先日も触れたように、「人間不在の思想というのは可能か」ということを考えている今日この頃なのだが、そうした思想展開の事例として人類学(の存在論的転回?)があるという話(もしそうなら、それはそれでずいぶんと逆説的な話だなとも思うのだが)で、改めて確認してみようと思い、ほぼ一年遅れで、『現代思想 2016年3月臨時増刊号 総特集◎人類学のゆくえ』(中沢新一監修、青土社、2016)を眺めているところ。この中でとくに個人的に惹かれたのは清水高志「幹-形而上学としての人類学」という論考。レヴィ・ストロースの衣鉢を継ぐフィリップ・デスコラの文化の類型論を、ミシェル・セールがいわば換骨奪胎して取り込んでいるという話をもとに、新たな形而上学の幹細胞のようなもの(ゆえにそれは幹-形而上学と称される)として理論化する途を探っていこうとするもの。セールはこれまでも、ラトゥールの提唱する科学の人類学、とくにそのアクターネットワークの着想源(『パラジット』での準・客体論)として、人類学的なものに関係づけられてきた経緯があるというが、この幹-形而上学は、ラトゥールによるそちらの精緻化で取り込まれなかった別筋の思想的命脈を精緻化させようという目論みだという。で、同論考においては、そこにライプニッツが絡み、ジェイムズの根本的経験論、さらには西田幾多郎の純粋経験論が絡んでくるという後半の展開がまたいっそう興味深い。
そういえばこの著者はミシェル・セールについての書籍をいくつか書いている人だっけと、積ん読の山から、清水高志『ミシェル・セール: 普遍学からアクター・ネットワークまで』(白水社、2013)を引っ張り出してみた。で、同書の第5章から第6章(それら二つの章が第三部「人類学」をなしている)を眺めてみた。第5章はセールの『パラジット』の内容を、「腐る貨幣」による根源的(かつ別様の)交換というテーマを軸にまとめている(たしかにセールの同書では一種の腐敗・発酵のテーマが様々に繰り返され変奏されていたように記憶する)。第6章では『作家、学者、そして哲学者は世界を一周する』を取り上げている。セールのその本は未読なのだけれど、デスコラの文化の四類型をセールがどう取り込んでいるかが示されていて興味深い(その類型を、枠組みとしてではなく、混淆したり分岐したりする現実世界の複雑な関係を捉えるための手段・方法として見ているのだという)。また、メイヤスーなどの立場との関連性なども明らかにされている。主体・客体の相関主義よりも手前にあるモノを捉えようとすることで、セールの問題系とそれは一部で重なり合うのだ、と……。(でもこれは、人間不在というのとはちょっと性質の異なる議論ではある……)