2008年06月16日

「在りて在る者」

先の『<エッセ>研究』に続き、山田晶『在りて在る者』(創文社、1979)を読んでいるところ。前論集がトマスのテキストからエッセ、エッセンティア、エクシステレの関係性の構造をまとめ上げたのに対し、こちらの論集では、さらにパースペクティブが広がり、トマスのエッセ把握がいかなる思想的基盤の上に立つのかをまず検討し、そのベースにある(と論じられる)出エジプト記の「在りて在る者」について、ジルソンのトマス解釈を批判し、さらにアウグスティヌスの神の理解が、同じような「存在としての神」に立脚していることを論じていく。

確かにジルソンは、トマスの「存在としての神」がそれ以前の伝統的理解に対して断絶していることを示し、トマスの革新性を大いに称揚してみせる。ところがこれは、対照的に言及されるアウグスティヌスの神理解についての、解釈的な誤りに基づくものである可能性が大きいのだという。アウグスティヌスは決して「エッセンティアリズム」(本質をベースにする考え方)で考えていたのではなく、そもそもアウグスティヌスの用語法でのessentiaは、ギリシア語のウーシアの翻案であって、意味的にはトマスのいうens(存在する者:有)とほとんど同義なのだという。全体としてはジェームズ・アンダーソンによるジルソン批判を手がかりに、議論が進められていくのだけれど、いずれにしても、やはりテキストの読みというのはかくも細やかな吟味が必要なのだなあということを、反省も含めて改めて思う。

後半の興味深い議論としては、トマスとアウグスティヌスは存在としての神という理解では共通基盤の上に立っているものの、その上で両者を分かつ点として、「存在するもの」としてだけでなく「存在せしめるもの」としての神の規定が、アウグスティヌスには不在であり、トマスがその点を補完しているのだという部分が挙げられる。アリストテレスの作用因的な考え方によって、存在は存在の原因となることができるというのがトマスの背景をなしているわけだ。これなどは、存在の分有の考え方を敷衍するような議論が出てきてもおかしくない、そういう素地を含んでいる気がする。実際、先日挙げたドミニク・ペルレールの本に、フライベルクのティエリー(ディートリッヒ)の知性論がどうやらそのようなものだったことが示されている。ティエリーの議論は、人間知性の中にもまた、創造、つまり対象物を存在せしめる働きがあるという、当時としてはかなりラディカルなものだったようだ。ティエリーはトマスの批判者として出てきた人物だけれど、なるほどある意味でその議論は、当のトマスに負っているのかもしれない……なんて。中世思想の断絶と継承は、なかなかスパッと割り切れるものではないということを再認識しているところ。

投稿者 Masaki : 23:06

2008年05月06日

エッセ研究……

世間的には連休も終わりだけれど、個人的に今年はずっとゲラ読みなどの仕事(笑)。で、それに並行して連休入りのころに古書で購入した山田晶『トマス・アクィナスの<エッセ>研究』(創文社、1978)をずらずらと読んでいる。いや〜これもかなりの労作で、それだけで頭が下がるのだけれど(「神の存在」という時のesseの意味を特定しようと、一般にその類語とされる(がトマスにおいては反対語的にすらなりうる)existereの用例をつぶさに全著作にわたって追っていくという第二章は、まさに力業)、esseとessentiaがいわば形相-質料、現実態-可能態に「類する」対立構造になっていることを明らかにするあたりなどは、なんだか不協和から和音の解決へといたる晴れ晴れとしたイメージをも思い浮かべさせる展開。で、どうやらesseの問題はトポスの問題へと進展していくらしい(って、まだその箇所まで行っていないので(笑))。おー、これはまた最近の宗教学の動向とも重なる……というか、改めて言うまでもなく、30年前という年月を感じさせない研究だなあと。

投稿者 Masaki : 23:46

2008年04月07日

モッラー・サドラー

先の山下志朗氏の著書といい、最近の永井晋氏の著書といい、このところ井筒俊彦氏の諸著作が個人的に存在感をいや増しつつある(笑)。そんな連関もあって、さしあたり古書で入手した井筒訳のモッラー・サドラー『存在認識の道』(井筒俊彦著作集10、中央公論社、1993)を通読する。本文もすこぶる明晰だけれど、井筒氏による巻末の解説が見事な整理。なるほど、アヴィセンナのいう「存在の偶有性」が、アヴェロエスや西欧においては曲解されている(ここでいう「偶有性」が範疇論的に捉えられてしまい、本質に後から付け加わるもののように見なされてしまっている)のに対して、モッラー・サドラーはこれを、本質が存立するとはすでにして存在が前提となっていて、本質に対して存在が偶有であるというのは、渾然一体となった外在物を理性が二次的に分析した場合にのみ、存在と本質の二項が同時に成立するかのように理解されるのだとする。存在と本質はこの場合、あくまで概念的区別であって実体的区別ではなく、解説によれば、それはまさにアヴィセンナの立てた両者の区分の本来的な解釈なのだという。それをベースに、モッラー・サドラーは、本質ではなく存在こそが実在性をもつという、スフラワルディーと対立する立場を取るのだという。うーん、これはなかなかに深いものが。現象学的な「現れ」とはまたベクトルの違う見識を、ここから抽出できそうな感じ……(?)。

モッラー・サドラーは17世紀初頭に活躍したイスラム哲学者。井筒氏によれば、アヴェロエス以降の12世紀から17世紀初頭までをイスラム哲学史上の第二期と見なせるのだといい、ペルシアを中心とする文化的繁栄期にあたるとされている。なるほど、アヴェロエスでいったん終息、なんていうのはやっぱり古い説だったわけか。

投稿者 Masaki : 22:47