ハイデガーと革命運動

哲学とナショナリズム―ハイデガー結審これも年越し本から。思うところあって、中田光雄『哲学とナショナリズム―ハイデガー結審』(水声社、2014)を読んでみた。ハイデガーのナチスへの加担について再考した一冊。古き良き哲学書を彷彿とさせる晦渋な文章だが、基本的にはハイデガー哲学の基本図式、ドイツにおけるナチス運動の展開、そして両者の関係性などを取り上げ、ハイデガーが厳密に何に加担し、何に加担していないかを明らかにしようとしている。全体の重要なポイントというか、中心的な枠組みをなしているのが、西欧語においていわゆるbe動詞が含み持つ、「〜である」というコプラの用法と、「〜がある」という存在規定の用法だ。前者が織りなすのは事象が相互に照応する、秩序ある世界であり、後者はそれに対するある特定事象の屹立を示すものとなる。これは一種の上部構造と下部構造でもあって、前者によって後者は取り込まれ、全体の下支えとして閉覆・亡失されてしまう。ハイデガーはまさにそうした「〜である」の織りなす秩序に、その底部をなす「〜がある」の実存・存在を暴き出すことで、そこにある種の哲学的な社会革命運動をもたらそうとしているのだ、と解釈される。それはハイデガーの思想の要所として、繰り返し出てくる図式だとされる。

この図式に、ドイツ哲学がもとより孕んでいた一種のナショナリズム(民族主義)が重ねられる形で、ハイデガーの初期ナチス運動への賛同が理解される。欧州の諸民族がひしめき合う中にあって、ドイツ民族は一つの民族として普遍の相において屹立しなくてはならない……こうして、本来ナショナリズムとは相容れないかに見える哲学的な普遍的思考が、存在論を介してややねじれた形で結びつく。それはナチスの初期の運動の理想に呼応するというわけだ。けれども現実には、「〜である」に結局は呑み込まれてしまうかのようにナチスの運動は変貌していき、ハイデガーの目した企図も頓挫することになる、と。では、同書が示すように、ハイデガーのナチスへの加担は本質的な加担ではなく、ドイツ・ナショナリズムの伝統とドイツ哲学の共通特性の類同性をもっているにしても本質的な同一性ではないとして、ハイデガーを無罪放免すればそれでよいのだろうか。それほどまでに「〜である」の蔓延が猛威をふるうものなのだとしたら、少なくともその固着化を、あるいはそうしたbe動詞に立脚する図式そのものの妥当性を分析するのでなければ、ハイデガーの未完の運動を継承するものとして新たに引き合いに出されているEU運動にしても、再び同じような陥穽に陥ることになるのではないか(現にそうなってきている?)、といったことを思わないわけにはいかない。