2008年03月26日

[メモ] 顕現しないもの……

近年のフランス現象学の動向はなかなか面白いものがあるのだけれど、その流れで、永井晋『現象学の転回--「顕現しないもの」に向けて』(知泉書館、2007)を読んでみる。なるほどこれは、現象学の最近の流れを批判的に見据えつつ、非西欧圏ならではの解釈の可能性を探ろうとするもの。全体は3部構成で、第1部ではフランス現象学の問題・限界が論究される。マリオンの「飽和的現象」とかアンリの「受肉」などが、単なる神学への回帰などではなく現象学的な深化を目指すものであるとして評価する一方で、それらが「顕現しないもの」という現象の根源的な部分にいたる上では不十分であることを論じている。整理としてとても参考になる。第2部になると、そうした根源への潜行のためのモデルとしてカバラ思想を取り上げ、それを現象学的な探求と重ね合わせることが試みられる。うーん、しかしこのあたりになると、どこか言葉での記述の限界(言語のアプローチは、外枠を作れるだけなのでは?とか)の問題が絡んでくる感じで、モデルの提示から先に進むことができるのかどうかが問われてくる……。同書では第3部が一応その応用形になってはいて、井筒俊彦やアンリ・コルバンをもとに、イスラムの修行実践のモデル化(カバラのモデルとパラレルなもの)が論じられ、さらに「顕現しないもの」への直截的・非言語的アプローチを、近・現代絵画(キーファーなど)の展開に見るといった話になる。

さらには日本の民俗学のある意味要をなす、妖怪学への現象学的アプローチが論じられている。個人的にはこれがとりわけ示唆的だ。民俗学の構造的な認識とも、フロイト心理学の解釈とも次元の異なるレベルで、怖れという現象が立ち上がるその根源へとアプローチしようというもので、とりあえずは序論という感じだけれども、これはぜひ論の展開・深化を待ちたいところ。

投稿者 Masaki : 23:38

2008年02月28日

直観と照明

このところジャン=リュック・マリオンの『可視と啓示』("Le Visible et le Révélé", Les Éditions du Cerf, 2005)を読んでいる。この二章目「飽和的現象」がめっぽう触発的だ。現象とはそもそもおのずと現れいずるものとされるわけだけれども、ではフッサールの現象学はその現象の「現れ」を捉え切れているのか、というところから考察が展開する。答えはノン。なぜかというと、フッサールが原理として掲げる「直観の原理」は無条件での現象の現れを許容しないから−−つまり直観は、現れの前提として「自己」と「地平」の制限を枠組みとしてもっていて、すでにしてまったく自在な現れを捉えているわけではないから。そこでマリオンは、そうした無条件の現象の現れを捉える方途をさぐるべく、カントに遡る。カントにおいては現象は直観の欠如とその欠如の痕跡を携えて現れるということを指摘した上で、その芸術的直観論に目をむけ、その過剰の与件、直観への与件の横溢(ゆえに言葉にならない)から、飽和的直観という概念を取り出してくる。それを、現象の現れを捉えるための契機として鍛えなおす、という寸法だ。この本、「哲学と神学」というシリーズの一冊なのだけれど、この章などはまさに至福直観、一種の宗教的現象学という感じで興味深い。

で、考えてみると、これは長い系譜をもった議論だという気もする。カントよりさらに前なら、とりあえずガン(ゲント)のヘンリクスあたりに遡ってもいいかもしれない、と。先に触れた『哲学の歴史』第3巻には、ガンのヘンリクスについての一章があり(加藤雅人氏)、スコトゥスとの対比という形でヘンリクスの思想がよりよく理解できるとされている。で、そこで取り上げられているのがヘンリクスの「神の照明」論。これはつまり、トマス派の存在の類比をベースに、人間知性と神との絶対的な溝を措定した上で、人間知性による神の認識を可能にする・神に向けて開くものとして、神的な光に照らされなくてはならないという考え方。この意味でスコトゥスの存在の一義性と対立する(そちらでは照明は不要になる)わけだけれど、いずれにせよここで問題になっているのも、やはり世界の立ち現れ方への認識論(イコール存在論)であることは間違いない。マリオンの問題意識を引き受けながらガンのヘンリクスを読んでみるというのは、刺激的なのではないかな、と。

投稿者 Masaki : 23:11