2008年03月10日

[メモ]ドゥルーズ論

先日から読み始めた『ドゥルーズ/ガタリの現在』(平凡社、2008)。30編ほどの論文から成る大分な論集。こういうのが出るというのは、まだ出版界も捨てたものではないかも、としみじみ思う。まだ最初の5編ほどしか読んでいないのだけれど、前期ドゥルーズにはとりわけ思い入れがあるせいもあって、いずれもとても参考になる力作揃いという感じだ。「出来事」をめぐるドゥルーズのストア派的な生成論の諸相を解説する初っぱなの上野論文は、続く近藤(智)論文と好対照をなす。後者はドゥルーズのストア派解釈を、ソース(ブレイエやゴルトシュミット)から検証し直し、そのやや「牽強付会」な読みを証しつつ、その方向性自体は現代的な解釈に呼応することを指摘してみせる。郡司ほかの論文はマクタガートの時間論(時間の非実在を論理学的に証そうとする)を、そこに時間を生成する主体を持ち込むことによって相対化し、ドゥルーズ的な時間論の綜合をなそうとする。このあたりはちょっと反則的だけれど、結果的には時間の非空間論的配置みたいな話へと至っていて、個人的には刺激的。さらに近藤(和)論文は、ドゥルーズの使う微分の概念を問い直すという企図のもとに、ドゥルーズによるカント哲学の発生論的観点からの批判という論点を一巡して興味深い考察を展開している。経験に還元されることのない「理念」の性質を超越的規則の反復の様態に見るというそのスタンスと、以前の発生論的な微分法解釈とが重なり合うという指摘。ドゥルーズの用いる微分法が単なる比喩なのでもなく、ましてやソーカル的な断罪の対象になる無意味なものでもないことを巧みに論じている。これにはちょっと唸ってしまった。さらに続く原論文は、「強度」概念をこれまたドゥルーズが参照するソースに戻って考え直したもの。このように、なんだかドゥルーズ哲学の解釈は確実に新しい時代に入ったように思えて、とても喜ばしい気持ちになってくる。残る25編も、期待しつつ少しづつ読んでいこう。

投稿者 Masaki : 23:51

2007年10月18日

生物学の哲学?

ルース・G・ミリカン『意味と目的の世界』(信原幸弘訳、勁草書房)を通読。前に一度読みかけて、途中で放っておいたものを、思うところあって読み直し。これ、動物行動学的な記号の受容から人間の高次の記号処理までを、連続的な相のもとに捕らえ直すというちょっと面白い内容。自然的に突きつけられる「局地的に反復的な記号」を、動物は客観的事実とリアクションを起こす志向性とが渾然一体になったものとして受け止めるのではないかといい(そういう未分化の表象を、この本では「オシツオサレツ表象」と訳出している(笑))、そこからとりわけ目的状態の表象がいかに分化するのかを考えようというのが全体的な流れ。もちろん人間にいたっては、言語の使用がその高度な分化を支えるわけだけれども、その根底にあるのは、知覚に立脚するようなそうした原始的な記号把握にほかならないというわけだ。うん、そのあたりの痕跡めいたものは、近代以前の記号論、とりわけ中世の神学論などにも十分に残っている気がする、と(これはまあ、余談だけれど)。アフォーダンスをも取り込んだこの汎用的な記号理論は、どこか近代的な論理学の前段階というか、その基礎の部分をなしているようにも見える。論理学では有名な「フランス王はハゲではない」という内部否定の問題(フランス王が非ハゲなのか、フランス王の存在そのものが否定されているのかが未決定になる)がちらっと出てくるけれど、本書ではそれは認識論の方に開いている(同じこの否定問題が、文庫でつい出たばかりのラッセル『論理的原子論の哲学』(髙村夏輝訳、ちくま学芸文庫)にも散見されているけれど、合わせ読んでみると両者のコントラストが印象的だ……。けれども個人的には、この原始的記号成立の反復運動という意味で、これまた文庫で出たばかりのドゥルーズ『差異と反復』のほうに絡めて考えたい気がしたりする。それはまた後の話)。

投稿者 Masaki : 16:11

2007年08月09日

ホワイトヘッドと実在論

中世思想のはるかなる流れ。その下流にもいろいろな人物の思想がある。スコトゥスの再評価など、パースも独特な実在論を展開していたわけだけれど(普遍と個物を、確定性の強度という概念で読み替えている)、これまた面白そうなのがホワイトヘッド。少し前に、中村昇『ホワイトヘッドの哲学』(講談社選書メチエ、2007)に眼を通し、ちょっと触発されてしまった。「難解な哲学」を振り回す哲学者というものの、世間的な紋切り型のイメージに、たとえば「目の前のコップを見てもその存在論を問おうとする」みたいなものがあるようなのだけれど、ホワイトヘッドほどそういうクリシェに合いそうな人も珍しい(笑)。すべてのものが変化する世界観。その中で名詞的に固定されているものが、ホワイトヘッドの考える「普遍」で、それを「永遠的対象」というのだという。具体的に変化し続けているものを、人が認識論的に切り出すものがその永遠的対象で、それは最初から抽象物なのだ、という話。その抽象物は「可能性の領域で体系をなして潜在している」(p.106)とされる。なんだかこのあたりの話、中世の視覚理論あたりととても親和的な感じがするのだけれど(ロジャー・ベーコンとかね)。なるほどホワイトヘッドは、いわゆるケンブリッジ・プラトニストの流れを汲んでいるのだそうで。

河出・現代の名著シリーズで出ているホワイトヘッド『象徴作用他』所収の「斉一性と偶然性」では、「感覚対象が自然のなかへ進入することが、知覚的諸対象を意味づけ、そのことによって知覚的諸対象が関係性によって知られる」とし、知覚的対象というのは「アリストテレス的なゆきわたる形容態」だという。一つの椅子が一時間部屋にあったとすれば、その時間のどの一分間をとってもその部屋にあり続けたと認識させる。それが「ゆきわたる」性質といわれるものだという。うん?アリストテレス的って?いやー、いいねえ、こういう微妙なわかりにくさ、この触発的な感覚。最近復刊された『過程と実在』もぜひ読みたいと思っていて、楽しみだったりする(笑)。

投稿者 Masaki : 23:43

2007年08月01日

ミシェル・アンリ

現象学系の本はついどうしても流し読みになってしまう……本当はいかんのだけれど。とくに、ハイデガーはどうのこうの、フッサールはどうのこうのといったくだりなど、退屈なのですっぱりと読み飛ばしてしまったりする(苦笑)。というわけで、先頃邦訳で出たミシェル・アンリ『受肉--肉の哲学』(中敬夫訳、法政大学出版局)も、そんな感じでずらずらと。ギリシア的な「ロゴス」と相容れることのないキリスト教の「言」(御言葉)の受肉という概念には、実はそのギリシア的「ロゴス」が届かない、しかも覆い隠している根源へといたる「元・知解性」とでもいうべきものが秘められているのではないか、ということを、現象学的に論述していくというもの。種明かし(ネタばれ?)をすれば、その根源とは個々人の生を超えた根底的「生」で、「元・知解性」としての「言」とはいわばロゴスの古層ということになり、「言が肉となった」というヨハネの一節などは、まさにそれを理解したものとして読むことができる、というわけだ。近年、現象学的(?)な聖書の解釈はなんだか妙に西欧思想の主流のようになっている気がするけれど、これもまたかなり思弁的な読解。記述は煩雑ながら、メインストリームはなかなか刺激的というか挑発的といういか。思想史的にも、キリスト教の受肉の問題はとても重要な部分だけに、歴史的・歴史哲学的な考察ももっとあっていいかも、と。とりわけ惹かれるのは、初期教父のテキストが援用されているところ。テルトゥリアヌスはマルキオンへの反駁で、肉を世界の現れに関連づけ、世界の素材・内容物として解釈しているのだというし、エイレナイオスも同じくグノーシス派への反駁で、肉が「生」そのものに由来すること、肉のうちへの生の内在を論じているのだという。うーん、そういう読みの妥当性を問うためにも、テルトゥリアヌス『キリストの肉体について』と、エイレナイオスの『異端反駁』はぜひ読んでみたいところだ(この後者、通読するとなると仏語訳でも9巻本とちょっと長いのが玉に瑕か……)。

投稿者 Masaki : 22:04