2008年10月15日

ヴェネツィア史

ピエロ・ベヴィラックワ『ヴェネツィアと水−−環境と人間の歴史』(北村暁夫訳、岩波書店)をズラズラっと読む。ヴェネツィアのラグーナ(潟)の保全をめぐる人間の取り組みを中心主題に据えた、一種の環境史もしくは技術史(と言ってしまうと語弊があるのだけれど)の試み。扱う時代は文書史料が豊富に15世紀以降(から現代まで)が主だけれども、とにかく治水や環境保全(今で言う)技術の継承のために、様々な官職や制度が作られ、一種の行動規範が形成されていったヴェネツィア共和国の趨勢が興味深い。不安定なエコシステムに立脚するため、人為的な介入は即決されなくてはならない事情が、ある種の規範意識やら行動感覚をもたらしていたということが、多面的に語られていく。

こういうのを読むと、では先行する中世はどうだったのかなと俄然興味が湧いてくるわけなのだけれど、その文脈で興味深いものというと、まず挙がるのは堀田善衞の作品だったりする(かな?)。『聖者の行進』(徳間書店)所収の「傭兵隊長カルマニョーラの話」が、舞台となるヴェネツィアの歴史的背景を活写している。ヴェネツィアの場合にはまさにその地理的条件が、イタリア本土との微妙な関係を生み、また一方で外交と戦争の絶妙なバランス感覚を生んだのではないかという話。うーむ、資源に乏しい国、環境的な問題がつきまとう国が生き残るための手はずをどう整えるかというのは、やはり人ごとではないなあと思ったりもする……。

投稿者 Masaki : 22:34

2008年09月26日

絵画と影

久々の絵画論。読みかけだけれど、ヴィクトル・I・ストイキツァ『影の歴史』(岡田温司ほか訳、平凡社)がなかなかに興味深い。実は絵画において重要な役割を演じながら前面にはなかなか出てこない「影」について、その取り扱いや具体像をめぐる壮大な歴史絵巻をつづるかのような一冊。女性が恋人の影の輪郭をなぞったことを絵画の誕生とする逸話(プリニウスが伝えるもの)を改めて再考するところから始めて、プラトンの洞窟の譬えや、ナルキッソスの神話、さらにアルベルティの絵画論にまでいたるのが第1章。中世の光学理論のダンテによる取り込みから、15世紀のジョバンニ・ディ・パオロの陰影の使い分け、チェンニーニの『絵画術の書』、そして受胎告知その他の聖書的イコノグラフィーをめぐるのが第2章。

個人的にはこの第2章の後半部分が刺激的。導きの糸をなすのがニューヨークのフリックコレクションにあるフィリッポ・リッピの『受胎告知』。通常あるはずの象徴物(祈祷台とかベッドとか)がない代わりに、壁に映し出される聖母の影こそがその象徴なのではないかという話。ヴォラギネの『黄金伝説』の「影で覆う」というくだりが、まさに描かれているという解釈だ。同じくサン・ロレンツォ聖堂の別の『受胎告知』も、伝統的に画面を分割する柱をガブリエルが超えているという掟破りの(笑)構図はともかく、両者の間に置かれたフラスコとその影には、神学的なリファレンス(「花瓶を壊すことなく、それを通り抜ける光」)があるのだという。投影された影というのは、初期オランダ絵画の影響が強いのだそうだけれど、いずれにせよ、この影の描きこみの伝統は、受肉のイメージに強く結びついているのだという。うーむ、このあたりの問題機制、個人的にはちょっと是非を考える材料が乏しいのだけれど、いろいろ示唆に富むものであることは間違いなさそう。

せっかくなので、リッピによるそのサン・ロレンツォ聖堂の『受胎告知』を。

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投稿者 Masaki : 00:23

2008年03月02日

初期教父たちと書物

つねづね書物史の観点から古代末期・中世を論じたものを読みたいと思っているのだけれど、なかなか時間が取れなくて(と言い訳してみる)。そんな中、アンソニー・グラフトン&ミーガン・ウィリアムズの共著『キリスト教と書物の変容』(Grafton&Williams, "Christianity and the Tranformation of the Book", Belknap Press of Harvard University Press, 2006)をようやく読む。研究書ではあるのだけれど、かなり一般読者向きなのが好感を抱かせる。オリゲネス、パンフィロス、エウセビオスと続くギリシア教父たちが、いかに文献学的な関心を抱き、聖書の編纂作業などを通じて書物の変革(コーデックスの採用やインデックスの原型の成立)を導いたかを、当時彼らが活躍したカエサリアの社会状況なども踏まえつつ軽やかな語り口で論じていくというもの。オリゲネスのヘクサプラ(六表記での旧約聖書対照本)とエウセビオスの『教会史』を分析の中心に据えている。基本的スタンスは、まだかなりの少数派だった当時のキリスト教を擁護するための、論争での参照ツールとして、彼らは書物に独自の「レイアウト」を施し編纂を進めていったというもの。一方で、どこかそこには人間的な(というか)蒐集への熱情も見られたりもする。ツールとしての観点も重要だけれど、そうした背後で支えている動きとか、ツールを超えた影響力などのほうに個人的には関心がいく。少しそのあたりについて論じたものも探ってみたいところ。そういえばグラフトンについては最近邦訳で『カルダーノのコスモス』が出たけれど、脚注の歴史的研究などもあるようなので、ちょっと注目かも。また、ウィリアムズにはヒエロニムスを扱った同様の書物研究があって、これもちょっと見てみたいところ。

同書の表紙を飾っているのは、有名なアミアティヌス写本(ブリティッシュ・ミュージアム蔵、7世紀末から8世紀初頭)の挿絵。バビロン捕囚後にユダヤ律法を編纂した書記のエスドラスの姿を描いたものだけれど、これ、カッシオドルスの肖像画ではないかという話もあるようだ。

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投稿者 Masaki : 23:07