2007年11月29日

偽アフロディシアスのアレクサンドロス

相変わらずアフロディシアスのアレクサンドロスの著作を眺めているけれど、今回一通り読んだのは「偽」が付く文書『熱について』。イタリアで出ている校注版("Trattato sulla febbre", a cura di Piero Tassinari, Edizioni dell'orso, 1994)。アレクサンドロスのものとされた一種の概説的な医学書。概説的なというのは、熱の発生や様態について述べていて、治療などには触れていないから。心臓の機能を重視する点や、熱の持つ両義性(保全的・破壊的)、外因と内因、原因と抑制的因子など、確かにアリストテレス的なテーマで貫かれたような文章なのだけれど、残念ながらアレクサンドロスのものではないらしい。訳者の序文では、時代的に先行する医学者アレタイオスやガレノスなどとの連関も指摘されている。また、ガレノスがプネウマ(気息)による熱の理論を示すのに対し、この偽アレクサンドロスの文書では、そうしたプネウマの役割を副次的なものと見ている、とも。そもそも逍遙学派的には、医学自体が一つの分岐・傍系の学問でしかなかったことも示されている。そういえば、先に挙げたマルヴァン・ラシドのある論文でも、ガレノスによるアリストテレス批判の文書を受けて、それに反応する形で書かれたとも言われるアレクサンドロスの文書(断片)が取り上げられていた。そういう意味では、確かに逍遙学派側からこういう文書が出てきても不思議ではないかも。この医学をめぐる対立関係というのもなかなかに興味深い。

次は「『感覚と感覚対象について』への注解」をガリカにあるアリストテレス注解シリーズ(commentaria in Aristotelem graeca)で読むことにしよう。さらにはおなじみのサイト「ヘルモゲネスを探して」で紹介されていたボンピアーニ社刊行の「形而上学注解」に進みたいなあ、と。

投稿者 Masaki : 22:39

2007年11月26日

[古楽] ポルポラ

これは個人的にまったく未知の作曲家。ニコラ・ポルポラ(1686〜1768)。その『死者たちへの夜想曲(Notturni per i defunti)』(Fuga Libera、FUG528)を聴く。11月2日の全死者の祝日を思わせるタイトル(解説によると、実際にそのために作曲された可能性が高いという)は季節的に合っている感じなのだが、この曲調の明るいこと!ノットゥルノという名前から受ける印象とはだいぶ違う感じ。1739年から43年ごろにナポリで作曲されたものというだけあって、実に晴れ晴れとした印象を与える一枚。ラテン語のポルポラのほか、ニコラ・フィオレンツァという作曲家の作品も収録している。さてそのポルポラ、解説によると、いかにも当時の「移動する音楽家たち」を地でいく感じだ。ナポリ生まれながら1737年まではロンドンでヘンデルに肩を並べるオペラ作家として名を馳せ、その後はヴェネツィアに行き、それからナポリに戻って教鞭を執り(上の夜想曲はそのころのもの)、さらにヴヴェネツィアに戻り、その後はザクセン宮廷などにも仕え、さらに1760年頃にナポリに戻ってロレート聖墓音楽院の院長に就任。ここでこの夜想曲が礼拝に再利用されたのだという。うーん、作品と移動性の連関とか、なんだかとても気になるところだったり。

ジャケット絵はほぼ同世代のピエール・ジャック・ヴォレール(1729〜92)による「マッダレーナ橋から見たヴェスヴィオ山」。18世紀にはたびたび噴火していたという話で、ヴォレールなどは連作のような形で作品を残している。ネットに転がっていた一枚を転載しておこう。全死者の祝日は煉獄にいる人々への祈りを捧げる日なだけに、ジャケット絵の選択はその煉獄のイメージということか?
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投稿者 Masaki : 23:29

2007年11月23日

存在--類比か一義性か

『中世思想研究』49号に書評が掲載されていた(著者本人の寄稿もある)宮本久雄『存在の季節--ハヤトロギア(ヘブライ的存在論)の誕生』(知泉書館、2002)を取り寄せてみた。ここで言われているヘブライ的存在論は、静的な西欧の伝統的存在論に対して、生成・変転を取り込んだ存在論という位置づけのようだ。なるほど前者は西欧的な「枠組み」を生むのに対して、後者は開放をもたらすというあたり、この間のアヴェロエスとアヴィセンナの対照性などにも通じる話ではあるし、あるいはドゥルーズの「差異と反復」で出てきた差異/反復と表象/再現前化の議論にも通底するような論点でもあるし。けれども、著者の宮本氏は神秘神学の方向性には批判的なようだし、ドゥルーズと重ね合わせるとさらに大きなズレがある。ドゥルーズが存在の類比の考え方を再現前化の側に位置づけ、スコトゥスの一義性議論のほうに反復の契機を見ているのに対し、同著者は逆の立場で論じていたり。一義性を考えてしまうと、存在が定立的なものになり、生成の契機が出てこないということになる、というわけだ。全体的な議論の組み立てが違うからだけれど、これはなかなかに興味深い対立点かもしれない。また、同著者は生成・変転の存在論という観点から「語り」を重視し、それを存在論的に開くことを探求しようとしている感じだけれど、これもまた、たとえば語りが抱え込んでいる外部、その限界を考察しようとするという意味で通底していると思われる、アガンベン『アウシュヴィッツの残りのもの--アルシーヴと証人』(上村忠男、廣石正和訳、月曜社)などともある意味で真っ向からぶつかり合うように思える。表面的な対立?うーん、そうかもしれないけれど、それにしても著者の宮本氏が触れているアウシュヴィッツの超克の問題などが絡んでくるだけに、この対立はとても重要なものであるような気もする。

こうなってくると、ハヤトロギアと命名されたヘブライ的な存在論そのものの、構造的な析出が問題になってくるのかも。おそらくそれはまだ端緒にあるにすぎないのだろうけれど、同書ではとりあえず旧約聖書のエピソードに解釈論的なアプローチが加えられるにとどまっていて、こうなるとヘブライの思想伝統まで取り込んだ本格的な議論が期待される……。トーラーの長い解釈伝統とか、マイモニデスなどの「形而上学的」思想とか、ナハマニデス以降のカバラ主義とかいろいろあって、とても一枚岩ではない「ヘブライ思想」は、なるほど生成・変転の存在論から読み直すこともできそうな予感はする(かな?)。

投稿者 Masaki : 20:19

2007年11月20日

[メモ] 「中世イスラム哲学史」下巻から

再びクリスティーナ・ダンコーナ編の『中世イスラム哲学史』下巻("Storia della filosofia nell'islam medievale", volume secondo, Giulio Einaudi editore, 2005)からメモ。アモス・ベルトラッチ「アヴィセンナの哲学思想」が全体的なまとまりとして有益。最初のところでは、アヴィセンナには4つの思想圏の交差路にあるとし(アラブ世界が継承したギリシア哲学、イスラム神学、ラテン中世の哲学、アラビア哲学)、とりわけアンリ・コルバン(フランスのイラン学者だ)が唱えているというアヴィセンナの「オリエント」な部分を前面に出している感じだ。なるほど、アヴェロエスなどのアリストテレス主義はどちらかというと外的世界の無限の征服に向かうような部分があるのに対し、アヴィセンナ思想は死を克服する神的なものの学知に彩られている、というわけか。スーフィズムやイスラムの照明派などの影響もあるらしいと。うーん、アンリ・コルバンも面白そうだ。

後半は主要著作をめぐってその思想のエッセンスを取り出すという趣向。もとのアリストテレス思想にはないアヴィセンナ独自の立場として示されているものとして、「自己」を実体とみる立場、内的感覚の理論、魂における知性の4区分などが挙げられている。また、アリストテレスの『分析後論』をベースに、形而上学についても「主題」「目的」といった概念を適用しているところにもオリジナリティがあるのだという。普遍概念に関しては、アヴィセンナの「馬性」の議論などを唯名論の嚆矢と見る話などがまとめられている。

投稿者 Masaki : 17:51

2007年11月18日

[古楽] 再び変わり種バッハ

再びバッハ。今回はオルガンによる「ゴルトベルク変奏曲」(ハンスイェルク・アルブレヒト)(OEHMS、 OC625)。SACDハイブリッド盤。オルガンによるゴルトベルク変奏曲というのもないわけではないけれど、この編曲・演奏は実に清新な感触を受ける。基本的にはチェンバロものが好みだけれど、うーん、いいっすね、これ。冊子の曲目解説も実に丁寧に記されている。オルガンはバート・ガンダースハイムという小都市の参事会教会のものとか。なんともいえない浮揚感ただよう音色。

この同じ演奏家は、2006年にはオルガン用編曲でワーグナーの『リング』(OEHMS、OC 612)も出している。オーケストラの迫力にはかなわないものの、こちらも重厚な作りでなかなか面白い (でも端正さという点ではやはりゴルトベルクの圧勝(笑))。

投稿者 Masaki : 22:57

2007年11月17日

イシドルスの「数の書」

仏羅対訳本でセビリャのイシドルスによる『数の書』("Liber nvmerorvm - Le livre des nombres", trad. par Jean-Yves Guillaumin, Les Belles Lettres, 2005)を読む。秘数論というわけではないけれど、もとより数のシンボリズム・寓意は面白い。しかもイシドルス。『語源論』などよりはるかにマイナーだというこの『数の書』、数字を順に取り上げて、それぞれにまつわる聖書(旧約・新約)の寓意、あるいは異教的なシンボリズムをまとめるという趣向で、1から20までは順番ながら、そのあとは24、30、40、46、50、60、そしてペンテコステの計算方法という話で閉じている。編訳者の解説によれば、古典的な異教の数量学はマルティアヌス・カペラが唯一のソースなのだという。さらにソースとしてはアウグスティヌスが大きな割合を占めているそうで。実際、たとえば「6」の箇所をみると、アウグスティヌス的な旧約からの時代区分(6分割)が紹介されているし、成長の6段階説、存在の6段階説なども同じくアウグスティヌスから取ったものだという(注釈による)。うーん、なるほどやはりアウグスティヌスか。解説部分の末尾には聖書の参照箇所が一覧で表になっていたりして、これも便利そう。

投稿者 Masaki : 22:10

2007年11月14日

エピステーメー

久々に雑誌『現代思想』10月号を読む。遅ればせの10月号で、特集は「温暖化の事実--環境問題の発見」だ。この雑誌が思想家別の特集を組まなくなって久しい気がするけれど、逆にこの特集などを見ると、むしろ地に足のついた思想を展開しようというふうになってきているのかも、と思ったりもする。全体的な基調は、冒頭の養老孟司氏の談話「環境について本当に考えるべきこと」と、討議「冷静に温暖化を考える」と題された討議に集約されている感じ。本当に重要になってくるのは巨視的な見方と微視的な見方の使い分けだ、ということ。報道などを通じてしか接することのできない括弧付きの「環境問題」「温暖化」においては、まずそのイデオロギー的部分、歪曲的部分をなんとか認識しなければならないわけだけれども、専門家ではない一般人にとって、これはかなりの自主的なインセンティブを要することだ。そのためには、「当事者・部外者」のいずれでもある私たちは、さしあたり「環境問題」のそもそもの経緯や構造、さらには議論の成り立ちなどを捉えるというアプローチを取らざるを得ない。それは社会学的な問題、ひいては哲学的なエピステーメー(科学認識論)の問題にもなる。収録論文の多くは、ゴアの映画が提示する話やアメリカの経済主義への批判(長原豊「好都合な真実」)、関係する国際機関の議論のずれ(池田寛二「<気候格差>の真実」、宗像慎太郎「地球環境問題と科学的不確実性」など)などを強調している。養老氏の「環境問題はアメリカ問題だ」というような発言を改めて考えさせる。一方の微視的な視点が重要だというのは、これはむしろ主に専門家らに要求されることで、討論での「自然変動においては平均値には出ない要素が、ローカルかつ短時間の計測では非常に重要な意味を持ちますから」(伊藤公紀氏)という発言にあるように、細やかな基礎作業が必ずしもきっちり行われていないという問題。

前のアーティクルとも関連するけれど、この巨視的・微視的の連動というか、両方の架橋というかは、とても難しい部分であるように思う。おそらくはどの分野でも必要とされる「両輪」なのだろうけれど、そのあたりがうまく連結されてこないと、たとえば中世思想でいうなら「全体像」のようなものがうまく見えてこないし、環境といった進行形の切実な問題では「批判」がうまく機能していかない(当たり前といえば当たり前のことだけれど)。そのあたり、「部外者」と「当事者」の間を揺れる一般の個人がどう意識的に取り組めるのかも、同じく難しいところではある。

投稿者 Masaki : 23:16

2007年11月11日

[メモ]「差異と反復」

ついこの間文庫で出たドゥルーズの『差異と反復』(上・下、財津理訳、河出文庫)。前のハードカバー本はあまりちゃんと読まなかったのだけれど(とはいえ、前も多少は字面を追い、個々のフレーズなどをえらく気に入ったりして、ある意味でドゥルーズの著作では一番好きなものになっている(笑))、それはまあ、当時はそれほど問題意識をもっていなかったせいが大きい。ま、もっとも今回も字面を追うだけにとどまっている気がしないでもないが(苦笑)、それなりに考えるところもあるので、なかなか軽妙かつ刺激的な、印象深い読書体験になってはいる(かな?)。一言でこう言ってしまうのはナンだけれども、全体としては、表象=再現前化の同一性をえぐって、その深みに差異・反復の湧出を見るというキー・ノートを、哲学史的な知見を取り入れつつ様々に展開するという、なかなか勇壮な著作だ。

上巻の最初のほうで、「存在の一義性」をめぐってスコトゥスの話が出てくる。トマス派の「存在の類比」(神と人間の存在の間に絶対的な溝があるというもの)は表象=再現前化の側にあるとされ、それに対してスコトゥスのいう「一義性」こそが、逆説的ながらヒエラルキーの一種「無効」を宣言している点で、一種アナーキーだというわけだ。山内志朗氏がこの点に異を唱えていたわけだけれど、それによると、その下敷きになっているスコトゥス像は、エティエンヌ・ジルソンにあるらしい。実際、『存在と本質』(Gilson, "L'être et l'essence", Vrin, 1948-2000)などでは、スコトゥスはesseとessentiaの区別をそもそも認めず、essentiaはesseの様態の一つにすぎないとして、まさにesseの汎用論のようなことを提唱したのだ、と主張するスコトゥスへの注釈者の言が紹介されている。esseは、アヴィセンナをベースにトマスが論じるような、後からessentiaに加わるもの(そうして個別が存在するようになる)ではなく、むしろessentiaに先行し、その個別のessentiaをesseの現実態が規定する、というような話になっている。これはまた、個別化(個体化)が、種差などよりもはるかに一義的であるという話にもなるわけだ。このあたりを敷衍(というか換骨奪胎というか)すると、ドゥルーズのいう個体化の先行性・根源性という話につながっていく。で、『差異と反復』では、後半(第5章:文庫版では下巻)にいたって、シモンドンの個体化論を引き受けてさらに一般化されていく。

いずれにしても、哲学史的な知見と、それを巧みに自説の構図に移し替えるドゥルーズの手際には、同書のいう表象=再現前化と差異・反復とのそれぞれの項がそっくりあてはまるかのようだ。そこには明らかに決定的な溝がある……(立つ瀬の違いというか、対象に向かうそもそものベクトルの違いというか)。でも本当に(まれに)面白い思惟・論考というのは、いずれか一方の側の検討を徹底的に進めることによって、もう一方との境界にまで達するもの、その溝の深みをふと垣間見せてくれるようなものだ、という気がする。それは確かに至芸の域の話だと思われるのだけれど(理想型ですな)、そういうのにちょっとでも出会えると、まさに至福のひとときとなる。うーん、ドゥルーズの同書は、それ自体がそういう至芸をなしているというよりは、そういう至芸への期待や刺激を煽るという意味での一種のマニフェスト、あるいはヒントブックになっている感じもする……微妙だけどね(笑)。

投稿者 Masaki : 20:53

2007年11月09日

[古楽] バッハ二種

このところバッハものを二つ聴く。一つはユングヘーネル指揮のカントゥス・ケルンによる『ミサ・ブレヴェス集(Missae Breves)』(HMC 901939-40)。二枚組。収録曲はBWV233から236。いずれもルター派の「短い」ミサ曲。そんなわけでジャケット絵もクラナッハによる有名なルターの肖像画(1529年)。これだけでもちょっとインパクトがあるなあ、と。で、中身のほうはというと、これがまた春風の一陣でも通り過ぎるかのような爽快感をもたらす演奏。ちょっと季節感が違うけれど、まあよしとしよう(笑)。絶妙な残響感と各声部の名人技で、速くも定番に格上げかな、という感じ。

もう一つはちょっと変わったバッハ。ヒリヤード・アンサンブルの『モテット集』(ECM New Series)。BWV225から230に、159を付け加えた構成なのだけれど、これはまさに未聴のバッハという感じ。普通バッハのモテットはオルガン伴奏で歌うと思うのだけれど、これは230を除き声楽のみ。いきおい、彼らの十八番であるルネサンス歌曲のような雰囲気になっている。まるでバッハの根っこを掘り下げていけば、ルネサンスの大きな脈動に行き当たるとでも言いたげな、剛直で大胆な演出になっている。ま、賛否は分かれるところだろうなあ。なにしろ声部の対立がくっきりしすぎて、主旋律が蹴散らされ気味になったりとか、バッハがもとよりもっている華やいだ雰囲気が削がれてしまっていたりとかするので……。もちろん、そのぶん峻厳さはいや増して、まさに唯一無二の孤高のサウンドになっていたりとかするのだけれど……。

クラナッハの絵でもいいのだけれど、ここではあえて解説の冊子の表紙をかざる、聖トーマス教会を描いた18世紀の版画を挙げておこう。ヨハン・ゲオルク・シュライバーによる1735年の作品「聖トーマス教会と聖トーマス学校」。

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投稿者 Masaki : 18:28

2007年11月08日

アレクサンドロスのいろいろ

アフロディシアスのアレクサンドロスの『混合について(de mixtione)』を読了。ギリシア語テキストのタイトルは「混合と増大について」となっている。テキストはロバート・B・トッドの研究書『ストア派の自然学について』(Robert B. Todd, "Alexander of Aphrodisias on Stoic Physics", E.J. Brill, Leiden, 1976)によるもの。『気象学』注解でもそうだったけれど、ここでもまた粒子論的な考え方は斥けられている。混合という現象が、粒子が間隙を満たすことによるものだとすると、混合する物質の一方が全体として間隙オンリーである場合でもないかぎり、混合ではなくせいぜい並置にしかならないだろう、というのがその論旨。ストア派的なプネウマによる物質の統合という考え方も、むしろ物質がそれ自体として、それみずからの形相によって統合されているとしたほうがよいとしていて、アレクサンドロスは総じてストア派に対しては批判的だ。トッドの解説にもあるけれど、アレクサンドロスの批判の仕方は、相手方の具体的な議論からその背景をなす一般的な命題を引き出してきて、それに検討を加えていくという手法。そのためか多少議論は交錯・横滑りしていく感じなのだけれど、そのあたりが案外興味深かったりする(笑)。さて次は偽アレクサンドロスの『熱について』でも見ていくことにしよう。

で、アレクサンドロス関連で並行して読み始めたのが、マルヴァン・ラシェド『アリストテレスの遺産−−古代の未刊行テキスト』(Marwan Rashed, "L'Héritage aristotélicien - Textes inédits de l'Antiquité", Les Belles Lettres, 2007)。同一著者による論文集だ。まだ最初のほうの数編しか見ていないけれど、すでにしてとても面白いことになっている(笑)。前に言及したように、アラン・ド・リベラなどはアレクサンドロスに唯名論の萌芽を見る立場だったけれど、ラシェドはむしろ、「類」の存在論的先行性など、実在論の側に大きく傾いたアレクサンドロス像を提示している。うーん、これは考えどころだ(これについては、この9月にも同著者の新刊が出たみたいなので、そちらも見てみたいところ)。また、天空論での恒星と惑星をめぐるアレクサンドロスの逡巡など、興味深い論定がいくつも示される。間接的に報告された「論」を、アレクサンドロスのものと特定していくラシェドの手さばきなどは実に見事というほかないし、この論集、しばらく楽しめそう。

投稿者 Masaki : 20:56

2007年11月05日

ピュタゴラス思想……

最近刊行された邦訳で、ポルピュリオス『ピタゴラスの生涯』(水地宗明訳、晃洋書房)を読む。訳文のほかに詳細な解説、固有名詞の注などが収録されていて、さらにピュタゴラス派の思想信条を表したものといわれる「黄金の詩」も同様に訳と解説が掲載されている。ポルピュリオスの伝記作家的な側面を邦訳で味わえるというのが実にいいなあ、と。それにしてもこれなどを読むと、古代ギリシアにおいては哲学の学派がいわば宗教のように生活信条を規制するものだったというピエール・アドの話が多少とも実感される。毎日の朝の計画と晩の反省とかもそうだし、食事の禁忌などもそう。この食事の禁忌はなかなか面白くて、犠牲獣の腰部、陰部、骨髄、足、頭は食べてはいけないといい、さらに豆も食べてはいけないといい(海産物もダメなのだそうで)、生殖や成長サイクルに関係したものへの禁忌が強調されている。また、万物の根源としての一と二、その他の数などについての話も興味をそそる。うん、この二性についての思想などは、はるか後代のアヴィセブロンなどに関係していないのかしら(メルマガのほうでちょっと出てきた話だけれど)なんて(笑)。また、ピュタゴラスの思想内容はむしろイアンブリコスに詳しいということだし、イタリアのボンピアーニ社が出している「スンマ・ピタゴリカ」でも読むことにしよう。

投稿者 Masaki : 18:17

2007年11月01日

獲得知性

今年も『中世思想研究』(49巻)が出ていたのでさっそく見てみた。このところ少し対象が広がってきていることは、近世から中世を振り返るというそのシンポジウムの論題などを見てもわかるところ。収録論文も、以前は圧倒的にトマスだった感じが、今号ではエックハルトやアルベルトゥス・マグヌスなどを扱った論文も収録されていたり。特に後者(小林剛「アルベルトゥス・マグヌスにおける表象力について」)では、表象力(ここでは感覚をベースとした判断のことを言っている)をめぐって、教父以来の伝統に立脚した過小評価と、アヴィセンナなどのアラビア思想による受容の温度差が指摘されていて、その点も個人的には興味深い。アルベルトゥスはアヴィセンナをベースとしているわけだけれども、先日触れたグンディサリヌスの話と関連づけるなら、1世紀にも満たないスパンの間に、教父的伝統(ボエティウスも含めて)からアラビア思想へとシフトしたことが改めて如実に感じられたりもする。この学会誌に載っているような様々な論考は、本当ならページ数の制約がある論文ではなく書籍として読みたいところ。あるいはページを増やしてもらいたい気もするのだけれど……著者たちもそれならもっと力作に出来るだろうに、と。でも出版事情はますますアレだからなあ……。

アルベルトゥス・マグヌス関連で言えば、またしても『境界の知』からだけれど(苦笑)、イェルク・ミュラーの「アルベルトゥス・マグヌスの倫理学へのアラビア知性論の影響」(Jörg Müller, 'Der Einfluß der arabischen Intellektspeklation auf die Ethik des Albertus Magnus')がとても面白く読めた。この著者は、アルベルトゥスが用いている「獲得知性(到達知性):intellectus adeptus」を考察するために、いったん知性論の系譜を遡り、アフロディシアスのアレクサンドロス、アル・キンディ、アル・ファラービー、アヴィセンナ、アヴェロエスのそれぞれの知性分類方法を端的にまとめた上で、改めてアルベルトゥスに戻り、その知性論の体系を年代的に3段階に分けて、獲得知性についての考え方の変遷を追い、その倫理学へのアル・ファラビーの影響に光を当てている。なんとも手堅く、それでいて実に「読ませる」アプローチ。欧文で20ページそこそこだけれど、ずっしりと存在感のある論考。このイェルク・ミュラーという人は、アルベルトゥスの倫理学に関する単著もあるらしく、それがまた高い評価を受けているようだ。ちょっと注目株かも。

投稿者 Masaki : 23:28