新しいミメーシス論

プラトンとミーメーシス (プリミエ・コレクション)田中一孝『プラトンとミーメーシス (プリミエ・コレクション)』(京都大学学術出版会、2015)を読了。プラトンの『国家』には、ミメーシス(模倣)に関する議論が主に二箇所で展開されている(3巻と10巻)が、3巻においては理想国家の教育のために詩人や物語作家が採用されているのに対し、10巻では「詩人追放論」が展開されている。この齟齬をどう考えるべきかというのは結構古くからある問題設定。で、同書はこの問題に、ミメーシスの構造的な面からアプローチをかけようという意欲作。問題設定もさることながら、その問題への回答もまた古くからあり、たとえばプロクロスは、似像の製作と現れの製作とを区別し、前者は国家に受け入れられるもの、後者は批判の対象となるものと解釈しているという。そのはるか後世にいたっても、良いミメーシス、悪いミメーシスを分けて振り分けたりする議論があるらしい。けれども同書の著者は、そうした二分論を斥ける視点を示そうとしている。プラトンの議論にはそうした二分論を促すような両義性こそあるものの、実は構造的には(『国家』ばかりか『ソピステス』なども含めて)同一の考え方が貫かれているのではないか、というわけだ。

で、ミメーシスの構造云々(模倣の三項性とか、模倣者と受け手の関係性とか)という話になるわけだが、そこで重要なのは、模倣行為というものは必ずや観客(それを通じて教育を受けるものをも含めて)巻き込むものであり、模倣対象(すなわち像・現れ)に没入させることで、見る者の非理知的部分に働きかけるとされる点だ。とくにそれは古代ギリシアの教育的伝統でもあった詩劇において顕著なのであり、それゆえに詩人の影響力は絶大とされ、これこそが理想国家の側に立った場合の詩人への批判の根拠になり、詩人のみがとくに追放される理由となる、というわけだ。絵画その他の技芸の模倣術は、そこまで没入的ではなく、理想国家の管理下に置くことができるということになる。同著者はこのミメーシス論を一種のメディア論として読む可能性を示唆しているが、なるほど面白い解釈であることは間違いない。また末尾には、『ティマイオス』でのデミウルゴスの振る舞いをミメーシスとして読み取る従来のやり方は、それまでの構造的な議論からすると妥当ではないという見解が示されていて、これもまた興味深い。