週末はちょっと体調を崩しダウン。一回更新が抜けてしまったが、気を取り直して今読んでいるものを。話題作となっていた松山洋平『イスラーム神学』(作品社、2016)を読んでいるところ。スンナ派(ジャーナリズム的表記ならスンニ派だが)について、その下位の分派(アシュアリー派、マートゥリーディー派、ハディースの徒)ごとにスタンスの違いなどを詳述した100ページ強の第一部に、ナサフィー『信条』の邦訳とその個別的な解説からなる300ページほどの第二部が続くという、ちょっと面白い構成になっている。とりあえず第一部を通読したが、「スンナ派」と一口で言うものの内情は、分派によって様々に異なっていることがよくわかる。とはいえ決して図式的に割り切れるものでもなく、分派といえど思想内容は細部にいたるほど相互に入り組んでくる(キリスト教だってそれは同様だけれど)。
各派(アシュアリーとマートゥリーディー)での表現の違い、意味の違いが問題になっている事例として、「信仰表明における限定句挿入の是非」問題というのがあるのだそうで、これはなかなか興味深い。要は、信仰者が「私はまことに信仰者である」と述べるのがよいのか、それとも「私はアッラーが望めば信仰者である」と述べるのがよいのかという問題(p.51)。マートゥリーディー派は「アッラーが望めば」という挿入句を「信仰に疑念が生じる」として斥け、アシュアリー派は死ぬときまで信仰が保たれるかどうかは神のみぞ知る不可知の領域のことなのだからとして、挿入句を義務づけるのだという。なにやらこれ、キリスト教世界の「フィリオクエ問題」(カトリックと正教会を分けた、聖霊が父から生じるか、父と子から生じるかという問題)にも似て(とはいえ分裂の規模はキリスト教世界のほうがはるかに大きいが)、同じような表現の違いが分裂を特徴づけている点がとても興味深い。ちなみに同書の後半で取り上げられるナサフィーの『信条』はマートゥリーディー派のようで、挿入句を付けない立場を取っている(p.137)。