)だということ。この絵画はニューヨーク市のメトロポリタンミュージアム(MoMA)所蔵とのこと。
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投稿者 Masaki : 20:35

2007年10月19日

「モーゼとアロン」@ベルリン国立歌劇場

ベルリン国立歌劇場の来日講演。昨日はシェーンベルクの『モーゼとアロン』を観る。2月くらいにユイレ&ストローブの映像作品を観てとても面白かったのだけれど、実際の上演がこんなに早く観られるとは思わなかった(実は国内での本格上演は37年ぶりとかいう話だけれどね)。シェーンベルクの「強度」の音楽は、思ったとおり、まさに生音で味わうのが一番だ。バレンボイムもなかなか凄い演目でやって来てくれたものだ、という感じ。演出は、いきなり「マ……マトリックス?」と思わせるような黒ずくめ&サングラスの男たち(女性も同じ格好)が舞台に登場するとか、舞台は都市の立体駐車場みたいな感じだとか、2幕ではライトセーバー(?)を振り回すとか、テレビモニタがとても「ビッグブラザー的」だとか、いろいろな意味で俗っぽいのだけれど(ダイジェスト映像がeplusのサイトで観られる)、上のユイレ&ストローブの演出が民に対するアロンの統治思想を前面に出していたのに対し(映画作品なのでクローズアップなどが効果を発揮するからね)、こちら(ペーター・ムスバッハ演出)は明らかに翻弄される民に重点を置いている。無個性で画一的・同質的な烏合の衆のように描かれるイスラエルの民……。でも、それなら社会的風刺っぽいイメージで飾らなくてもよさそうなものだが……。それにしても主演の二人、特にモーゼ役(ジークフリート・フォーゲル)のド迫力の声が印象的だった(笑)。

投稿者 Masaki : 18:02

2007年10月18日

生物学の哲学?

ルース・G・ミリカン『意味と目的の世界』(信原幸弘訳、勁草書房)を通読。前に一度読みかけて、途中で放っておいたものを、思うところあって読み直し。これ、動物行動学的な記号の受容から人間の高次の記号処理までを、連続的な相のもとに捕らえ直すというちょっと面白い内容。自然的に突きつけられる「局地的に反復的な記号」を、動物は客観的事実とリアクションを起こす志向性とが渾然一体になったものとして受け止めるのではないかといい(そういう未分化の表象を、この本では「オシツオサレツ表象」と訳出している(笑))、そこからとりわけ目的状態の表象がいかに分化するのかを考えようというのが全体的な流れ。もちろん人間にいたっては、言語の使用がその高度な分化を支えるわけだけれども、その根底にあるのは、知覚に立脚するようなそうした原始的な記号把握にほかならないというわけだ。うん、そのあたりの痕跡めいたものは、近代以前の記号論、とりわけ中世の神学論などにも十分に残っている気がする、と(これはまあ、余談だけれど)。アフォーダンスをも取り込んだこの汎用的な記号理論は、どこか近代的な論理学の前段階というか、その基礎の部分をなしているようにも見える。論理学では有名な「フランス王はハゲではない」という内部否定の問題(フランス王が非ハゲなのか、フランス王の存在そのものが否定されているのかが未決定になる)がちらっと出てくるけれど、本書ではそれは認識論の方に開いている(同じこの否定問題が、文庫でつい出たばかりのラッセル『論理的原子論の哲学』(髙村夏輝訳、ちくま学芸文庫)にも散見されているけれど、合わせ読んでみると両者のコントラストが印象的だ……。けれども個人的には、この原始的記号成立の反復運動という意味で、これまた文庫で出たばかりのドゥルーズ『差異と反復』のほうに絡めて考えたい気がしたりする。それはまた後の話)。

投稿者 Masaki : 16:11

2007年10月15日

「気象論」の中世の流布

アフロディシアスのアレクサンドロスによる『気象論注解』第4巻(Galicaからのダウンロード)を、もとのアリストテレス『気象論』をちらちら見ながらあらかた読み終える。なるほど4巻目はまさに物質論。気象論というのは、要するに月下世界の現象全般のことで、空気の存在する場の現象であることから「気象論」という名称になっているというわけだ。熱変成や凝固などといった現象を、乾・湿・温・冷が織りなす力の学として記述したもの。わりとさらっと流すかのようなアリストテレスの文章を、アレクサンドロスはより細かく論述していく感じだ。うーん、でも、ルネサンス時代の粒子論のもとになる議論というあたりは、あまり前面には出ていない感じだ。当時の人がどこにどう反応したのかという問題は、なかなか微妙な話なんじゃないかなあ、と。いずれにしても、こうなるとやはり気象論の中世以降の流布というのが気になってくる。

で、ちょうど並行して読んでみたのが、先に挙げた『境界の知(Wissen über Grenzen)』から、マンドシオ&ディ・マルティーノによる論文「アヴィセンナの『気象論』とそのラテン世界への流布」(J.-M. Mandosio / Carla di Martino, "La 'Météorologie' d'Avicenne (Kitab al-Sifa V) et sa diffusion dans le monde latin")。アヴィセンナの『治癒の書』第5巻は気象論なのだそうで、しかもアリストテレスの『気象論』第4巻の内容が、先行する3つの巻の前に置かれた形になっているのだという。で、そのアヴィセンナの気象論の抄訳が二種類、タイトルも「鉱物について」(サレシェルのアルフレッドによる)と「洪水について」(逸名訳者)として12世紀末から13世紀前半までに出来ていたという。また、13世紀後半には、ユアン・ゴンザレスとソロモン某によるのではないかという「気象論」全訳もアラビア語からの翻訳で存在するという。アリストテレスの気象論の注解をラテン世界で初めて著したのは、上のサレシェルのアルフレッドだそうだけれど、どうやらそのアヴィセンナ版がアリストテレスを補完するものだと見なしていたようで、実際、両者が混同されていたという説は、この論文では斥けられている。「鉱物について」がアリストテレスのものではないと最初に指摘したのは、アルベルトゥス・マグヌスなのだとか。うーん、なるほど気象論一つとっても、特に中世の注解書などはあまり研究されていない部分なのだという。こういうのを研究しようという絶対者数が少ないからだろうと思うけれど、そういう間隙は多々ありそうだなあと、改めて。

投稿者 Masaki : 23:09

2007年10月13日

[古楽] pardessus de viole

ちょっと気が早い感じだけれど、今の季節よりもむしろ晩秋にとても合っている感じがするのが、『幻の楽器,パルドゥシュ・ドゥ・ヴィオール』(宍戸俊子、エリゼオ・バロック・アンサンブル)。パルドゥシュ・ドゥ・ヴィオールは、ヴィオラ・ダ・ガンバを小型化したような形状の楽器。ヴァイオリンと同じような高音域を出せるというので、18世紀初頭のフランスで人気を収めたという。室内楽の、それもごく少数で聴くための楽器ということで、この録音でもわかるけれど、テオルボとの相性は抜群のようだ。この曲集、全体を3部にわけ、それぞれ「フランス趣味」「イタリア趣味」「趣味の融合」と題して選曲している。フランス趣味ではオデリンヌ(ウデリンヌ)の組曲ニ短調が渋い。ほかにド・ヴィゼーによるアルマンド「老ガローのトンボー」、マレの組曲ト短調。イタリア趣味になると、今度は冬から春の印象になる。ローゼンミュラー、ジャノンチェッリ、メルーラなどなど。最後の「趣味の融合」は、それらの対立する趣味を融合させたクープランのトリオソナタ「パルナッソス山の和解」。全体として、このコンセプトの勝利という感じの一枚。

パルドゥシュ・ドゥ・ヴィオール、おそらく下に挙げるヤコブ・デュック(1600-1667)の17世紀中頃の絵画『楽しい仲間』の左の女性が弾いているものじゃないかなと思う。デュックは室内画・風俗画で知られるオランダの画家。

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投稿者 Masaki : 20:16

2007年10月12日

所有と共有のあいだ

レンタルDVDでアニメ映画『鉄コン筋クリート』を観た。原作マンガは読んでいないので、アニメ作品が原作とどう違うかとかはわからないけれど、全体的にその浮遊感など、宮崎アニメ、押井アニメの末裔という感じが濃厚だ。文字通り引用のような部分もあちこちに。すごく単純化して言えば、やくざ映画に『NIGHT HEAD』をからめて、上のアニメ的な既視感をちりばめたような趣向か。けれどもこの映画が面白いのは、「所有」にまつわる考察になっていること。主人公の一人クロは、動物的な縄張りの感覚で、自分たちが住む町を「オレの町」みたいに言う。学のある浮浪者のじいさんが「その言い方はやめろ」と諭してもおかまいなしだ。で、後からやってきて地上げ&テーマパーク建設を進めるヘビという登場人物も、いつしかその町を「私の町」と呼ぶようになる。この所有幻想の宣言が、異物排除の暴力の根底にある。なるほど「私の」と言った瞬間に、当の対象物は自分にとってディスポーザルな「モノ」と化し、その支配権の幻想が付着する。そのモノに手を伸ばす他者は、そのモノを介して互いに承認要求を突きつけ、文字通りの膠着状態になる。いずれかが手を引くまで、そうした状況が続くわけだが、当然、ここから脱する方法の一つとして、もとになった所有宣言の撤回がある。さらには、所有宣言をめぐる構造そのものを瓦解させる方法(最も究極には、対象物そのものを無にしてしまうこと)もあるだろう。これらは相当に自己の痛みを伴う打開策だ。かくして作中のクロは、純粋な放棄(それは究極の前者だ)と暴力行為の局限(究極の後者だ)との間で揺れ動く。うーん、所有から共有へ、承認をめぐる戦いから共生への道は、言うほど単純ではなく、そこにいたる過程は血塗られた道かもしれないという話。シュミットの「大地のノモス」なども、そういう話にからめて読むと面白いかもしれない。

投稿者 Masaki : 20:09

2007年10月09日

ensやessentiaの来歴とか

エティエンヌ・ジルソンの代表作の一つ『存在と本質』(Gilson, "L'être et l'essence", Vrin, 1948-2000)を部分的に読む。タイトル通り、存在と本質の概念をめぐる、古代ギリシアからハイデガーまでのいわば通史。とりあえず3章、4章と付録の1をざっと。アヴィセンナからドゥンス・スコトゥスへと伝えられ深化をとげる「本質の偶有としての存在」というテーゼあたりの話がとりわけ興味深い。付録の語彙に関する小論もあざやか。ギリシア語のτὸ ὄνを訳すにあたって提示された、ensやentiaはボエティウス以後に定着するというけれども、実はそれ以前に古くから語としては提案されていて(クィンティリアヌスがセルギウス・フラウィウス某という名を挙げているのだそうだ)、ただ普及はしなかったというわけだ。essentiaも同様で、これなどはセネカが使っているにもかかわらず、写本の筆写者たちが理解できずに修正してしまっているものなどがあるという。それが広まるのは、三位一体をめぐる論争によってだったというのがまた面白い。同じように、existentiaが中世盛期に用語として定着するのも、ローマのジルとガンのヘンリクスとの論争があればこそだったという。うーん、神学論争は思わぬところにそういった余波を生み出していたわけだ。

投稿者 Masaki : 20:00

2007年10月05日

臭い古本、臭くない古本

さる若い研究者さんのブログで以前紹介されていた研究書が面白そうだったので、古本を2冊ほどオンライン購入してみた。一つはトマス・リット『聖トマス・アクィナスの宇宙における天体』("Les corps célestes dans l'univers de Saint Thomas d'Aquin", Publications universitaires, Louvain, 1963)。まだ部分的にちらっとしか見ていないけれど、トマスのおそらくは全著作から天体に関する部分を抜いてきて、テーマごとに基本的スタンスや思想的変遷を明らかにしようとしている労作。パソコンもない時代におそらくはカードで抜き出していった作業だろうけれど、それだけですでに頭が下がる思い。もう一冊はアンネリーゼ・マイヤー『後期スコラ自然哲学の形而上学的背景』("Metaphysische Hintergründe der spätscholastischen naturphilosophie", Ediziioni di storia e letteratura, Roma, 1955)。アリストテレス思想の微妙な後退について得るところがないだろうかなと思ったのだけれど、ビュリダンの話などが出てくるのは予想通り。けれどもこの本、すぐには読む気にならない。そのわけは……むちゃくちゃ臭うんだ、この古本(爆笑)。

オンラインで手軽に注文できるようになってからというもの、古本も割と買うほうだけれど、ここまで臭いのは久々だ。臭いがキツイのは欧州ものよりも英米本に多い気がするのだけれど、今回のは強烈。少し干すかなにかしないとなあ。商品説明には状態のことは書いてあっても、臭いに触れることはまずないからね。日本の湿気の問題もあるだろうし。というわけで、いずれにしてもこれは、形而下の問題が形而上の問題にまで影響するという一例か……なんて(笑)。

投稿者 Masaki : 23:28

2007年10月03日

マンデヴィル旅行記

ケルン大学のトマス研究所が出している論集「Miscellanea Mediaevalia」シリーズから、第33巻『境界の知--アラブの学知とラテン中世』("Wissen über Grenzen - Arabishes Wissen und lateinisches Mittelalter", Walter de Gruyter, 2006)を少し前からちらちらと見ている。アラブの学知が西欧に流入したかとか、西欧側は異教の地をどう見ていたかという、ある意味おなじみの領域だが、その新しい動向が満載。ディミトリ・グータスやチャールズ・バーネット、ダグ・ニコラウス・ハッセなど有名どころの論考から始まり、一種総覧的な趣きがある。とりあえずいくつか選んで読んでみただけだけれど、とりわけ目を惹くのは、11世紀ごろからのトレドでの翻訳サークルについて、かなり細かな研究が進んでいること。なるほど、ここで基本情報をアップデートしなければ(笑)。

で、そんな中、ちょっと異色なのが、ファビエンヌ・ミシュレという人の「『マンデヴィル旅行記』での東方の読解と記述」(F. L. Michelet, "Reading and Writing the East in 'Mandeville's Travels'")という考察。サイードのいうような「オリエンタリズム」の目線でマンデヴィルの旅行記に見られるとされてきた「寛容の態度」を見直してみようというアプローチ。マンデヴィル旅行記は14世紀ごろにフランスで成立したとされる架空の旅行記で、邦訳(『東方旅行記』)は東洋文庫で出ている(書籍自体は今は入手不可のようだけれど、いちおうJapanKnowledge内の有料コンテンツで読める)。ヴァンサン・ド・ボーヴェなどをベースに博物学的な記述として書かれたものだというけれど、ちょっとこれ、確かに中世盛期の世界像を語る上ではマストアイテムという感じ。ほかの研究も見てみたいところ。

投稿者 Masaki : 17:36