2008年10月27日

「かたち」の不思議さ

『自閉症の現象学』でも取り上げているトピックとして「純粋知覚」の問題がある。自閉症児の知覚が二次元的なものに始終することから、逆に三次元的な理解の本質(見えないものの概念的な取り込み)が明らかになる、というわけだが、こうした問題を別の角度からアプローチしようとしている本に、加藤尚武『「かたち」の哲学』(岩波現代文庫)がある。もとは91年に中央公論社から出されていたもの。こちらが挙げる例は、開眼手術で目が見えるようになった人は、それまで触知していた物体を認識できるか、という17世紀の「モリヌークス問題」なるもの。ここから純粋知覚なるものが光と色だけの世界であって、両者が結合し像を結ぶにはそれなりの馴れというか訓練が必要になるという話が展開する。まさに概念的な知覚方法の「インストール」だ。いったんそれがインストールされると、だまし絵的で三次元的に見える絵柄はそれ以外のかたちには見えなくなるという例が続くが、同書の場合にはそのインストールの手続きそのものへと降りていくことはせず、むしろそのインストール前の世界を取り上げた歴史的な探求に遡及の途を求める。なるほど、これはこれで思想史的な目配りという意味で興味深い(著者が思考実験的に挿入するフィクショナルな話はともかく(笑))。

考えてみると、そうした純粋視覚とまではいかなくても、視覚の安定性が崩れて、どっちつかずのゆらぎが生じるといった体験は、時に美術館などでも味わうことができる。つい先週、上野で開催中のフェルメール展を見たのだけれど、フェルメールそのものの絵よりも、参考展示のほうに個人的には面白いものが多く、フェルメールの影響を色濃く受けているピーテル・デ・ホーホなどは、遠近法の用い方、室内画の窓の位置、明かりの入り方などの微妙な不自然さが興味深く、遠目に全体として見るとあまり違和感がないのに、よく見れば見るほど不安定な視覚体験を味わえる(笑)。ここでも、デ・ホーホの「幼児に授乳する女性と子供と犬」を挙げておこう。

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投稿者 Masaki : 23:14

2008年10月26日

ローレベルプログラミング的現象学

C言語とかのプログラミングを囓ると、ある意味でその中で完結してしまい、より低次のアセンブラとか、機器の出入力を扱う分野はまったくの異世界となってしまう。けれども両者は密接に連動しているわけで、本当はそうした低次の世界の理解がなければ、コンピュータなどの機器を理解することにはならない……。で、まったく同じようなことが、たとえば人間についての現象学的理解についても言えるのだということを、まざまざと見せてくれる一冊があった。村上靖彦『自閉症の現象学』(勁草書房、2008)。まだ読みかけなのだけれど、自閉症児の症例に現象学的なアプローチをかけることによって、定型発達といわれる一般人についての伝統的現象学が取りこぼしててきた部分、まさに上の高次言語の世界とは異質な低次の世界に光を当てようとする、大変スリリングな試み。前半を通じて問題とされる「視線触発」(目を合わせることによる知覚成立の根源か)という概念などは、プログラミング的にはまさに装着機器のドライバレベルの接触・認識の手順という感じ。こうしたプログラミング的発想は実は同書のなかに色濃く出ていて、著者はときおり、「インストール」といった言葉を使っていたりもする。ローレベルの世界に降りていくために、自閉症という症例を考察するというアプローチそのものが、まさに慧眼。なるほどこんな世界もありうるか、という大変刺激に満ちた一冊。

投稿者 Masaki : 23:38

2008年03月26日

[メモ] 顕現しないもの……

近年のフランス現象学の動向はなかなか面白いものがあるのだけれど、その流れで、永井晋『現象学の転回--「顕現しないもの」に向けて』(知泉書館、2007)を読んでみる。なるほどこれは、現象学の最近の流れを批判的に見据えつつ、非西欧圏ならではの解釈の可能性を探ろうとするもの。全体は3部構成で、第1部ではフランス現象学の問題・限界が論究される。マリオンの「飽和的現象」とかアンリの「受肉」などが、単なる神学への回帰などではなく現象学的な深化を目指すものであるとして評価する一方で、それらが「顕現しないもの」という現象の根源的な部分にいたる上では不十分であることを論じている。整理としてとても参考になる。第2部になると、そうした根源への潜行のためのモデルとしてカバラ思想を取り上げ、それを現象学的な探求と重ね合わせることが試みられる。うーん、しかしこのあたりになると、どこか言葉での記述の限界(言語のアプローチは、外枠を作れるだけなのでは?とか)の問題が絡んでくる感じで、モデルの提示から先に進むことができるのかどうかが問われてくる……。同書では第3部が一応その応用形になってはいて、井筒俊彦やアンリ・コルバンをもとに、イスラムの修行実践のモデル化(カバラのモデルとパラレルなもの)が論じられ、さらに「顕現しないもの」への直截的・非言語的アプローチを、近・現代絵画(キーファーなど)の展開に見るといった話になる。

さらには日本の民俗学のある意味要をなす、妖怪学への現象学的アプローチが論じられている。個人的にはこれがとりわけ示唆的だ。民俗学の構造的な認識とも、フロイト心理学の解釈とも次元の異なるレベルで、怖れという現象が立ち上がるその根源へとアプローチしようというもので、とりあえずは序論という感じだけれども、これはぜひ論の展開・深化を待ちたいところ。

投稿者 Masaki : 23:38

2008年02月28日

直観と照明

このところジャン=リュック・マリオンの『可視と啓示』("Le Visible et le Révélé", Les Éditions du Cerf, 2005)を読んでいる。この二章目「飽和的現象」がめっぽう触発的だ。現象とはそもそもおのずと現れいずるものとされるわけだけれども、ではフッサールの現象学はその現象の「現れ」を捉え切れているのか、というところから考察が展開する。答えはノン。なぜかというと、フッサールが原理として掲げる「直観の原理」は無条件での現象の現れを許容しないから−−つまり直観は、現れの前提として「自己」と「地平」の制限を枠組みとしてもっていて、すでにしてまったく自在な現れを捉えているわけではないから。そこでマリオンは、そうした無条件の現象の現れを捉える方途をさぐるべく、カントに遡る。カントにおいては現象は直観の欠如とその欠如の痕跡を携えて現れるということを指摘した上で、その芸術的直観論に目をむけ、その過剰の与件、直観への与件の横溢(ゆえに言葉にならない)から、飽和的直観という概念を取り出してくる。それを、現象の現れを捉えるための契機として鍛えなおす、という寸法だ。この本、「哲学と神学」というシリーズの一冊なのだけれど、この章などはまさに至福直観、一種の宗教的現象学という感じで興味深い。

で、考えてみると、これは長い系譜をもった議論だという気もする。カントよりさらに前なら、とりあえずガン(ゲント)のヘンリクスあたりに遡ってもいいかもしれない、と。先に触れた『哲学の歴史』第3巻には、ガンのヘンリクスについての一章があり(加藤雅人氏)、スコトゥスとの対比という形でヘンリクスの思想がよりよく理解できるとされている。で、そこで取り上げられているのがヘンリクスの「神の照明」論。これはつまり、トマス派の存在の類比をベースに、人間知性と神との絶対的な溝を措定した上で、人間知性による神の認識を可能にする・神に向けて開くものとして、神的な光に照らされなくてはならないという考え方。この意味でスコトゥスの存在の一義性と対立する(そちらでは照明は不要になる)わけだけれど、いずれにせよここで問題になっているのも、やはり世界の立ち現れ方への認識論(イコール存在論)であることは間違いない。マリオンの問題意識を引き受けながらガンのヘンリクスを読んでみるというのは、刺激的なのではないかな、と。

投稿者 Masaki : 23:11