同論文によれば、占星術師や錬金術師を含む当時の著述家たちが教会との軋轢を回避するためのポイントだったのは、一つには決定論を避けること、もう一つには悪魔との関係を示さないことだった。で、どうやらチェッコの場合にはその両方で不作法を働いていたらしい。なにしろ、占星術を講じるなという異端審問官の命令を破るなどの経緯もあったようで、それらが重なって重罪とされたようだ。そのチェッコとは対照的に、軽い処分で済んだ人々もいろいろと挙げられている。個人的な関心にも重なるところで言えば、たとえばパルマのブラシウス。カトリック信仰に反する発言で逮捕され、地元パルマの司教の前に連れて行かれたものの、二度とやらないと約束して無罪放免となった。また、アリストテレスやオッカムを批判したオートレクールのニコラ。ニコラはパリ神学部の要請で自説を一部撤回しているという。論文著者は、これらの事例からある側面を一般化として取り出してみせる。それは、パリ大学の神学部が異端取締りの機能をもっていたという点だ。パリはその点でほかの大学と違っていて、しかも大学を越えた管轄権をもっていたとされる。ゲストとしてパリ大学を訪れていたに過ぎなかったヴィラノヴァのアルノーや、同じくパリ訪問中だったアーバノのピエトロなどが、異端の嫌疑をかけられたりしているのがその証左だという。かたやオックスフォードは自由学部の力が強く、たとえば後に異端とされるジョン・ウィクリフなどは、みずからが神学部のシニアメンバーだったほどだ。とはいえ、そちらも徐々に取締りは強化されていったらしい。中世盛期の大学は世俗と教会それぞれの権威者たちによる一種の共同事業で、このように大学みずからが関係者やその製作物を監視するという側面を持ち合わせていたといい、一方で神学と自然学などの境界もはっきりしてはおらず、とくに後者が前者に侵入してくることを神学の側は強く警戒していた。そうした複合的な背景の上に、今でいう偽科学の実践者たちの微妙な立ち位置があった、ということのようだ。