ロリー・コックス「トマス・アクィナスまでの歴史的「正義の戦争」理論」(Rory Cox, Historical Just War Theory up to Thomas Aquinas, Oxford Handbook of the Ethics of War, Oxford Univ. Press, (forthcoming))という論考を見てみた。「正義の戦争」論は古代ギリシアから綿々と受け継がれてきた西欧的な戦争の倫理的正当化論で、同論考はこれを中世まで通史的に取り上げた概説なのだが、これがなかなか興味深い。日本にあっては、ある意味タイムリーかもしれない。まとめとして有益だと思うのでとりあえず内容をかいつまんでメモしておく。まず古代ギリシアにおいては、非ギリシア人は本性的な敵であるとされ、それに対する戦争は直ちに正当なものとされる一方、ギリシア人同士の戦争は本性に反するという意味で謀反と一括された(プラトン『国家』)。次いでこれを引き継ぐ形で、コミュニティと共通善の擁護のためのいわば自衛の戦争が正当化される(アリストテレス『ニコマコス倫理学』)。一方で帝国的な領土拡張の戦争も大目に見られている……このあたりは奴隷の正当化と同様だ。これと、主にストア派に由来する自然法の考え方がローマに受け継がれ、平和の回復としての正義の戦争という解釈が唱えられる(キケロ『義務について』『国家について』)。正義の戦争はキケロにより(1)自衛、(2)損害の修復、(3)不正への処罰を条件として既定される。帝国の領土拡張もまた、国家の栄光という意味で容認されているという。
ローマ時代の初期キリスト教においては、ローマの軍役への信徒の参加問題が大きなテーマをなしていた。テルトゥリアヌスやオリゲネス(3世紀)は軍役を避けがたいもの、潜在的には正当でありうる活動と見なしていた。ミラノのアンブロシウス(4世紀)は、キケロの議論とキリスト教神学を組み合わせ、倫理的に許容されうる戦闘行為を規定した。ギリシア・ローマの伝統的な戦争の考え方には、ベースにはやはり自然法に則った「自己保存」の権利という概念があったが、アンブロシウス時代のキリスト教においては、自己を守るために他者に暴力を働くことは、精神的な健全さという意味で問題があるとされた。アウグスティヌスになると、現世の統治の不完全さゆえに、戦争は不可避であるという見解を示すようになる。さらに、旧約聖書をもとに、戦争が正義のための手段になりうるという議論も示される。正義の戦争の条件として、適切な権威、正当な大義に加え、正しい意図(慈悲の心)が必要とされる。
ここまでは「戦争に向けて(開戦前)の法」(jus ad bellum)は問われても、「戦争における(戦時下の)法」(jus in bello)はあまり問われていない。けれども時代が下ってくると、この後者が徐々に問題になってくる。教会法を整備したグラティアヌス(12世紀)は、教会が宣言する戦争も世俗の権威が起こす戦争と質的な違いはないとし、キケロ的な伝統(イシドルスを経由)やアウグスティヌスにもとづいた正当化を行っている。13世紀の教会法学者たちになると、さらに暴力行為の序列を考察するようになり、戦争における法(戦時下の行動)についての議論が重要視されてくる。それを体系化するのがトマス・アクィナスで(『神学大全』)、正しい意図という議論が前面に出てくる。自然法的な戦争の正当化を論じれば、敵側にも同じような正当化を認めなくてはならなくなり、するといかなる倫理的行為であろうと、善悪の両方の結果をもたらす場合があるという認識が必要になる。そのネガティブな結果を正当化するのは、意図の正しさでなくてはならない、というわけだ。
……というわけで、同論考は、古典時代から初期教会、中世盛期にいたるまで、戦争に関する倫理的議論の豊かな伝統があったことを示してみせる。トマスはある意味、「開戦前の法」と「戦時下の法」とが表裏一体であることを説いているといい、実際当時の議論においては、戦闘員の行動を「正しい意図」で縛ることと、高位聖職者などの権威者らによる開戦そのものの制限の問題とは、相互に分かちがたく絡み合っているのだという。そこから一連の高度な、複雑な倫理的思想が生み出されていったのというのだが、さて、では今日のどこぞの国は、そのような洗練された議論を生じさせることが果たしてできるのだろうか……?